(1)続・漫画「はだしのゲン」削除問題を考える
(2)坂本龍一の死から「小泉文夫の仕事」、そして「他大学への盗講」を思い起こす
(1)続・漫画「はだしのゲン」削除問題を考える
広島市の平和教育プログラムの教材『ひろしま平和ノート』からの漫画「はだしのゲン」削除問題について、3月14日のこのブログで、「広島文学資料保全の会」の池田正彦さんの鋭い批判を紹介させていただきました。これを読まれた池田さんの親友であられる笹岡敏紀さんが、東京新聞のコラム「ぎろんの森」の編集部宛に3月17日に送られた書簡を、笹岡さんご本人のご了承をいただき、ここに掲載させていただきます(東京新聞は、この書簡を掲載してはいないようです)。
笹岡さんは、学校用学習教材や教職員向けの教育書を出版している明治図書出版に勤めておられた経歴をお持ちで、原爆関連の文芸についても深い見識をお持ちの方です。土屋時子・八木良広共編『ヒロシマの「河」――劇作家・土屋清の青春群像劇』(藤原書店 2019年)にも「今、私の中に蘇る『河』――労働者として生きた時代と重ねて」と題した素晴らしい論考を寄稿しておられます。笹岡さんも、「中国新聞」3月7日付の3人の紙上討論が、「はだしのゲン」が世界各地でいかに広く受け入れられているのかという「現代的かつ歴史的意味」について全く議論していないことを厳しく批判されています。私も全く同感です。
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「東京新聞・ぎろんの森」欄・編集部御中
笹岡 敏紀
前略
取り急ぎ、お手紙を差し上げます。
この度は、貴紙の3月11日付「川柳」欄に掲載された1首の「川柳」から考えたことを、お便りとして差し上げます。
その1首とは
どの面でゲンを追い出しG7
というものです。
この1首の意味するところは、広島市の教育委員会が「平和教育・教材」に長年採用されていた「はだしのゲン」を他のものに差し替えることの背景には、この5月に開催されるG7のことがあり、広島教委の忖度か何らかの圧力かが存在するのだろうと皮肉ったものですね。
なぜ、「はだしのゲン」の削除とG7がかかわるのでしょうか。私はこのことを考える途上、あるブログを読む機会がありました。同封させていただいた資料1です。
私は、このブログに書かれている分析が、基本的問題を鋭く指摘していると思いました。そして、冒頭紹介した川柳の持つ意味を、端的に解説しているのではないか考えたのです。
そして、このブログの最後には、「はだしのゲン」削除問題についての論考を紹介するとして、資料2が載せられていました。
この論考の筆者の池田正彦さんは、「広島文学資料保全の会」の事務局長として長年活動している人であり、私の長年の友人でもあります。上記の田中利幸氏は、池田さんのことを「広島文学関連資料の生き字引」と言っています。なお、「広島文学資料保全の会」が今進めている活動の一つに同封の資料3のようなものがあります。また、最近では資料4のような取り組みが地元の「中国新聞」(毎日新聞・広島版でも)で報道されています。
さて、私がこのたび、「はだしのゲン」の問題でお手紙を差し上げようと考えたのは、貴紙「東京新聞」3月7日付夕刊に掲載された「『はだしのゲン』問題の本質とは」という川口隆行氏の寄稿文を読んだことによります。
じつは、この川口氏は同じ3月7日に「中国新聞」にも2人の論者とともに、「はだしのゲン」の問題について寄稿しています。資料5がそれです。
資料2の池田正彦さんの論考は、この「中国新聞」の3人の論者への批判です。
私は、この3人の論者の意見を、不思議な思いで読みました。それは、「はだしのゲン」という作品の大切さについての考察がなされていないことです。「はだしのゲン」という作品が、日本国内のみならず、世界の「核廃絶」をめざす人びとにいかなる意味をもって受け止められているかという、現代的かつ歴史的意味をきちんと書かないまま、ただの「教材論」をいかように論じても意味はないと思ったからです。
なお、「はだしのゲン」だけでなく、中学校の教材から「第五福竜丸」のことも削除するということは、まさにこの川柳が言っていることなのでしょう。
なお、けっしてついでで申し上げるのではなく、池田正彦氏からのメールでは「先日亡くなったなった大江健三郎氏が『広島文学資料保全の会』の代表である土屋時子氏宛ての書簡(2014年9月)の中で、『広島文学資料』(に限らないのですが)の保存に触れ、「大事な資料は、公的な場所に登録した上で、パブリックな場所で公開されるべき」という趣旨のことを述べられていたそうです。
「広島文学資料保全の会」は、これまで機会あるごとに「広島に文学資料館を」と行政に要請しています。とりわけ、「原爆文学とその関連資料」は、日本だけでなく世界の遺産でもあるでしょう。それが、資料3にある運動の基底にある思いだと思います。
今回の「はだしのゲン」の問題は、ほんとうにさまざまなことを考えさせてくれます。
取り急ぎ、広島教委の「平和教育教材」からの「はだしのゲン」外しについての、私見を申し上げました。
草々
2023年3月17日
資料 1 田中利幸氏のブログ(3月14日)
資料 2 池田正彦氏の論考
資料 3 広島の被爆作家の被爆直後の資料を「世界の記憶遺産登録に」を応援する署名
資料 4 「広島文学資料保全の会」の最近の取り組み(新聞記事―峠三吉の「碑前祭」<毎日新聞・広島版 2023年3月8日付「平和を願い問うた詩 峠三吉 今何思う…」>)
資料 5 「中国新聞」3月7日付 3人の紙上討論
(2)坂本龍一の死から「小泉文夫の仕事」、そして「他大学への盗講」を思い起こす
4月2日に亡くなった坂本龍一の生涯に関する「文春オンライン」の4月2日付の記事に次のような説明があるのを見つけた。
「藝大に入学した坂本龍一は音楽学部の雰囲気に猛烈な違和感を感じたそうだ。とくにクラシックを学ぶ同級生たちは品の良いお嬢さん、お坊ちゃん的な空気を纏まとう学生が多く、自分のようなタイプの人間はそこでは異質な存在と思えた。
<学校の外の路上では連日何十万人規模のデモ隊と機動隊がぶつかりあっているのに、音楽学部の中はお花畑のようで、安穏とした雰囲気の中でお互い“ごきげんよう”なんて挨拶している世界(笑)。なるべく近づかないようにしていました>
三善晃や小泉文夫など魅力的な教官とその授業はあったものの、坂本龍一の足は次第に音楽学部から遠のき、道を一本隔てたところにある美術学部のキャンパスに入り浸るようになっていった。………
授業はさぼりがちだったが、小泉文夫の民族音楽の授業、三善晃の授業はときに履修資格もないのに熱心に受けた。」(強調:田中)
この文章から、すっかり忘れていた小泉文夫(1927-1983)のことをマザマザと思い起こし、この数日、私も当時を懐かしく回想している。私は坂本とは2年ほど歳上だが、ほぼ同じ時期に学生生活をおくっている。私もほとんど授業には出ずに、学生運動にのめり込んでいたが、音楽が子どもの頃から大好きだったので、ラジオでは音楽関連の番組によく耳を傾けていた。
そんな番組の中で NHK-FM が放送していた長期連続番組の小泉文夫の「世界の民族音楽」は、私が毎回最も楽しみにしていた番組であった。私が聴き始めたのは大学紛争タケナワの1970年代初めであるが、この番組は1960年代から始まり、私が日本を離れ英国に留学した1976年にもまだこの番組は続いていたので、おそらく彼が56歳でなくなる1983年まで続いていたのではないかと推測する。
フィールド・ワークで録音中の小泉文夫(小泉文夫記念資料室) |
とにかく、日本各地はもとより世界各地、とりわけアジアや中近東、アフリカと様々な地域をフィールドワークで直に訪れ、地元の人たちが歌い奏でる音楽の音を録音して日本に持ち帰り、それを紹介しながら、音楽の素人である私たちにもとても分かりやすく且つ興味を常にそそる解説で視聴者を魅惑した、素晴らしい番組であった。後年、オーストラリアに移住して日本に一時帰国した1994年、彼の著書の一つ『日本の音:世界の中の日本音楽』を買い求めて一気に読み通したことを思い出し、昨日、本棚の奥から取り出してまたあちこちを読み返している。ページのいたるところに赤線が引いてあったり、鉛筆でコメントが記してあるのを読み直してみると、当時、自分がどんなことを考えていたのかを知ることができて面白い。
それはともかく、坂本と同様に実は私も、藝大にモグリで小泉文夫の講義を盗講に行こうかと思ったほど、彼の番組の解説は面白かった。現在の学生たちの中に、自分が在籍しない他学科あるいは他大学に、有名な先生がやっている興味深い講義を、いかにもその学科またはその大学の学生であるかのように装って(つまり「モグリ」で)聴きに行くということをやる学生はいるのだろうか……。
私は当時、とりわけ大学紛争が終息した後、多くの大学での授業が落ち着きを取り戻したときには、「他大学にモグリで盗講」を繰り返し行っていた常習犯であった。そんな幾つもの盗講授業の中で最も衝撃的だったのが、当時、国際基督教大学で西洋経済史を週一回教えていた大塚久雄(東大名誉教授)の授業であった。彼の名著『社会科学の方法:ヴェーバーとマルクス』を読んで、彼の授業を聴かなくてはと、新学期の初めての彼の授業に、こともあろうに堂々と教室の一番前の列に座って(苦笑)、彼の登場を待ち受けた。
そこに羽織袴姿で松葉杖をついた、凛とした老人が静に現れたその美しい姿に私はビックリ。若い頃に片足を病気で切断されたことは知っていたが、羽織袴姿とは想像すらしなかった。確かに、羽織袴姿だと片足切断ということが見えにくい。大塚が壇上の椅子に座ると、秘書のような大学院生が大塚久雄著作集(岩波書店)の一冊を机の上に置いた。しかし、大塚はその本を開けようともせず、90分間を滔々とよどみなく、しかしゆっくりと、学生に話しかけるかのように、その日のテーマに関わる様々な重要な問題に縦横無尽に触れて、詳しく解説していく。ときには例えば、講義とは全く関係のないような山本周五郎の小説の話になるのであるが、実は、講義の最後にはそれがその日のテーマと密接に関連していることに驚かされるということもあった。
私はこの最初の講義で、これはよほど勉強しないとついていけないと、完全に精神的に打ちのめされてしまった。しかも、毎回がこの調子で、大塚は机上の自著を一回も開けないし、講義ノートも全くない。常に直接話かけるように学生の顔を見つめている。そんなわけで、結局、大塚の講義を盗講するために、私は1年間、国際基督教大学に通い、同じ講義に出ていた本物の学生(笑)たちともすっかり仲良くなってしまった。それだけではなく、数ヶ月もすると、大塚に向かって堂々と質問までするようになった。今考えてみると、よくも恥ずかしくもなくやったと思うが……。彼も私がモグリだと気がついたようだが、何も問わずに、とても親切に質問に応えてくれた。
この1年の大塚史学へのノメリコミが、私の人生を文字通り変えてしまったのである。後年、大塚史学には決定的な弱点があることに気がつき、その弱点を自分の思考の弱点と重ねる形で克服することに努めたが、詳しくは、機会があれば詳しく述べてみたい。
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