2022年6月3日金曜日

「あの若者が大好きだ」

竹林の捕虜収容所に入れられた元捕虜から新首相がもらった贈物

 

トニー・ライト(ジャーナリスト)著

2022年5月28日『エイジ紙』掲載記事

 

豪州の新首相アンソニー・アルバニージは今週東京に向かったが、トム・ユレーン(の魂)が彼と共に同じ飛行機に乗りこんだとも言える。アルバニージいわく、「今週ずっとトムのことが私の頭から離れない」と。

新首相のこの言葉を理解するためには、そのユレーン自身のことを知る必要があるが、アルバニージは「私は父さんなしで育ったが、父親なしではなかった。なぜならトム・ユレーンは私の父親的な存在だったから」とユレーンとの関係を描写する。

ユレーンはアルバニージがいつか首相になることを夢見ていた。その夢の実現を見ないで亡くなったことは悲しい。2015年に93歳で亡くなる前に私が彼と交わした会話の中で、ユレーンはアルバニージのことを「あの若者が大好きだよ」と言っていたのである。ウィトラム政権とホーク政権で閣僚を務め、生粋の左翼で確固たる信念の男、豪州文化遺産と自然の保護運動の開拓者的存在、長崎に原爆が投下されたとき青紫色になった空を観た捕虜だったユレーンについては、幾つも本が書かれている。

原爆が投下されて第2次大戦が終わり、彼は自由の身となった。しかし彼は核兵に反対し、彼を虐待した日本人を、軍国主義とファシズムの同じ犠牲者とみなして赦した。彼の身体は鉄のように頑丈だったが、若いときにヘビー級ボクシング試合で殴られたか、あるいはジャングルで日本軍捕虜監視員に棒で殴られたか、どちらかのせいで鼻が歪んでしまっていた。もしかしたらその両方のせいかもしれない。彼の目は一見やさしそうにみえるが、同時に賢明な人間であることを映し出していた。

彼は「愛」という言葉をしばしば使ったが、その言葉が本心から出てきたものであることが、耳にした者にはすぐ分かった。「仲間に対して恨みや悪意の感情をもっている人間はあまりにも多いが、私はそんな人間の中にも愛を見つけるんだ」と、彼は晩年によく言っていた。

彼の晩年に私は彼と親しくなったが、その理由の一つは、私の母が彼と同じ1921年の5月生まれであったことを知ったからだと思う。彼は私の母に会ったこともないのに、毎年5月には、「君の素敵なお母さんに」誕生祝いを伝えてくれと、私に電話をかけてきてくれた。彼には上品な礼儀正しさがあった。

彼についてのエピソードは山ほどあるが、そのうちの一つである、ブリズベン市内のボゴ通りにある刑務所についての話は、彼の人柄をよく表している。

反対運動といえば道路でのデモ行進を意味していた1960年代から70年代の市民運動高揚時代には、反戦、反核から、美しい都市の古い路面電車を破壊しようとする開発企業に対する反対運動まで、さまざまな反対運動のデモ行進の最前線にユレーンの姿をいつも見ることができた。その時代、クイーンズランド州は、ジョー・ビョーキー・ピータソン州首相の権力支配下にあり、政治思想は「支配」のみという彼のアイデアで、一方では政治腐敗を蔓延させながらも、クイーンズランド州は警察国家的な状態となっていた。したがって、三人以上の参加者の公的場所でのいかなる集会も法律違反という形でのデモ行進禁止は、ユレーンのような人物にとっては、闘牛用の牛に赤い旗を振るような刺激的なことであった。

1978年10月、ユレーンは自宅のあるシドニーから北に向かい、クイーンズランド州の悪法に反対するために、ブリズベン市内をデモ行進する先頭に立った。予想通り、警察がデモ行進とぶつかり、警棒で参加者を殴りつけた。ユレーンも逮捕者の一人となり、1970年代には政治刑務所も兼ねていた、悪名たかい残忍な刑務所であるボゴ通り刑務所へと連行された。しかし、ユレーンは、ビョーキー・ピータソンが望んだような酷い取り扱いはそこで受けなかった。

 

1979年1月ブリズベン市内で逮捕され警察の車に入れられたトム・ユレーン

 

刑務所監視員の一人で、『ボゴ通り刑務所: 破壊目的の暴動 1976〜2008年』という本を2009年に出したスティーブン・ゲイジは、ユレーンが連行されてきたときのことを次のように記録している。

「トム・ユレーンが刑務所の受付に連れてこられたその日、私は、任務に当たっていた多くの監視員の一人であった。ユレーン氏に対して敬礼をしてはならないという達示が、監視員全員にきていた。ところが、車が到着し、トムが受付の窓の前に立たされるや、私を含め多くの監視員が、彼がやったことに尊敬の意を表して敬礼をしたのである。その場にいた上官たちは、監視員たちがトムに敬礼をしてうやうやしく話しかけることをやめさせることはできなかった。しかし、その後に、さらに驚くことが起きた。その場にいた上官の中で最も位の高かったボゴ通り刑務所・警視正のクライド・ラング氏も、実は泰緬鉄道の元捕虜だった人で、トム・ユレーンの同士だったのである。その午後遅く、トムとクライドの二人は夕食を食べに刑務所を出て行き、昔からの友情を祝って祝杯をあげたのであった。」

言うまでもなく、ユレーンは普通の囚人では全くなかった。そのとき彼はすでに労働党政治家として20年の経歴があり、それから後も12年にわたって連邦議会議員を務めた。1975年から77年には、労働党副党首まで務めた人物である。しかし、彼が人々から尊敬されるようになったのは、すでに、21歳でチモールで捕虜となり、泰緬鉄道建設で日本軍の奴隷として扱われた第2次大戦中のことであった。

他の捕虜たち同様に、彼も飢餓状態におかれ、殴打され、死ぬほどまでに酷使された。子どもをようやく生かしておくほどの食糧しか与えられず、にもかかわらず、仲間が手で押さえているキリを大型ハンマーで打ちつけて、ダイナマイトを設置するための穴を岩に掘り、奥深い山を切り崩すといった重労働をさせられた。奴隷仲間たちはこうした重労働を、「ハンマーと打ちつけ(労働)」、あるいは実情を描写するのにもっと適当と思われる「地獄の火の道(開設工事)」という表現を使った。夜も死ぬほどつらい労働が続き、地獄のように荒れはてた工事現場は、工事道具が放つ火花で文字通り「地獄の火の道」のように見えた。最初は一日80センチを掘り進むのが割当任務であったが、1943年の恐ろしい「スピード工事」を課せられた時期には、トムと彼の仲間たちは一日3メートルを掘り進むことが任務となった。この時期、1週間7日の毎日、18時間の労働時間を強いられたのである。

 

捕虜収容所内の豪州軍捕虜(右から3番目がトム・ユレーン)

 

戦前のシドニーで、ユレーンはヘビー級のボクサーであったので、飢餓状態にもかかわらず、大きな体格をある程度保持することができた。私は「死の泰緬鉄道工事」跡の「地獄の火の道」をこれまで数回訪れたことがあり、この旅行中に出会った元捕虜たちから教えられたことがある。それは、怒った日本兵や朝鮮人捕虜監視員に殴り殺されるのを防ぐために、大きな身体のトムがいつも仲間の捕虜たちの先頭に立ったということ。あるとき、私が「地獄の火の道」に立ってあたりを眺めていたとき、元捕虜だった一老人が「トムが身体の小さい男たちにかわって、よく殴られていたよ」と教えてくれた。何年も前のことだが、この話をトムにしたところ、「ああ、何回も殴り倒されたよ」と認めた。「あるときは平手で、別のときは握りこぶしで、木の棒や鉄の棒、太さ5センチの竹の棒でも殴られた」と、(辛かった昔を思い浮かべたのか)目を閉じながら説明してくれた。

戦争末期、ユレーンは日本の地獄船とも呼べる捕虜輸送船に乗せられ、換気の悪い狭い船室に入れられ、少量の食糧と水だけを与えられて、日本へと送り込まれた。日本では、(大分県)佐賀関の銅製錬所と(福岡県)大牟田の鉛製錬所で酷使された。1945年8月9日、原爆「ファット・マン」が大牟田からかなり離れた長崎に投下された時、空が神秘的な色に変化したのを彼は目にした。「オーストラリア北部で見られる素晴らしい夕焼け空を目にしたことがあるなら、その20倍も鮮明な色だったといえるよ」と彼は言った。原爆が戦争を終わらせ、トム・ユレーンは戦時の苦痛から解放された。

 

1986年3月シドニーでの平和デモ行進(前列左から3番目がトム・ユレーン)

 

捕虜体験が多くの人命を奪い、生き延びた者たちの多くも精神を蝕まれたが、ユレーンは捕虜体験から学んだものを、生きて成長するための哲学へと変えることに成功した。学んだことで最も重要なことは、「死の鉄道工事」期間中に彼の隊長だった外科医エドワード・“ウェアリー”・ダンロップが努力したこと - 仲間全員の利益になるように収容所で使えるものはなんでも利用する - ということであった。

豪州軍士官にはごくわずかではあるが賃金が支払われていたが、ダンロップは士官たちにそのお金で共同資金を作らせ、そのお金を、ごく質素ではあるが、病気の捕虜たちのための薬や(地元の住民との)闇取引での食糧の入手に当てさせた。すぐ近くにいた英軍捕虜収容所にはこのような制度はなく、そこでは士官たちは一兵卒たちの状態には無関心であったため、恐ろしく高い死亡率となった。

ユレーンは、(この経験から)「共同主義」が社会を救う鍵であると確信するようになった。この哲学を彼は、聴く耳をもつ者には、ひと言で説明した - 「健康な者が病人の世話をし、強い者が弱い者を助け、若い者が老人の世話をする。」

1980年代初め、ユレーンは、アンソニー・アルバニージという名前の、シドニー大学の学生代表委員会の左翼メンバーである情熱的な学生の存在を知り、この若者もユレーンという老人の言葉に耳を傾けるようになった。ユレーンとニュー・サウス・ウェールズ州労働党左翼のアーサー・ギッズ、ジャック・ファーガソン、ブルース・チャイルドといった有力者たちは、実際、このときまだ20歳であったアルバニージが、将来、指導者になる可能性をもっていることに気がついた。アルバニージに父親がいないことを知った彼らは、彼には、手本となる強い信念を持った父親的な存在が必要だと感じた。当時、地方自治担当大臣であったユレーンが、このとき手を貸して、アルバニージにとって初めての仕事となる調査員の仕事を与え、その後もずっと彼を支え続けたのである。

1987年、ユレーンはアルバニージを東南アジアへの旅に同行させたが、アルバニージにとってはこれが最初の海外旅行であった。この旅行中、タイで、ユレーンはアルバニージを「地獄の火の道」に連れていった。二人が険しい崖の上を歩いたときには、ユレーンが昔の思い出に襲われて気を失うのではないかとアルバニージは心配して、大きな身体のユレーンの腕をしっかりと握って離さなかった。

 

2010年 トム・ユレーンとアンソニー・アルバニージ

 

その何年も後の今年、アルバニージが新首相となる総選挙運動の開始にあたって、彼は次のように演説した。「我々は若者の面倒をみるし、病人の世話もするし、老いたオーストラリア人の世話もする。誰も見落とさない。誰も落ちこぼれにしない。」この言葉は、トム・ユレーンがまだ若造で、過酷な竹のジャングルで生き延びようと苦闘していたときに、ウェアリー・ダンロップから学んだ知恵をトム自身が言葉にしたものを、アルバニージが言い換えた言葉なのである。

今週、ユレーンの精神は、もちろんアルバニージと一緒に東京に飛んだはずである。飛ばなかったはずはない。

 

<訳:田中利幸 なお( )内の言葉は意訳のために付加したものです>

 

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戦争犯罪に対する「赦し」を自己の「生きざま」で表現した元捕虜:オーストラリア陶芸作家ピーター・ラッシュフォースの生涯

http://yjtanaka.blogspot.com/2015/10/blog-post.html

 

憎悪から進歩は生まれない トム・ユレーンの想い出

http://yjtanaka.blogspot.com/2020/06/blog-post_6.html

 

 


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