7月12日、ドイツの陶芸家ヤン・コルビッツを訪問した嬉しいニュースをこのブログ(「ドイツからの報告2」)でお伝えしたが、実はその10日後の7月22日に、私は旅行中のスエーデンで、ある悲報を受け取っていた。それは、「オーストラリアの陶芸の父」とも称せられていたピーター・ラッシュフォースPeter Rushforthが亡くなったという知らせであった。ピーターは、94歳になる私の文字通りの古い友人old friendsの一人であったが、昨年、脳溢血で倒れるまでは、シドニーから車で2時間半ほど離れたブルー・マウンテンというひじょうに風光明媚な山中に妻ボビーと2人で暮らし、高齢にもかかわらず、すばらしい作品を作り続けていた。ユーカリの大木に囲まれた10エーカーという広い土地に、自宅と窯場、アトリエ、ギャラリーが点在し、アトリエから数分歩いて坂を下ると、そこからはカニンブラ峡谷という、自然が作り出した、息を飲むようなすばらしく広大な絶景を見渡すことができる場所であった。彼が脳溢血で倒れた後、ラッシュフォース夫妻は1978年から36年の間住み慣れたこのすばらしい土地を売却して、近隣の小さな町ブラックヒースに小さな家を買って移り住んだ。
実は、私は今月初旬にシドニー大学での学会にゲスト・スピーカーとして招かれ、シドニーに行く予定を前からしていたので、学会が終わったら妻同伴で、ピーターとボビーを久しぶりに訪問して、ピーターを見舞うつもりであった。彼に会ったら、ぜひともヤン・コルビッツを訪問した折の写真を見せ、土産話をしたいと楽しみにしていたのである。3年前にブルー・マウンテンのこの地で、元気なピーターの姿を見たのが、残念ながら、最後となってしまった。学会が終わった一昨日の土曜10月3日に、ボビーを訪ねてブラックヒースまで足をのばし、ピーターの思い出話で彼女と数時間を過ごした。
ピーターは、シドニー郊外のマンリーで生れたが、まだ小さな子供のときに父親が失踪。その後、母親も病気で亡くなったため、子供の頃からひじょうに苦労を強いられた。21歳のときに太平洋戦争が勃発。開戦前に兵役につき、オーストラリア北端のダーウイン港を経てシンガポールに送られた。周知のように、シンガポールは1942年2月に日本軍によって攻略され、シンガポール、マレーシアの防衛にあたっていた英連邦軍の13万人という大量の将兵が日本軍捕虜となって投降した。これらの捕虜のうち英豪軍捕虜の多くはシンガポール市内のチャンギ捕虜収容所に入れられ、超過剰収容人員のため劣悪な衛生環境と食料・医薬品の欠乏の中で暮らすことを余儀なくされた。しばらくすると、捕虜たちは、このチャンギ収容所から東南アジアや南太平洋各地の日本軍占領地域に移送され、飛行場など日本軍施設を建設するために強制労働を課せられた。中でも最も多くの捕虜たちが送り込まれたのが泰緬鉄道のための建設工事であった。
泰緬鉄道建設のための豪州軍捕虜の第1陣は1942年10月から建設現場に送り込まれているが、ピーターは、1943年4月に送り込まれ、7ヶ月ほどの間、毎日、過酷な労働に駆り立てられ、いやというほど日本軍兵士から虐待を受け、次々と病死していった仲間を目の当たりにし、自分も必死で生き延びたことは間違いないのである。(泰緬鉄道建設のためには英豪蘭米の捕虜6万2千人ほどが強制労働をさせられ、そのうち1万2千6百人ほどが死亡。そのうえ、推定18万人ほどの東南アジア人労務者が駆り出され、そのうちの約半数が死亡したと考えられている。泰緬鉄道建設で働かされた豪州軍捕虜は1万3千人、そのうち死亡者2千8百人ほど。)ところが彼は、日本人である私に対してだけではなく、オーストラリア人にも、いや誰にもこの捕虜時代の苦悩についてはほとんど話さなかった。
私は、いつかピーターから詳しく捕虜時代の話を聴き取り、日本軍による虐待という悪夢のような経験にもかかわらず、どのようにして彼が日本の陶芸に深く興味を持つようになり、陶芸家になろうと決心したのか、その心理的プロセスを知りたいと強く願っていた。そのような意図もあって、私は、1996年、日本軍が豪州軍兵士と市民に対して犯した戦争犯罪分析の自著Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War IIを出版してまもなく、この本をピーターに贈呈した。妻ボビーによると、ピーターはこの本を熱心に一気に読みあげたとのことである。ピーターから直接私に電話があり、「Yukiの日本軍批判と戦争責任追及に心から感謝するよ」という、とてもやさしい返礼をもらったが、その後も彼は自分の捕虜体験を私に語ろうとは絶対しなかった。
彼はもともと口数が少なく、どこか恥ずかしがり屋の雰囲気があった。しかし、だれにもほんとうに心優しくて親切な彼の性格は、言葉のハシハシから感じられた。それとは対照的に、とても小柄で可愛い妻のボビーは、おしゃべりが大好きで、ピーターに関する情報は、ほとんど彼女から教えてもらった。ピーターはいつも素敵な笑顔でボビーの話を、もっぱら静かに聞いていることが多かった。したがって、ピーターが陶芸に興味を持つようになった背景は、今となってはほとんど推測するより他に手はないのである。
戦争に行く前からピーターは、陶芸にある程度興味はもっていたようである。チャンギ収容所には図書館があり、捕虜たちに本の貸し出しが行われていたとのこと。子どものころ教育を受ける機会がほとんどなかったピーターは、この図書館を大いに活用し、また捕虜たちが自主的に行っていた教育プログラムのクラスにも参加していたようで、彼はチャンギ収容所を「貧者の大学」であったと言っている。所蔵図書の多くは、もちろん、日本の歴史文化を賛美する英文図書であったと思われる。そうした本の中に、民芸運動の中心人物であった柳宗悦の友人の英国人陶芸家、バーナード・リーチBernard Leachが1940年に出したA Potter’s Book(『ある陶芸家の本』)という題の本があり、日本韓国の陶芸を紹介するこの本を借り出して読んだピーターが、いたく感動したとのこと。後年、リーチや浜田庄司らと彼が交流を深め陶芸美を追求する出発点が、「美の追求」とは全く似ても似つかない劣悪な環境のチャンギ収容所にあったなどとは、本当に驚くべきことである。
ピーターと知り合ってからずいぶん後になってボビーから教えてもらったのであるが、泰緬鉄道建設での強制労働では、ピーターも、一時、瀕死の状態になったとのこと。「病院」(「病院」とは名ばかりで、実情は薬も医療器具もほとんどない患者収容所)に寝かされていたとき、ある日本人兵(あるいは朝鮮人兵?)が、彼に小声で「本当に申し訳ない」と幾度も謝り、密かに薬をもってきてくれたとのこと。この薬がなければ自分は死んでいただろうとピーターは思っており、ボビーによると、この日本兵の住所を聞いておかなかったことを、戦後、いつも悔やんでいたそうである。(この日本兵の名前をピーターは知っていたようであるが、ボビーはその名前をピーターから聞いていない。)私の推測であるが、これは、この日本兵が、ピーターのとても優しくて思いやりのある性格に感心していたため、親切にしてくれたのではなかろうかと思う。
戦争が終わりオーストラリアに帰国したピーターは、豪州政府が若い帰還兵のために提供した再教育奨学金を利用して、メルボルン技術専門学校(現在のメルボルン工科大学)に入学し陶芸美術を専攻。しかし、日本陶芸を教えるコースなどなかった当時、ピーターは、中国陶芸の影響を受けていた陶芸家アラン・ローウイーAllan Loweとの交流を深めたようだが、もっぱら自分でいろいろと思考錯誤しながら日本の陶芸技術を学んだようである。1949年、メルボルン技術専門学校を卒業するが、職はなにもなかった。そこで、生まれ故郷のシドニーに戻り、大戦で傷ついた傷病兵のリハビリを専門にするコンコード・リハビリ病院に出かけ、「心を病んでいる元兵隊たちに陶芸を教えることで回復に貢献したいので、雇ってくれないか」と申し出たのである。まだPTSD(心的外傷後ストレス障害)という病名など一般にはほとんど知られていなかった当時、こうしたアイデアが浮かんだのも、捕虜経験のある心優しいピーターだからこそであった。さらに驚くことは、病院側もピーターの申し出を即座に受け入れ、彼を雇ったとのことである。心を病んだ傷病兵が自殺をするケースが相次いでいた病院のスタッフたちも、いろいろな方法を試みてみたかったのであろう。この病院で働いていた、明るくておしゃべり好きで優しい看護婦のボビーに、ピーターは恋をしたというわけである。ボビーもピーターが人並みならぬ深い心優しさをもった人間であることにすぐに気がつき、間もなく、ピーターからのプロポーズを受け入れて1950年に結婚。
病院に勤めながら、ピーターは、東シドニー専門技術学校(現在の国立美術大学)に入学してパートタイムで彫刻を専攻し、陶芸彫刻製作に努力したようである。当時、陶芸コースの専任講師がいなかった東シドニー専門技術学校は、ピーターの陶芸技術に感心したようで、1951年、彼を陶芸専門の専任講師として雇用。ピーターは、モーリー・ダグラスやコル・レイビーといった、当時まだ数少なかった若い新進の陶芸家たちと協力して、1956年、陶芸家を育て増やす目的で、「オーストラリア陶芸家協会」を設立して、初代会長に選出された。
1963年、ピーターは半年ほど、初めて日本に留学し、益子の浜田庄司、京都の河井寛次郎を訪れて指導を受け、九州の小石原でもいろいろと技術を習得し、そこで製作した作品を京都で展示。彼の作品は、日本の名工と言われた陶芸家たち、とりわけ美濃焼の有名な陶芸家である荒川豊藏の注目を浴び、荒川から彼の窯場で仕事をしてみないかという名誉ある誘いまで受けた。ところが、実は当時、ピーターには3人の幼い娘がおり、とりわけ一番年下の5歳になるジャネットが病弱であったため、半年のあいだ家を留守にすることすら気が引けたのである。しかし、ボビーや3人の娘全員の強いすすめがあったので、短期間だけと最初から決めて日本に来ていたのである。とにかく、彼の作品のできばえがすでにどれほど優れていたかは、日本の陶芸家たちのこうした反応をみてみるだけでも推測できる。短期間ではあったが、この日本留学の経験が、ピーターの陶芸技術をさらに洗練されたものへと高めたと言われている。とりわけ彼の作品に使われている見事な「青色」、その「青色」をどのようにして出すのか。誰にも真似ができないすばらしい色合いである。
1975年には東京の高島屋デパートで個展を開いているし、その後も、数回日本を訪れており、浜田庄司やバーナード・リーチをオーストラリアに招き、オーストラリアの陶芸作家のためのワークショップを開くなど、日豪の陶芸作家交流に大きく貢献している。そのうえ、ピーターは先生としてもひじょうに人気があったため、彼のもとで勉強した学生の中から、今では、オーストラリア国内ですぐれた陶芸作家として活躍している人たちが育っている。しかし、浜田や河合、荒川などの日本の陶芸家は、ピーターが戦時中に捕虜となり、泰緬鉄道建設で強制労働させられ、なんとか生き延びたという過去があるなどとは、全く知らなかったはずである。学生や弟子たちの中にも知っていた者たちはほとんどいなかったのではないかと私は思う。ボビーによると、ピーターに捕虜時代のつらい経験のことを訊くと、彼はいつも「虐待を行った日本人を憎んでもなにも得るところはないよ。日本人にそのような虐待行為をさせるようにした戦争を憎むべきだ」と言って、それ以上は黙して語らなかったとのこと。でも、すでに述べた、「親切な日本兵」については繰り返し語り、脳溢血で倒れたあとも、ボビーとの会話の中で、しばしばこのことを話題にしたとのこと。
「戦争犯罪」という「犯罪行為」を憎むべきであり、ひいては「戦争」を憎むべきであり、戦争犯罪を犯した人間を憎悪しても得るところはないという「道理」はしばしば耳にするし、もっともな道理であるとは思う。しかし、それを人はなかなか実践できない。ピーターはそれをもくもくと実践しただけではなく、敵国である日本の陶芸というすばらしい芸術を自分のものとし、それをさらに磨き上げることで、個人的な「憎悪」を完全に超越してしまっていた。ピーター自身は、それを日本人に対する「赦し」などとみるような、おこがましい考えなどは全く持ってもいなかったであろう。しかし、私から見れば、これほどすばらしい「赦し」はないと思う。自分の「生きざま」を通して表明してくれた、このピーターの「赦し」に、私たちがどう応えるか、それが私たちの「戦争責任」であるはずだ。
ピーターは亡くなる直前、入院していた病院の自分の一人用の狭いベッドに、ボビーに一緒に横なってくれるように頼んだそうである。ボビーがベッドに入り、彼を抱きしめると、キスしてほしいと頼んだとのこと。ボビーが優しく彼にキスをした途端に、再び脳溢血を引き起こして息をひきとったのだそうだ。その話をするボビーの顔がとても明るくて、素敵な笑顔であった。ボビーのいたピーターは、本当に幸運で幸せだった。
ピーターへのインタビュー:英語ですが、画面にブルー・マウンテンにあった彼の自宅と仕事場のすばらしい写真が幾つも使われています。
ピーターの作品の例:
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