2018年7月24日火曜日

太平洋戦争と小田実 - 戦争責任を問う -

- 小説『ガ島』と『玉砕』に見る戦争のおぞましさ

今週土曜日(7月28日 14:00〜17:00)「あしや市民活動センター リードあしや」で予定されている講演の概要です。ご笑覧、ご批評いただければ光栄です。

講演概要
田中利幸 

1)太平洋戦争4段階の歴史的経緯:小田実の太平洋戦争関連文学作品を理解するために
2)小説『ガ島』、『玉砕』が象徴する実際の戦闘における餓死・玉砕・残虐行為
3)ナウル島における日本軍の残虐行為:ジャングル戦も玉砕もなかったケース
4)天皇制と戦争責任:明仁の慰霊の旅の意味するもの

1)太平洋戦争4段階の歴史的経緯:小田実の太平洋戦争関連文学作品を理解するために
 小田実が文学作品で取り扱った太平洋戦争での悲惨な「餓死」、「玉砕」はなぜ起きたのか?それを知るためには、まず太平洋戦争がどのように展開されたのか、その歴史的経緯を知る必要がある。太平洋戦争は、日本側から戦局の推移を見た場合、4つの時期に区分できると私は考える。
第1期「日本軍攻勢」段階:
 1941年12月8日の英領マレー北部コタバルとタイ南部シンゴラへの陸軍部隊の奇襲上陸と海軍による真珠湾への奇襲攻撃から、1942年5月初旬の珊瑚礁海戦の結果としてのポート・モレスビー海路攻略作戦の中止まで。
第2期「戦略失敗による態勢逆転と大量餓死」段階:
 1942年6月のミッドウェー海戦における日本海軍の大敗北と8月の米軍ガダルカナル上陸を経て、ガダルカナルとニューギニアでの激戦。さらに、8〜11月にかけてのソロモン海、南太平洋での4回の海戦と航空兵力のいちじるしい消耗を経て、1943年2月のガダルカナル島撤退まで。
第3期「死守・撤退の中での棄民と玉砕の悲劇」段階:
 ガダルカナル島撤退から、1944年6月のマリアナ沖海戦でのさらなる敗北と、同年7月のインパール作戦の失敗、サイパン島などマリアナ諸島での玉砕と放棄まで。
 第4期「壊滅的敗退と軍民無差別大量死」段階:
マリアナ諸島放棄から、1944年10月のレイテ沖海戦での日本海軍のほぼ全滅に続くレイテ戦、1945年2月の硫黄島戦、沖縄戦、米軍による日本本土無差別爆撃を経て1945年8月の敗戦まで。

  この時期区分からも分かるように、日本帝国陸海軍が攻勢を見せたのは最初の半年のみで、その後は、アジア太平洋各地で、多くの将兵と日本人(朝鮮人、台湾人を含む)市民、さらには数多くのアジア諸民族の人々を残酷な死に追いやる連続の、長くて実に破壊的な3年3ヶ月間であった。単に多くの人間生命が失われただけではなく、広範に及ぶアジア太平洋各地の文化と自然環境がこれほどまでに深刻な打撃を被ったことは、それまでの歴史上で初めてのことであった。

 日本軍将兵の大量餓死・玉砕は太平洋戦争開始から早くも8ヶ月で始まっているが、その主たる理由は、
1)日本軍の「短期殲滅作戦」=敵を包囲して猛烈な攻撃を速戦・即決で展開して短期間で勝利をおさめるという作戦にあった。しかし、十分な兵站(食糧・弾薬など)を持たずに、大胆に殲滅戦を速戦・即決で展開して一気阿成に戦闘を終わらせるには、将兵たちが並外れた強靭な戦意を持っていなければならない。そこで日本軍は極端な精神主義をとった。その悲惨な結果はすでに第2期から見られるが、第3期になると、さらに殲滅作戦の失敗が続き、敵を殲滅させるためには自分たちが殲滅するまで徹底攻撃することを強いられ、それは当然「玉砕」につながった。(中国での、十分な兵站を持たない短期殲滅作戦は、抗日軍に協力的とみなされた町村落での、奪い尽くす、焼き尽くす、殺し尽くすの、いわゆる「三光作戦」へとつながった。)

2)敵=米軍の威力(兵器、食糧、医薬品など物理的な広義の意味での「軍事力」)を甘く見ていた。経済力の極端な差を最初から無視して始めた戦争であるため、国家をあげての総力戦(物的と人的の両方の資源を最大限に活用する戦争)では、とうてい太刀打ちできなかった。(米国の当時のGNPは日本のほぼ12倍!)日本軍は各地で食糧「現地調達」=強奪を行ったが、強奪するような住民もいないジャングルでは、大量餓死へとつながった。
(15年戦争での日本軍将兵の死亡者総数は約230万人、そのうち140万人、すなわち6割が飢餓あるいは栄養失調が原因での様々な病気による死亡者。ニューギニアには合計約16万人の兵が送り込まれたが、その94%が死亡。死亡者は、ほとんど餓死または病死。奥崎謙三のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』でも明らかなように、日本軍には「人肉食」が蔓延。)

3)東京の大本営参謀本部のスタッフたちにはジャングル戦の経験が全くなく、中国の大平原での自分たちの戦争経験だけを元に、地図だけを見て作戦を作り、命令を下していた。そのうえ、南太平洋のジャングル地帯の戦闘地域に派遣された日本軍部隊の多くが、ジャングル戦での訓練を全く受けていなかった満州駐留部隊であった。

2)小説『ガ島』、『玉砕』が象徴する実際の戦闘における餓死・玉砕・残虐行為
*小説『ガ島』のモデルとなったガダルカナル島の戦闘:
 1942年5月初旬、ポート・モレスビーを攻略するためにニューギニアに向かっていた日本海軍艦隊は、ソロモン諸島とニューギニアの間の珊瑚海で米海軍艦船と遭遇、大海戦を展開し、大打撃を受けた。そのため、ポート・モレスビー攻略作戦は中止。このポート・モレスビー攻略作戦の際に、その攻略の前線基地にするために、アメリカとオーストラリアを分断する戦略の要衝であるソロモン諸島東端のフロリダ島のツラギを占領していた。
 7月上旬から、そのツラギの対岸にある小島ガダルカナル(いわゆる「ガ島」)に設営隊・守備隊の合計約3千名を送り込み、飛行場を造成しつつあった。その完成寸前の8月7日、米軍は1万人を超える数の海兵隊を一気に投入し、ツラギも含めて制圧して飛行場も確保。このガ島奪還を目指す日本軍は、なんらの情報収集もせずに、軽装備の部隊を次々と送り込んで壊滅させるという失敗の繰り返しを半年間も続けた。その上、ガ島確保によって、米軍側がこの地域の制空権・制海権を握ったため、日本軍は武器弾薬、食糧、医薬品も送ることができず、結局は、1943年2月の撤収までに、上陸した兵士31,400名のうち20,860名が死亡、このうちの1万5千名ほどが餓死またはマラリヤなどによる病死者であった(このため、ガ島はしばしば「餓島」と記される)。
 小田実は、この「ガ島」での戦闘をモデルに、猛烈な経済膨張を始めていた1970年代の日本の海外投資、日本人によるアジア太平洋地域住民蔑視(日本人/白人中国人太平洋島民という人種序列)、戦争遺族の(父親の死に様を知りたい)心理、など様々な要素を組み合わせながら、最終的には読者をすさまじい夢想の世界へと連れ込み、戦争のおぞましさを抉り出す。

*小説『玉砕』のモデルとなったペリリュー島の戦闘:
 ミッドウェー海戦で大敗して多くの空母を失った日本帝国海軍は、空母不足を島嶼基地航空部隊でおぎなうという政策をとるようになった。1941年の開戦時にすでに1,200メートルの長さの滑走路2本が作られていたリリュー島(現在はパラオ共和国の一部、南北9キロ・東西3キロの小島)の飛行場も、その結果、拡充されるようになり、防備・防諜強化の観点から、1943年9月〜44年8月に、島民1,060名(現地住民899名、日本人160名、朝鮮人1名)の全員が、パラオ本島とコロール島に強制移住させられた。したがって、幸いにして、44年9月に戦闘が始まったときには、島には民間人は全くいなかった。
 米軍は、フィリッピン攻略作戦を開始する前に、このペリリュー島の飛行場と日本軍を壊滅させておく必要があると考え(ミンダナオ島の米軍攻略部隊にここから航空攻撃をかけてくるという心配から)、1944年9月15日に、12,000名あまりの第1海兵師団で攻略開始。迎え撃つ中川州男大佐率いる第14師団を中心とする10,900名の日本軍(このうち約3千名は朝鮮人労務者)は、それまでの太平洋の島々での海岸線における短期玉砕攻撃という戦闘方法はとらず、できるだけ長期間にわたって敵に打撃を与え続けるという持久戦法をとることにした。そのために、コンクリート並みに硬いサンゴ礁でできている島の地質と、500以上ある洞窟を利用し、洞窟に坑道を縦横に掘ってつなげて要塞化し、そこに閉じこもって米軍を狙い撃ちにするという作戦をとった。ガダルカナル戦で米軍最強とうたわれた第1海兵師団は次々と死傷者を出し、壊滅状態に陥った。結局、11月25日まで74日間にわたって文字通りの死闘が続き、米軍は陸海両軍で合計47,561名を投入、2,336名の戦死者、8,450名の戦傷者、2,500名以上の戦病者を出して、ようやく勝利。日本軍側の生存者は、10月末にはわずか500名ほど。食糧も弾薬も底をついた11月24日に玉砕を決定し、中川大佐は拳銃で自決、幹部2名の将校が割腹自決。翌日、55名の残存兵によって敵陣に「玉砕攻撃」。最終的に、日本軍側の戦死者は10,695名(死亡率98%)、戦闘中に米軍の捕虜となった者202名、戦闘が終結した後も洞窟を転々と移動して生き延びた者が34名。これらの生き残り兵が米軍に投降したのは、なんと敗戦から2年半以上過ぎた1947年4月21日のことであった。
 信憑性はひじょうに薄いが、中川大佐配下の独立歩兵第346大隊の大隊長(少佐)である人物の愛人である「慰安婦」がパラオのコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と一緒に戦い、最後に機関銃を乱射して86名の米軍兵を殺傷して玉砕したという伝説が残っている。小田実は、この伝説も小説に利用している。
 持久戦の末に玉砕というペリリュー島でとられた戦闘方法は、硫黄島、さらに沖縄での戦闘に継承されていった。
 1945年2月19日、米軍は3万発におよぶ猛烈な艦砲射撃に続いて、7万5千人の兵力を動員する大編成軍を硫黄島に上陸させた。迎え撃つ日本軍は、栗林忠道中将が率いる守備隊2万3千人で、延長約18キロにもおよぶ坑道陣地にたてこもって持久・ゲリラ戦の戦法をとった。3月27日の栗林の自決まで、太平洋戦線でもっともすさまじい死闘が続いたが、この戦闘で日本軍は21,304人が戦死(死亡率93%)、米軍側も戦死傷者が約2万3千人に達した。硫黄島を確保した米軍は、ここに航空基地を建設して、日本本土爆撃に向かうB29爆撃機を護衛する戦闘機を配備。またB29の燃料補給や不時着飛行場としても活用した。
 小田実は「玉砕」が避けられない日本軍の兵士たちの心理=「玉砕」は避けられないが「犬死はしたくない」という苦渋の葛藤、差別に抗するために志願したため日本軍の「玉砕」に否応なく巻き込まれるが、これまた「死んでたまるか」と苦しむ朝鮮人、「玉砕」する兵士への愛に自分の命をかけることにしか生きがいを感じられなくなるまで追い込まれた日本人慰安婦の哀しみ等々、死を目前にした各人の心理を痛切に小説『玉砕』で描いた。2006年にドナルド・キーン訳で出された英語版は、BBCでラジオ・ドラマ化された。
 『玉砕』を読んでいて、クリントン・イーストウッドが2006年に制作した映画『硫黄島からの手紙』のシーンが、まざまざと思い浮かぶ。この映画は、同じくイーストウッドが制作した映画『父親たちの星条旗』(原作はジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズ)とツイになっている名作。『硫黄島からの手紙』は、アメリカが制作した太平洋戦争映画としては、敵である日本兵をはじめて「人間」として、彼らの心理的葛藤、苦悩を詳細に描いた傑作であると私は思う。

3)ナウル島における日本軍の残虐行為:ジャングル戦も玉砕もなかったケース
*ナウル島=私自身の調査研究の対象となった島の一つ
  現在のナウルはナウル共和国(人口9,300人ほど、国土面積21平方キロ、世界で3番目に小さい国<バチカン市国、モナコ公国に次いで>)。1888年にドイツ保護領、翌年にリン鉱石が採れることが分かり、1906年から採掘開始。1914年、第一次世界大戦中にオーストラリアが占領し、イギリス領となる。1920年、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの3国の委任統治領となり、リン鉱石採掘権は「BPC英国リン鉱石委員会」が取得。リン鉱石はオーストラリアとニュージーランドに送られ、弾薬と肥料の生産原料として使われた。
*1942年8月22日:
 日本帝国海軍爆撃機8機による爆撃と巡洋艦・有明による艦砲射撃に続いて、百名ほどの先遣部隊が上陸し占領。日本軍が侵攻してくる半年前に、ナウルのリン鉱石関係の仕事に従事していたほとんどの白人(主としてオーストラリア人)とその家族たちは、オーストラリアに引き上げていた。残っていた白人は5名のオーストラリア人(うち2人は医者と看護師、3名はBPC関係者)と2人のヨーロッパから派遣されていた宣教師のみ。ナウル島民人口は約1,800名、その上に、リン鉱石労働者として働いていた約190名のギルバート島民と約200名の(香港からの)中国人。リン鉱石採掘は、南洋興発会社が運営。
*1942年11月:
 飛行場建設のため千名以上の労働者(半分は日本人、半分は朝鮮人)が送り込まれ、ナウル島民も建設に従事させられた。
*1943年3月:
 ナウル駐留の海軍部隊(工兵隊員も含める)兵数は、1,400名を超えた。その後間もなくさらに増員され、最終的に駐留部隊兵数が2,681名と朝鮮人建設労働者1,054名の合計3,735名という大勢が、この小島に滞在。
*1943年3月末:
 ナウルの飛行場が15機の米軍爆撃機による攻撃を初めて受け、滑走路が爆撃された上に、8機の爆撃機と8機の戦闘機が破壊された。その直後、5名のオーストラリア人を処刑。
*1943年6〜8月:
 ナウルを含む内南洋離島の制空権、制海権が米軍に握られたため、トラック諸島からのナウルへの食糧輸送が困難となり、食糧が欠乏。食糧消費量を減らすために、ナウル島民1,800名のうち1,200名を2グループに分け、トラック諸島に6月と8月に強制移動。宣教師2名もこれに同伴。
*1943年7月:
 食糧消費量を減らすためのさらなる手段として、ナウル島に設置されていたハンセン氏病患者専門病院の患者39名全員を小舟に乗せ、その小舟を艦船で沖合まで引っ張って行き、患者全員を射殺し、舟も沈没させ投棄。
*1943年9月:
 9月8日にはイタリアが連合軍に無条件降伏したため、連合国側は米軍戦力の一部をヨーロッパ戦線からアジア太平洋戦線に振り向けることができるようになった。日本はこれまでの敗退の連続も考え、戦略の根本的再検討を迫られた。そこで、9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」を決定し、「大東亜共栄圏」を縮小する「絶対国防圏」なるものが設定された。これによって、絶対確保すべき要域が、太平洋「北端の千島東の小笠原諸島・マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム) - 南端の西部ニューギニア・スンダ 西はマレーからビルマまで」を結ぶ線とされた。縮小されたとはいえ、いまだアジア太平洋の広域にわたる地域が「絶対国防圏」とされたが、それは日本の(経済的、軍事的)占領能力をはるかに超える地域。
しかし、その結果、この「絶対国防圏」の外にある南太平洋の最大の基地ラバウルの約10万の駐留兵、東部ニューギニアの密林で飢餓状況で闘っていた10数万の将兵、マーシャル諸島ほか(ナウルを含む)いわゆる内南洋離島の駐留兵12万人と1万人ほどの官民たちは置き去りにされ、見捨てられることになった。つまり、かれらはその後の2年間ほど「自活」して生き延びなければならなくなった。換言すれば、「絶対国防圏」は、30万人以上の自国民を「棄民」するという政策と裏腹になったものだった。
*戦中のナウル島民:
 トラック諸島に移住させられたナウル島住民は、トラック諸島のうちの無人地域で畑耕作には適さない土地に拡散して住むことを強制された。生き延びるために、若い女性の中には日本軍兵士に性的奉仕をして食糧をえる者も出てきた(オーストラリア軍が戦後聞き取り調査をやっているが、この問題については詳細不明)。1,200名のうち、終戦までに461名が死亡(死亡率38.4%)、461名のうち飢餓と栄養失調で亡くなったのは190名(41%)。生存者が帰島できたのは、1946年1月になってからであった。一方、ナウル島の日本軍は連合軍とは全く戦うことなく、よって玉砕することなく、なんとか自活して生き延びた。
 ちなみに、太平洋には、日本軍が守備隊を配置した大小様々な島が25あった。そのうち米軍が上陸し占領したのは8島にしかすぎず、重要ではないと見られた残る17島を米軍は戦線の背後に放置しておいた。8島で玉砕した数は11万6千人。孤島に取り残されたのは16万人で、そのうち4万人ほどが米軍と闘うこともなく餓死、または熱帯病で死んでいった。

(ナウル島の日本軍残虐行為に関する私の論考は、残念ながら英文でしか発表していない。機会があれば日本語でも出版したい。英語論文は:
 https://apjjf.org/-Yuki-Tanaka/3441/article.html この論考は昨年出版された新版の Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II (Roman & Littlefield, 2017)の一章として収録。

4)天皇制と戦争責任:明仁の慰霊の旅の意味するもの
 天皇明仁は妻同伴で、日本国内のみならず沖縄をはじめ太平洋の島々にまで足をのばし、「戦没者の霊を慰める」という「慰霊の旅」も続けてきたことは周知のところ。例えば、2015年4月には、パラオ島とペリリュー島への「慰霊の旅」に出かけ、これをメディアが盛に報道。戦没者に対する明仁の真摯な態度と慈悲深さが絶賛された。パラオに向けて旅発つ直前に明仁が発表したメッセージの中には、次のような言葉が含まれている。

本年は戦後70年に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命かが失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことかが深く偲ばれます。………
終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約1万人、米軍は約1,700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。」
(強調:引用者。なお、米軍戦死者約1,700名という数字は実際の死亡者数より500名以上少ない)

 ペリリュー島での戦闘中、天皇裕仁は日本軍を鼓舞するため、隊長であった中川州男大佐に11回もの嘉賞(「お褒め」の言葉)を送っている。戦闘に勝目が全くないことは当初から分かっており、しかもその結果が98パーセントという死亡率であったということは、この嘉賞は、「汝らは死んで朕につくせ」という命令を、間接的に「嘉賞」という形で幾度も繰り返し表現したに過ぎないのである。

 熱帯地域で餓死・病死に追いやられ、なんとか生き延びても「玉砕」という自殺行為を強いられた、このような無数の兵たちを「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった」という美辞麗句で表現することですませ、あの戦争は本当に「祖国を守る」ための戦争だったのか、何のための戦争だったのか、とりわけ、いったいその責任は誰にあったのかは一切問わない。彼ら「帰らぬ身となった」者たちは、はっきり言えば「犬死に」したのである。彼らの死は、「悲惨、無意味、一方的に殺戮された」結果の死、つまり小田実が喝破したように「難死」以外のなにものでもない。しかも「難死」させられた者は、これまた小田が適格に述べているように、国家によって見捨てられた「棄民」である。しばしば我々が耳にする天皇や政治家たちの言葉、「戦争犠牲者のうえに戦後の日本の繁栄がある」などというのは詭弁に過ぎない。彼らの「難死」は戦後の「繁栄」とはなんら関係のない、「犬死に」以外のなにものでもなかった。

 明仁のみならず、明仁を見習う天皇家一族の「慈悲深さ」がメディアで絶賛され続けている。同時にほとんどの日本国民が、そうした報道をなんの疑問も感ぜず全面的に受け入れ、明仁と美智子を深く尊敬し、二人の慈愛活動をいたくありがたがっているのが現状である。「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」という明仁の言葉を真に実践し、「犬死に」させられた人間のことを記憶に留め、同じような歴史を繰り替えさないようにするために絶対不可欠なことは、日本人は「なぜゆえに、このような悲しい歴史を歩まなければならなかったのか」、「そのような悲しい歴史を作り出した責任は誰にあるのか」という問いである。ところが、明仁の「ありがたいお言葉」には、「悲しい歴史」を作り出した「原因」と「責任」に関する言及は、どの「慰霊の旅」でも常に完全に抜け落ちている。最も重大な責任者であった彼の父親、裕仁の責任をうやむやにしたままの「慰霊の旅」は、結局は父親の責任を曖昧にすることで、国家の責任をも曖昧にしている。つまり、換言すれば、明仁・美智子の「慰霊の旅」は、本人たちが意識していようと否とにかかわらず、裕仁と日本政府の「無責任」を隠蔽する政治的パフォーマンスなのであるが、この本質を指摘するメディア報道は文字通り皆無である。それどころか、日本国家には戦争責任があるという明確な意見を持っている進歩的知識人と呼ばれる者たちの中にさえ、こと明仁の「慰霊の旅」については、この本質を見落とし、明仁尊敬の念を表明する人間が少なくないことに、筆者は少なからぬ驚きを覚える。

  「慰霊の旅」の目的は、もっぱら日本人戦没者の「慰霊」であって、日本軍の残虐行為の被害者の「慰霊」が行われることはほとんどない。時折、「お言葉」の中で、きわめて抽象的あるいは一般的な表現で連合軍側やアジア太平洋地域の国々での「戦争の犠牲者」について触れることはあっても、いずれの「慰霊の旅」でも中心はあくまでも日本人戦没者である。2005年6月、明仁夫妻の初の海外慰霊の旅となったサイパン訪問では、多くの日本人が崖から身を投げて自殺した「バンザイ・クリフ」の前で、2人は深々と頭をさげた。この旅では韓国人犠牲者の慰霊塔にも訪れたが、実は、これは当初の日程には含まれていなかった。ところがサイパン島の韓国人住民が明仁に謝罪を求めて抗議運動を起こしたために、急遽行われたのである。謝罪はなかったが、この後で抗議運動は静まったとのこと。 
 
 したがって、明仁夫妻の旅は、裕仁の「巡幸」と同じく、結局、日本人の「戦争被害者意識」を常に強化する働きをするが、日本軍戦犯行為の犠牲者である外国人とその遺族の「痛み」に思いを走らせるという作用には全く繋がらない。すなわち、日本人の「加害者意識」の欠落を正し、戦争被害を加害と被害の複合的観点から見ることによって、戦争の実相と国家責任の重大さを深く認識できるような思考を日本人が養うことができるような方向には、「慰霊の旅」は全く繋がっていない。こうして、「日本国、日本人は戦争被害者でこそあれ加害者などではない」という国家価値観が作り上げられ、それが今も国民の間で広く強固に共有されている。そればかりではなく、非日本人の戦争被害者、とりわけ日本軍の残虐行為の被害者には目を向けないという排他性が、日本人の他民族差別と狭隘な愛国心という価値観を引き続き産み出す、隠された原因ともなっているのである。そのような価値観を共有することが国民の知らないうちに強制されていくという、「国家価値規範強制機能」が天皇の「象徴権威」にはある。



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