昨年12月16〜18日、パリ政治学院主催の第2次世界大戦終結70周年記念国際会議『危機に直面する市民:1931年以降アジア・ヨーロッパにおける大規模暴力』に招かれ、2日目の「市民空爆」で講演、3日目のパネル「植民地における大規模暴力に対する抵抗」でコメンテイター、最終日の「最終パネル・ディスカッション」でパネリストの一人として総括的な意見を述べる役目を務めました。この会議の内容についての簡単な報告については後述します。
パリには12月14日から19日までの短い滞在。21日にはメルボルンに戻りましたが、その後1週間ほど、午後3時頃になると突然睡魔に襲われ、夜も8時になる頃には再び頭が朦朧としてくるという激しい時差ボケが続き、回復するまでにかなり時間がかかりました。こんな経験は初めてでした。オーストラリア大陸東南端のメルボルンから中近東(カタールのドーハー)経由でのヨーロッパ行きは、ヨーロッパまでの飛行距離としては最短距離ですが、やはり遠いです。ヨーロッパの連中(とりわけイギリス人たち)がオーストラリアのことを「down under(地球の底)」と呼んでバカにしてきましたが、距離の遠さについては議論の余地がないです。(実は、地球儀を逆さにしてみれば、当然のことながらイギリスが「地球の底」になるのですが。また、「底」がなぜ悪いのかと、西欧中心主義に反論することもできます。)「地球ドン底」の我が家の玄関からパリのホテルのロビーまで30時間以上かかりました。もちろん帰りも30時間余り。歳をとってくると、 30時間余の連続移動は身体にひじょうにこたえます。とにかく、激しい時差ボケのため、思考散漫状態が長く続き、ブログの更新も怠りました。
シャルル・ド・ゴール空港に到着してまず気がついたのは、空港内が閑散としていることでした。パリのテロ事件の影響で、空港税関ではかなり厳しく調べられるのだろうと考えていたので、パリ政治学院からの招待状や学院教授たちとのメール交信のハード・コピーをいつでも提示することができるようにファイルを手元に準備していました。ところが、パスポートを見せただけで、質問は一切なし。税関通過には1分もかからないという簡単さに、肩透かしをくったようで驚かされました。
空港から市内中心部まで電車で行きましたが、その電車も乗客はまばら。しかし、市内中心部からパリ政治学院と宿泊ホテルのあるサンジェルマン地区まで移動するために一旦地下鉄に乗換えるや、いつものパリの状態と変わらない雑然とした雰囲気でした。しかも乗客の半分近くが北アフリカからの移民と思われる人たち。これほど多民族が混在して暮らしているパリで、「イスラム国」ISのテロリストが自分の周りにいるのかどうかを気にしていたら日常生活は成り立ちません。通常の生活を持続するためには、逆に、どのような民族背景を持った住民ともいかに「平和共存」していけるかという考えのもとに、地下鉄で隣に座った人間とできるだけ対話する、あるいは親切に対応することに務めるということから始めるより他に道はありません。つまり(安倍晋三のエセ表現ではない)真の意味での「積極的平和主義」を、日常の生活の小さな行動で実践していくより他に道はないのだと、地下鉄に乗るや私は考えさせられました。
12月初旬に行われたフランスの地域圏議会選挙での第1回選挙では、パリのテロ事件を受けて国民の間に治安や移民問題で不安が高まり、極右の国民戦線(FN)が大躍進を見せたものの、第2回選挙ではFNが全敗しました。したがって、この選挙結果は、フランス国民の政治的感覚が多民族文化主義に基づく比較的健全なものであることを証明したように私には思えます。難民・移民はほとんど受け入れず、多文化主義も極めて表面的で浅薄なもの(例えば「グルメ」)としてしか受け取られていない日本の政治文化的狭隘性(=潜在的大衆ナショナリズム)との違いは決定的です。
しかしながら、その一方で、シリア空爆という軍事手段でのオランド政権のテロ事件対応策では、ISテロ攻撃を減少させることはほとんど不可能であることも目に見えて明らかです。そもそも、ISという一大暴力テロ組織を生み出した根本的な原因は何だったのか。このことをすっかり忘れて、米英仏露は、再び空爆という国家テロでISテロに立ち向かうことで、ますます状況を泥沼化させているのが現状です。ISは、言うまでもなく、イラク戦争でイラクを追われた元フセイン政権の幹部、とりわけ軍幹部を中心に組織された暴力集団です。つまり、イラク戦争は決して終結しておらず、今も続いているのです。それのみか、むしろ戦域はイラクからシリア、レバノン、トルコ、イランへと大幅に拡大してしまい、その上にヨーロッパ社会がISによる無差別テロ攻撃の「戦場」にまでなり、終止符がつかない状態にまで悪化してしまったのが実情です。私は、今の世界状態は「世界大戦」と称すべき戦争状態にあり、「9・11事件」から徐々にこの状態に入り込んでいったと見なしています。
IS戦闘員数は2万人を超えると言われていますが、将兵数150万人、年間6000億ドル(70兆円以上)近い膨大な軍事予算を持つ米軍がこのISを屈服させることができないのが現状です。しかし、実は、オバマ大統領はイラクに対して戦争を開始すれば、遅かれ早かれこうした泥沼状況に陥ることをイラク開戦前から予測していました。彼がまだ上院議員だった2002年10月にイリノイ州で開かれた反戦集会で、イラクへの侵攻は中近東全域に戦火を広げることになり、イスラム過激派を拡大させ、アラブ社会を混乱状態に陥らせると彼は警告していました。ところが、そのオバマが大統領になるや、これまでに、中近東の回教徒国家のうち7カ国を空爆して事態を混沌化させてきました。次期大統領として最も有力な候補であるヒラリー・クリントンは、当時野党の民主党の中でもブッシュ大統領の対イラク戦争を支持した少数派の一人でした。共和党の大統領候補として有力視されているドナルド・トランプにいたっては、ISを壊滅するためにはISの家族を殺害するのが最も有力な手段であるという、信じがたい暴言を吐いていますが、本人は暴言などとは全く思っておらず、本気です。
この2人のうちどちらが大統領になっても、シリアとその周辺国家の状況が改善される可能性はほとんどないと見なすべきでしょう。逆に、米英仏露がISに空爆をすればするほど、欧米社会での無差別テロ攻撃は拡散していき、市民の犠牲者がますます増えていくでしょう。こんな米国に、嘘とまやかしで憲法違反してまでも加担しようというのが安倍晋三が推し進めている政策で、日本を破滅へと確実に押しやりつつあります。我々市民がこうした状況を根本的に変革しない限り、我々は文字通り安倍の自滅行為の道連れにされます。安倍とトランプという組み合わせの想定は、最悪です。考えたくもないくらい恐ろしい想定です。
私がパリに到着したのは『気候変動会議』が終わったすぐ後でしたが、私が不思議に思うのは、「気候変動」の最も重要な原因であるCO2を問題にしているにもかかわらず、「戦争によるCO2大量排出と猛烈な環境破壊」を指摘する政府も環境団体も皆無であったことです。いうまでもなく、戦争では戦車をはじめとする様々な軍車両、爆撃機、戦闘機、艦船などが大量の石油を消費しCO2を排出する上に、自然環境を破壊し、陸上のみならず海洋汚染をもたらします。第1次世界大戦、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、ボズニア戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争の上に、中近東やアフリカ各地で行われ今も世界各地で行われている様々な小規模戦争で排出されるCO2の驚愕すべき排出量と環境破壊の激しさを考えれば、「気候変動」を議論にするなら「戦争」は避けて通れない問題であるはずです。今、ヨーロッパではシリア難民が大きな問題になっていますが、地球温暖化がこのまま悪化すれば、いずれは、地球温暖化の結果としての食糧難のために「気候変動難民」と称すべき大量の難民が、ヨーロッパ、北米などに押し寄せてくるはずです。いったい、我々人間はどこまで状況が悪化しないと、このことに気がつかないのでしょうか。
国際会議『危機に直面する市民:1931年以降アジア・ヨーロッパにおける大規模暴力』の「市民爆撃」では、アメリカ、イギリス、フランスからの学者、それにアジアからは私が発表講演を行い、「市民爆撃」をめぐる様々な問題について議論を展開しました。しかし、私が驚いたのは、欧米の学者のほとんどが、とりわけアメリカの学者が、一応「市民爆撃」を犯罪行為としてとらえてはいるのですが、以下の2つの観点でひじょうに問題があるにもかかわらず、その問題に十分気がついていないということでした。その1つは、軍事目標爆撃=精密爆撃で出る市民被害者=いわゆる「付随的損害」は国際法(とりわけ1977年ジュネーブ追加協定)に準じており、したがって違法ではないという主張。つまり、市民の犠牲者が出ることはやむをえないという欧米諸国軍の主張をそのまま受け入れていること。2つ目は、「市民爆撃」の犠牲者を、爆撃による直接の被害者しか想定しておらず、爆撃で破壊される様々なインフラストラクチャー(社会経済設備)の結果として、間接的に出る多くの市民死傷者を全く想定していないということ。例えば、発電所や水道設備が破壊され、その結果、病院設備が機能しなくなって、多くの市民が死亡するというケースです。
「付随的損害」とは、明確に意図した市民攻撃でない場合の犠牲者は、「間接的、付随的に起きる損害(collateral damage)」というわけで、したがって攻撃した側に「責任」はないという都合の良い解釈です。裏返せば、戦闘に参加しない市民が、軍によって意図的に殺害あるいは傷つけられる場合のみが「非人道的」な「無差別攻撃」として批難されるというわけです。私に言わせれば 、これは市民空爆=無差別殺戮を正当化する論理以外のなにものでもありません。「付随的損害」をこれまで様々な地域で出し、今も出し続けている米軍とその同盟軍である多国籍軍は、被害者側から見れば、これは「テロ集団」です。今、欧米社会を震撼させている無差別テロは、まさにこうした「国家テロ」に対する「報復・反撃のテロ行為」なわけです。「国家テロ」に対する「非国家テロ」の戦い、これが私の主張する現在の「世界大戦」の状況です。
2点目については、最近私が翻訳したジョン・ダワーの論考「第2次世界大戦以降の戦争とテロ」から、ダワーが湾岸戦争に触れて論じている関連部分を引用しておきます。
「1993年に出版された、アメリカのある人口統計学者の研究によると、イラクにおける死亡者総数は20万5千人にのぼる可能性があるという結論となっている。(その内訳は、戦闘で殺害された兵士5万6千人、市民3千5百人、戦争が終わったすぐ後にアメリカ政府がけしかけたクルド人とシーア派の暴動で殺害された3万5千人、電力送電網、下水道と汚染水浄化施設、健康管理関連施設、国内道路と輸送網などが被った損害に原因する「戦後の健康への悪影響」からの死亡者11万1千人。)この計算によると、戦争に原因する健康障害問題で亡くなった者のうち7万人が15歳以下の子どもであり、8千5百人が65歳以上の老人であった。」
なぜパリの学会に出席した欧米の学者たちは、これほど明確な事実に注目しないのでしょうか。いや「注目する能力を欠いている」と表現したほうが適切かもしれません。研究室に閉じこもり、書籍の上だけの情報でものごとを分析するということを続けていると、「被害者の痛み」にまで想像力を働かせることができず、こうなるのも不思議ではないのでしょう。
とにかく、私はこの2点でかなり怒りを覚えたため、最後の「最終パネル・ディスカッション」ではこの2点にマトを絞って、痛烈に批判し、「爆弾を落とす側」ではなく、もっと「爆弾を落とされる側=市民被害者」の立場に立って想像力を働かせて欲しいと苦言を呈しておきました。
残念ながら、今年も「国家テロ」と「非国家テロ」の戦争は続き、多くの犠牲者が出ることは避けられないでしょう。年頭から、あまり明るいメッセージを発信できなくて申し訳ありません。
「良いお年をお迎えください」とはとても言えません。「良い年にするようお互いに頑張りましょう」という言葉で終わらせていただきます。お元気で。
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