自民党は自分たちが推薦した参考人の憲法学者3名が、3名とも安保関連法案=戦争法案は明らかに違憲であるという、極めてあたりまえの意見を表明したことに対して、本来ならば、謙虚に自己検証を行うべきである。本当は憲法学者の意見など参考にしなくても、我々ごく普通の市民の目から見ても違憲であることは明らか。ところが、「学者より自分の方が憲法を勉強してきた」、「違憲であるかどうかは政治家が決めること」(高村)、「安全保障環境が変われば、憲法解釈も変わる」(中谷)、「違憲かどうか議論することに意味がない」(稲田)など、批評するにはあまりにも低劣で愚鈍な反応しかしない。私はあまり『論語』を高く評価してはいないが、その『論語』の中に、「過而不改、是謂過俟(過ちを改めざる、是を過ちと謂う)」という言葉がある。彼らがやっていることは、はっきり言って憲法を犯す犯罪行為である。その犯罪行為である「過ちを改めざる」は、さらなる「過ち=犯罪行為」なのである。こんな単純なことも分からない愚鈍な連中が、国家の将来を左右する最も重要な政策を決定する権力を共有しているという「権力共有幻想共同体」を、安倍晋三という危険なリーダーの下で形成している。まさに彼らは、安倍という権力者に追従することで、自分たちが「権力を共有している」という幻想に陥って自己満足しているのであるが、このあまりにもひどい現実を一刻も早く打破しないと、文字通り我々は彼らに「殺され」、彼らに「他者を殺す」ことを強制される。
下記は、「第九条の会ヒロシマ」の最新のニュースレターに掲載していただいた拙論であるが、タイトルを「ナチス的手法の安倍政権―日米戦争責任と安倍談話を問う」と変更して、ここに転載させていただく。
「ナチス的手法の安倍政権―日米戦争責任と安倍談話を問う」
副総理・麻生太郎が、2013年7月29日、講演で「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と述べて、国民の大半が気がつかないうちに密かに憲法を変更してしまったらどうかと、破廉恥にも犯罪的と言える提案を堂々と行った。欧米諸国でナチスに学ぶことを提唱するこんな暴言を閣僚が公的な場所で吐いたならば、猛烈な批判を四方八方から浴びて即刻辞任を迫られるだけではなく、政治家生命が完全に絶たれることは日の目を見るより明らか。ところが、日本ではたいして「異常な発言」と受け取られないという社会状況が、まさに異常である。この麻生暴言は、1933年1月にヒトラー政権が成立するや、大統領緊急令を発令して憲法で定められた人権保障規定を棚上げしたり、政府が議会の決議無しに法律を制定できるような「全権委任法」を導入することで、憲法改定を行わずに、実質的には憲法改悪に匹敵することをナチ党が行ったことを指している。
この麻生暴言から2年近くが経とうとしているが、今や、安倍内閣ががむしゃらに進めていることは、まさにこのナチス政権が行ったのと同じような「憲法棚上げ」の偽装欺瞞政策である。とくに、集団的自衛権行使解禁に基づく日米安保体制の根本的な見直し、その結果としての様々な新しい関連法の立法作業は、福島瑞穂議員が喝破したように、「戦争法案」作成以外の何物でもない。そうした法案の一つ、自衛隊による他国軍への後方支援を随時可能とする「自衛隊派遣恒久法案」に「国際平和支援法」などと欺瞞的名称を与えるなど、安倍政権は、恥じることもなく、虚偽に基づく立法で憲法9条を実質的には無効にする違憲行為を行なっているのである。ナチス政権は、「独裁」を「より高次の民主主義」、「戦争準備」を「平和の確保」などと呼ぶゴマカシ表現を数多く使った。安倍が、日本を戦争のできる国にする「積極的軍事主義」のことを「積極的平和主義」などと呼んでいることも、まさにナチスがやったことと同じ手法なのである。かくして、「あの手口に学ぶ」ことは、麻生が奨める以前から、安倍晋三は堂々とやっている。問題は、安倍本人に、こうしたやりかたが虚偽行為であるという自覚が全くないことである。自分に都合の悪い批判は、すべて他人が間違っていると最初から信じ込んでいる、そのどうしようもない身勝手さである。まさに独裁者気分なのである。
その上、この数年で、秘密保護法成立、「河野談話」「村山談話」の否定、沖縄米軍基地辺野古新基地建設、教育委員会制度改悪、残業代ゼロ政策、労働派遣法改悪案など、安倍政権が次々と導入している政策を検証してみると、それらの反民主主義性、基本的人権無視など政策そのものの劣悪さについてはあらためて述べるまでもない。さらなる問題は、その導入方法そのものが全て詐欺的な「だまし」であること、にもかかわらず大部分の国民が「だまされている」と意識すらしていないこと、そのことの危険性、重大性である。すなわち、今や日本では民主主義の原則が根底から崩壊しつつあるにもかかわらず、全般的に、その危機意識が国民の間では極めて薄い。
しかも、こうした偽りとだましの政策の積み重ねの上に、今年半ばには「安倍談話」なるものを打ち出そうと画策中である。安倍晋三はこれまでの首相談話を継承すると言いながら、「安倍談話」では「村山談話」には触れないと述べ、またもや「ごまかし」と「大嘘」で「安倍談話」を作成する可能性が濃厚となっている。事実、2月10日には、安倍は建国記念の日を前にメッセージを発表し、「日本の素晴らしい伝統を守り抜くことで……改革に取組む」と述べ、「安倍談話」を考える上でも戦争責任問題を全く念頭におかないことを示唆した。さらに、4月22日にジャカルタで開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年首脳会議での演説、4月29日の米国連邦議会での演説でも、安倍は、一応は「大戦の深い反省」という表現を使いながらも、「植民地支配と侵略」については一言も触れることはなく、謝罪することもなかった。したがって、彼が「大戦の深い反省」など全くしておらず、単に批判を避けるためだけの詭弁であったことは明らかである。
もちろん、重要なことは、「談話」の表現がいかなるものであるかという技術的な問題ではない。肝心なのは、1931年から45年の15年という長きにわたって、アジア太平洋各地で残虐な侵略・占領行為を行い、推定2100万人という数の死傷者を中国に、その他にも数百万という数にのぼる死傷者の犠牲をアジアの様々な国民に強いた、その日本の責任をいかに重く受けとめ、いかにその償いを果たしていき、どのような形でアジアの平和構築に貢献していくのか、そのことのビジョンを、日本を代表する首相が打ち出せるかどうかである。そのようなビジョンを打ち出すためには、記憶、とりわけ被害者の記憶=痛みを自分の痛みとして心理的に追体験する、つまり被害者との「記憶の共有」を行い、加害者と被害者の相互理解に基づく歴史認識をしっかりと持つ必要がある。
安倍に将来に対するビジョンが完全に欠けているのは、まさに、彼が軍性奴隷制度や南京虐殺など日本軍による残虐行為の歴史事実に関する記憶そのものを抹殺することで、侵略戦争の歴史を正当化しようとやっきになっているからである。記憶の抹殺については、ドイツの「過去の克服」のための教育推進で重要な貢献を果たした哲学者テオドール・アドルノが、次のように述べている。「記憶の排除とは、無意識のプロセスが優勢であるために意識が弱体化して起きているものではなく、活発すぎるほどの意識が行っていることなのです。とうてい過ぎ去ったとはいえないことを忘れ去るという行為の内には、激情の響きが洩れています。他人を説得して周知の事実を忘れさせるためには、まず自分自身を説得して忘れさせなければならないではないか、という激情が。」(強調:田中)つまり安倍もまた、国民を説得して、祖父・岸信介がA級戦犯容疑者であったことを含む周知の様々な日本の戦争犯罪の事実を忘れさせるために、自分自身を激しい感情で説得して忘れさせようとしているのである。「慰安婦」問題をめぐる朝日新聞への激しい攻撃は、まさにそうした安倍の激情の表れの一例なのである。
記憶の抹殺を通して安倍と安倍支持グループがやっている「過去の邪悪な戦争の正当化」、すなわち「過去の克服」の失敗は、現在と未来に関する偽装欺瞞政策をも産み出しており、すでに述べたように、それは明らかな違憲行為である集団的自衛権行使用容認やその他の戦争法制の整備を通して、同時に「将来の戦争を正当化」しているのである。かくして安倍政権は、日本の民主主義体制の全面的解体作業をますます強め、日本社会破壊への暴走を加速させている。
一方、米国は、アジア太平洋戦争終結時に、原爆による21万人(内4万人は韓国・朝鮮人)にのぼる広島・長崎市民の無差別大量殺戮、それに続く日本の降伏を、日本軍国主義ファシズムに対する「自由と民主主義の勝利」と誇り高く主張した。しかも、「原爆使用がなければ戦争は終わっていなかった」と、無差別大量殺戮という「人道に対する罪」を虚偽の論理で正当化し、その正当化の「神話」がいまも多くのアメリカ市民の間で強く信じられている。つまり、無差別大量虐殺という由々しい「人道に対する罪」の自覚不能のゆえに、米国もまた「過去の克服」に失敗した。「人道に対する罪」を犯した国家責任が問われることがなかった米国は、その後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争などで繰り返し無差別爆撃殺戮を続け、世界各地で多くの市民を殺傷し続けてきた。にもかかわらず、その犯罪性が追求されることがなく、したがってなんらの国家責任も問われないままこの70年を米国はおくり、いまも核兵器をはじめ多くの大量破壊兵器を保有している。
「邪悪な戦争」をするたびに、いつも「正義の戦争」であると主張してきた無責任国家である米国、その米国の支配に完全に従属し、独立国でありながら米国の植民地のごとく自立性を失った政策を70年間も続け、国民への真の責任を回避してきた日本政府の無責任さ。そのような日米両国の無責任さにも、現在の日本の民主主義崩壊の大きな原因がある。同時にまた、そうした状況に断乎抵抗できる個々人の自律と確固たる信念、それらを支えかつ自己批判をも可能にする普遍的原理の内なる確立を国民的レベルなものとしてこなかった我々市民自身の責任も、ここで再確認する必要がある。
戦後70年を経たいま、安倍政権を打倒し、日本を本当の意味で人道的、平和的な社会にするような方向にその進むべき進路を矯正するためには、もう一度、戦後の様々な問題の発生源である「戦争責任問題」を厳しく再検討・批判し、いろいろな局面での日米両国の国家責任を詳しく問い直すことが、必要不可欠であると私は信じる。つまり「過去の克服」を国民的レベルで成功させない限り、安倍政権打倒は困難であり、日本社会の破滅を避けることもひじょうに難しいと私は考える。
そのために、今年の「8・6ヒロシマ平和へのつどい2015」では、8月4日から6日の3日間をかけて「検証:被爆・敗戦70年―日米戦争責任と安倍談話を問う―」という集会を開くことを提案し、計画中である。みなさんからの強力な支援と協力をえて、この集会をぜひとも成功させ、安倍政権打倒の運動に少しでも貢献できれば幸いである。
この集会のプログラムを含む詳細情報については、私の個人ブログの「集会案内」欄を参照してください。(アドレス:http://yjtanaka.blogspot.jp/)
田中利幸
「8・6ヒロシマ平和へのつどい2015」代表
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