2024年6月28日金曜日

核兵器を抱きしめて(7)

― 広島を抱き寄せる米国、抱きしめられたい日本と広島 ―

<手塚治虫が描いた「戦争と平和」: 壮大な漫画に込められたヒューマニズム>から私たちは何を学べるか?

 

前回の「核兵器を抱きしめて(6)」の結論で、「非暴力の実践」とは、日々の暮らしの中で、平和的文化を創造していく活動でなくてはならないという持論を述べておいた。そのような理想的な文化創造は一朝一夕にしてできるものではなく、幾世代にもわたって、様々な形での「非暴力の実践」を行なっていくことで、徐々に創り上げられていくものでしかない。それには、常にそのような文化活動を受け継いでいく若者世代の積極的な参加を促すような、興味深い文化活動でなければならない、とも私は述べておいた。

現在、「若者世代に積極的な参加を促すような、興味深い文化活動」の一つは、漫画やアニメを活用にするものであろう。そこで今回は、私が個人的にひじょうに高く評価している手塚治虫の漫画作品について私見を述べておきたいと思う。

ちなみに、先月一時帰国のおりには、大阪中之島の「子供の本の森」を訪問してみた。周知のように、この図書館は、建築家の安藤忠雄がデザインして建て、建築費用も安藤自身が全額負担の上で、大阪市に寄付したものである。素晴らしいデザインで、大人の私でも長時間座っていろいろ面白そうな本を読み続けたくなるような図書館である。書籍は国内外からの寄贈に頼っており、絵本や児童文学など約18千冊を超える書籍が収蔵されているとのこと。https://kodomohonnomori.osaka/

近年、安藤は同じような子どもの図書館を、岩手県遠野市、神戸市、熊本市、北海道大学、松山市などにも次々と自己負担で建築・寄附するという、「終活」と推測できる素晴らしい動きを見せている。つい最近、広島市にも同じ提案が出されたというニュースが流れた。

しかし、「子供の本の森 中之島」で残念だったのは、この図書館に一応「戦争と平和」に関する本のコーナーが設けられてはいるのであるが、寄贈に頼っているせいか、このコーナーに置かれている本の数は限られており、しかも手塚治虫の本は一冊も見当たらなかった。広島市に「子供の本の森」が設置された暁には、ぜひとも手塚治虫の作品の寄贈を市民の間で進めてもらい、活用してもらいたいと思う。手塚作品は、大人が子どもと一緒に読みながら、一緒に楽しみ、作品について話し合うことのできる漫画で溢れている。大人と子どもが平等な人間関係にたって、喜び、悲しみ、怒りを互いに共有しあう ― 私の表現では「非暴力の実践」 ― 活動を可能にしてくれる傑作が数多くある。手塚の漫画だけではなく、エッセイ集『ガラスの地球を救え』なども、ぜひ読んでもらいたい。広島で、手塚作品を子どもと一緒に読む定期的「手塚治虫作品読書会」の市民運動を、ぜひ長期にわたって続けてもらいたいと私は強く願う。

 

はじめに

手塚治虫は192811月に大阪で生まれ、19892月に60歳で亡くなった。比較的短い生涯で、長短合わせて700本以上の漫画を描き、その総ページ数は約15万ページにも及ぶ。したがって、手塚漫画のエッセンスを短い解説で要約することは非常に難しいが、大まかに言えば、彼の膨大な作品群の根底には、自然環境の尊重、生きとし生けるあらゆる生命の尊重、科学と文明に対する深い懐疑、反戦と平和への強いコミットメントという4つの大きな特徴があると言える。

 

この論考では、限られた時間の都合上、1950年代の初期の作品を中心に手塚漫画について論じたいが、1960年代、70年代、80年代の作品についても簡単に触れる。結論部分では、手塚の壮大な漫画に登場するヒーローを、アメリカの漫画作品のスーパーヒーローと簡潔明瞭に比較することで、手塚漫画の特徴を浮き彫りにすることを試みてみたい。 (なお、この論考は私の英語論文War and Peace as Illustrated by Tezuka Osamu: The Humanism in his Epic Manga’を和訳し、修正・加筆したものであることを記しておく。 https://apjjf.org/yuki-tanaka/3412/article

 

個人的背景

まず指摘しておくべきことは、手塚の家系が彼の思想に強い影響を与え、それが彼の作品の多くの基礎となっているということである。彼の曽曽祖父である手塚良仙と曽祖父である手塚良庵は、両人とも、江戸時代後期のいわゆる「蘭方医」(オランダ医学を学んだ医師)であり、1858年に江戸の神田に天然痘の予防接種所を開設したひじょうに進歩的な医師たちの小さなグループに属していた。手塚の先祖とその仲間たちは、封建的な日本社会にさまざまな西洋近代医療技術を導入しようと奮闘し、伝統的な医師の間だけではなく、一般庶民の間にも広まっていた「異質な手術」に対する深い不信感を克服した。(手塚は1981年から86年にかけて、手塚良庵と良仙の半伝記的漫画『陽だまりの樹』全11巻を制作している。)

手塚の祖父、手塚太郎は弁護士で、大阪地方裁判所の検事正、名古屋と長崎の検察庁長官を務めた。関西法律学校(現在の関西大学法学部)の創設者の一人でもある。手塚の父、手塚豊は住友金属工業のごく普通のサラリーマンだったが、写真や映画に深い興味を持っていた。1930年代、まだ多くの日本人にとって映画館に行くことが一種の特別な娯楽であった時代に、彼は「パティ・ベイビー」という映写機を持っており、自宅でよくチャーリー・チャップリンの映画やディズニーのアニメーションを上映していた。手塚の母・文子は、大日本帝国陸軍の高級将校・服部秀雄中将の娘であり、非常に厳格で伝統的な家父長的思想のもとに育てられた。しかし、この母もまた、そのような背景を持つ人物にしては驚くほど自由な考え方を持っており、漫画だけでなく、外国の小説や冒険小説の日本語訳など、他の文学作品も数多く子供たちに買い与えた。このように、手塚治虫が両親や先祖から多くの特徴的な要素を受け継いだことは明らかである。これらの要素は彼の膨大な作品群に反映され、彼の漫画のユニークなスタイル形成に貢献している。

1933年、手塚が5歳のとき、一家は大阪から宝塚に移り住んだ。大人気の宝塚歌劇団が常に上演し、現在も華やかなショーを行っている宝塚大劇場は1924年に建てられ、宝塚ルナパークなどの遊園地も同時期に建設されたが、その当時は、いまだ田んぼと山に囲まれた田園地帯の新興の小さな町だった。そのため、少年時代の手塚は昆虫や天文に強い興味を持ち、大阪の都会から移り住んできた田舎暮らしにとても魅力を感じていた。小学校低学年の頃から、昆虫採集に明け暮れ、それを丹念に絵に描いて記録した。そのような活動を通して、自然環境や生きとし生けるものへの深い敬意を抱くようになったのは確かなようだ。その一方で、母に連れられて宝塚歌劇団をよく観劇したことから、ミュージカルや演劇に魅了されるようにもなる。宝塚ミュージカルへの憧れから、物語を創作することも好きになったのであろう。小中学生時代には、面白い筋書きの漫画をよく描き、クラスメートだけでなく先生たちの間でも回覧されていた。

手塚治虫14〜5歳の頃のスケッチブック

日中戦争は1931年、手塚が9歳のときに始まり、太平洋戦争は1941年、13歳で中学に入学したときに始まった。 1944年夏、手塚は体力のない男子中学生のために設けられた特別訓練学校に送られ、集中的な軍事訓練を受けたが、重い皮膚病にかかった。同年9月からは中学校の授業は休講となり、そのため仲間とともに大阪の陸軍工廠に動員された。

1944年末から米軍は日本の都市への爆撃を開始し、翌年初めからは日本全土の主要な都市や町を標的にした焼夷弾爆撃が強化された。大阪市も幾度も攻撃された。最初の空襲は1945313日午前0時から3時間続き、7万発の焼夷弾が投下され、3,000人の市民が犠牲になった。61日以降、関西最大の都市である大阪は、67日、15日、26日、710日、24日、814日と繰り返し攻撃された。最後の爆撃は、日本が正式に降伏する前日の814日、150機のB29爆撃機から700発の1トン爆弾が投下された。主な標的は大阪城近くの陸軍造兵廠だったが、一部の爆弾は、ちょうど2列の旅客列車が到着した京橋駅に落とされた。この爆弾の直撃で多くの民間人が犠牲になった。この一連の米軍爆撃で、大阪市全体で1万人以上の市民が犠牲になったとみられている。        

手塚は工廠勤務中に大阪大空襲を経験している。仕事に集中せずに漫画を描いていたため、しばしば叱責され、罰として工場の庭にある監視塔に登ってB29爆撃機を見張り、見かけたら警告を出すよう命じられた。後年、彼は自分が体験したある空襲についてこう語っている:

空襲警報のサイレンが鳴り始めると、いつものように米軍爆撃機の編隊が淀川沿いに向かってくるのが見えた。「来るぞ」と思ったとたん、大雨のような音を立てて焼夷弾が降ってきた。爆弾は次々と工場に降り注いだ。監視塔の上に身をさらしていた私の人生もこれで終わりだと思った瞬間、真下2メートルの屋根に爆弾が落ちた。後で聞いた話だが、この爆弾で、この建物の下にあった防空壕に駆け込んだ人たち全員が亡くなったそうだ。私は気が狂ったかのように叫びながら、監視塔から転げ落ちた。辺り一面、火の海だった ...... 四方八方の家々が、ごうごうと音を立てながら、飛び跳ねる炎で燃えていた。そして黒いススを含んだ雨が降ってきた。私は淀川の川岸まで歩いた。そこからは、爆弾でえぐられた大きな穴がいくつも見え、そこに人体のようなものが無数に横たわっていた(遺体はバラバラになっていて人間には見えなかった)。

1974年、手塚はこの忘れがたい体験を描いた自伝的漫画『紙の砦』を発表した。この焼夷弾爆撃からの奇跡的な生還体験が、彼の戦争と平和に対する考え方に大きな影響を与えたことは間違いない。また、軍部の指導者や政治家に対して深い不信感を抱き、原爆や焼夷弾のような強力な破壊兵器を生み出す可能性のある科学知識の乱用を恐れるようになった。



 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太平洋戦争が終わる直前の19457月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部に入学した。当時は医師不足の時代であったため、軍医速成のための医学部とは別の、医学専門部という制度が設けられ、一部の学生は高校を卒業せずに中学からそのまま医科大学に入学することができた。手塚は1951年にこの医学課程を修了したが、医師にはならず、プロの漫画家としての道を選んだ。しかし、医学を学んだことが、少年時代から育んできた生きとし生けるものの生命に対する畏敬の念につながったことは間違いない。実際、彼は生涯を通じて医学への関心を持ち続け、仕事が多忙を極める中、1961年に「異形精子」に関する論文を提出し、見事に医学博士の学位を取得している。

戦争における死の観察と、戦争の荒廃からの生命の復活は、手塚に生涯にわたる漫画創作の動機を与え続けた。現代日本画家として知られる横尾忠則との対談の中で、手塚は漫画やアニメーションの形の動きにはいつも強い生命力を感じると説明している。それは、戦時中の自分自身の生活に活力がまったくなかったためであるとも。戦争が終わったとき、自分の人生が蘇ったような感覚は、言葉では言い表せないほどエキサイティングなものだったという。それ以来、漫画を描くことにいつも強いエネルギーを見出していた。

彼は漫画のためのアイデアを得るために、いつも小説や冒険小説、演劇の台本を熱心に読んでいた。特にチェコの小説家・劇作家のカレル・チャペックの『R.U.R.』、『山椒魚戦争』、『白い病』、H.G.ウェルズの『月世界最初の人間』、ゲーテの『ファウスト』、ドストエフスキーの『罪と罰』などである。しかし、手塚がこれらの作家の作品を選び、自分の物語を創作するために利用したのは、単に作者が有名だからではなく、これらの物語が包含する深い人間性のためであることは明らかである。

 

鉄腕アトム:人間のようなロボット

手塚の初期の作品には、戦争、平和、人間性についての彼の考えが色濃く反映されているのは、彼が生死をさまよった爆撃体験があるからにほかならない。例えば、鉄腕アトムという有名なキャラクターは、もともとスーパーヒーローのロボットではなく、スーパーヒーローになることもなく、自分を作った科学者の天馬博士に捨てられた孤独で気弱な少年だった。鉄腕アトムは、交通事故で亡くなった科学者の実の息子の身代わりとして作られた。しかし、科学者は、ロボットは本物の人間の代わりにはなれないと悟り、鉄腕アトムを処分してしまった。鉄腕アトムは、戦後の日本社会から疎外された、戦争孤児の象徴のような存在だった。鉄腕アトムの漫画が発表された1951年当時、戦後6年を経た日本全国には多くの戦争孤児がいた。鉄腕アトムも戦災孤児たちと同じように、自分のアイデンティティを確立し、地域社会に貢献することで社会に受け入れられるよう努力しなければならなかった。鉄腕アトムは、平和の調停者として活動することで、それを成功させた。鉄腕アトムの第1話のタイトルが『鉄腕アトム大使』だったのはこのためである。

ただここで、ロボットの名前として「アトム」が使われたことに一言触れておく必要がある。周知のように、米国は、アイゼンハワー政権下で、「原子力平和利用」政策を国内外で推進する政策を1953年末に打ち出し、その結果、原子力エネルギーの利用で薔薇色の未来が開かれるような幻想が世界中を覆った。手塚もまた、この夢に一旦は惑わされ、ロボットを鉄腕アトムと命名し、アトムの妹のロボットもウランと名付けたのであろう。よって、当然、鉄腕アトムのエネルギー源も原子力であると読者は思ってしまう。実際には、漫画の中でロボットのアトムやウランが原子力で動くことを説明している場面は全くないにも関わらずである。手塚自身は、「原子力利用」に大きな問題があることに間もなく気がつくのであるが、そのときにはすでに「鉄腕アトム」の名称は全国に普及してしまっており、いまさら名称変更ができないような状況になってしまっていたのであろう。多数の原爆被害者をも賛成派に巻き込んだ当時の「原子力平和利用」プロパガンダに、手塚もまた惑わされてしまった事実について、私たちも深く考えてみる必要がある。

それはともかくも、この『鉄腕アトム大使』の漫画は、地球とまったく同じような別の惑星に住む宇宙人たちが、自分たちの惑星の爆発によって地球への移住を余儀なくされる物語である。宇宙難民となった宇宙人たちは、耳が大きいことを除けば、地球人とまったく同じである。地球人は当初、自分たち一人ひとりとそっくりの、自分の双子の相手、あるいは替え玉とも呼べるエイリアンたちを歓迎するが、やがて食糧危機に直面し、争いを始める。ここには、同じ人間がどうして互いに争い、殺し合うことができるのかという、単純明快な問いかけを通しての、戦争や紛争に対する手塚の批判が見て取れる。この漫画を通して、手塚の「あらゆる生命のために、ひとつになった地球」という、その後の彼の様々な作品の根幹に一貫して流れるコンセプトが、すでにこの作品の中で形になっていることがわかる。

手塚は、第二次世界大戦中の恐ろしい原爆・焼夷弾攻撃だけでなく、終戦直後の連合国軍占領下でアメリカ人GIから受けた暴力に遭遇したことで、異民族間の争いの不条理さを身をもって学んだ。米国兵に売るために自分が描いた絵を、ある米兵は破ろうとした。それを彼がなんとか止めようとしたとき、彼はその米兵にひどく殴られるという体験をしたのである。

鉄腕アトムは人工的に作られたため、異星人の中に自分の「替え玉」を持たず、人類にも異星人にも属さないため、仲介役を務めることができる。最終的に彼は、人類の半分とエイリアンの移住者の半分が地球を離れ、それぞれが平和に暮らせる別の惑星を探すよう手配し、2つの種族間の和平構築に成功する。興味深いのは、映画『GODZILLA ゴジラ』に代表されるように、戦後の怪獣による日本侵略物語の多くが、異様で危険な「他者」との対決における日本人の究極的な生存をテーマに構成されているのに対し、この『鉄腕アトム』第1話のメインテーマは、2つの異なる種族間の「和解」であることだ。実際、その後17年間続いた鉄腕アトムのエピソードでは、隔離と和解がこれらの人道的なロボット物語の中心テーマであり続けたが、2つの異なる種族の対立と和解という当初のテーマは、人間とロボットの対立というテーマへと発展していった。


鉄腕アトムが自分で考え、人間の幸せを実現するために行動する能力を持っていることも興味深い。逆に、1950年代に登場した他の人気ロボット漫画のヒーロー、例えば横山光輝の『鉄人28号』は、最終的にロボットの善悪を決める操縦者=コントローラーに従うだけである。そのため、これらのロボットは、誰が操縦するかによって、正義のために戦うロボットから悪役に転向したり、その逆に転向したりすることが簡単にできる。このような単純な機械生産のロボットとは異なり、鉄腕アトムは、他のロボットが人間に反抗するとき、しばしばどちらの側につくべきか合理的に判断できず、窮地に立たされる。しかし必然的に、鉄腕アトムは人間の幸せを実現するという使命を果たす。

このように、多くのエピソードで鉄腕アトムは死と再生のサイクルを繰り返し、修理されたり作り直されたりする。実際、19663月に完結した鉄腕アトムシリーズの最終回は、鉄腕アトムの究極の自己犠牲で幕を閉じた。この物語の中で鉄腕アトムは、人間に反抗するロボットのリーダーであるブルーナイト(青騎士)と呼ばれるロボットに襲われたロッソ博士を守ろうとした後、完全に破壊され、修復することはもうできなくなった。これらのロボットは、ロッソ博士自身の産物であった。したがって、アメリカの漫画のスーパーヒーローたち ― 例えばスーパーマンやスパイダーマン ― とは異なり、鉄腕アトムは不死身でも無敵でもない。鉄腕アトムは、ロボットとしての自意識と人間としての自意識のジレンマに常に悩まされているため、スーパーヒーローになることはできない。 鉄腕アトムは永遠に若く、肉体的には年を取らないが、普通の人間の少年と同じで、常に不完全であり、人生の困難との出会いや経験から学び続けている。

鉄腕アトムと鉄人28号の決定的な違いは、鉄腕アトムの行動思想に普遍性があることである。鉄腕アトムは世界の平和と正義を求め、常に世界中を動き回っている。彼は国籍や民族を超え、自由に国境を越える。何が本当に正義なのかを判断するのは難しいと感じることも多いが、最終的には正義を貫く者なら誰とでも手を組み、どんな悪党とも戦う。一方、鉄人28号の漫画では、善人はいつも日本人に見え、日の丸をあしらった飛行機や乗り物に乗っているが、悪人はいつも白人に見える。鉄腕アトムの世界では、紛争は通常、国家間や人種間で起こるのではなく、不道徳な大人と無邪気な子供との間で起こる。その意味で、この児童向け漫画は、政治、国籍、民族、宗教、人種や文化の違いといった偏狭なイデオロギー的要素と密接に絡み合った大人の活動に対する深い批判を含んでいる。鉄腕アトムのキャラクターが持つこの普遍的な側面が、世界的に絶大な人気を誇る大きな理由であることは間違いないだろう。

手塚は、1920年にカレル・チャペックが書いた有名なSF小説『R.U.R.』をはっきりと意識していたようだ。この物語でチャペックは、チェコ語の「ロボタ」(「奴隷労働」の意味)から「ロボット」という新しい言葉を発明した。R.U.R.は、人間自身が生み出したロボットの人口が増加した結果、人類が完全に滅亡するという結末で終わる。チャペックが生涯を通じて作品の中で探求し続けた重要な問いのひとつは、科学技術の発展が最終的に人間に幸福をもたらすのかどうかということだった。彼は常に科学がもたらす恩恵に懐疑的で、テクノロジーの乱用が最終的に人類の絶滅につながるのではないかと考えていた。手塚も同じ疑問に悩まされ続けたが、チャペックとは異なり、彼は、人間は基本的に科学技術の知識を自分たちの幸せのために活用できるくらい賢明であるという希望を捨てなかった。しかし同時に、彼は漫画を通して、そのような知識の乱用が人間だけでなく、環境や地球上の他の多くの生物にも害をもたらす可能性があることを常に警告していた。

 

未来の世界:科学技術の乱用への警告

1951年、手塚は『来るべき世界』という大作マンガも発表したが、 この作品には米国と当時のソビエト連邦の間の核軍拡競争を厳しく批判する内容が含まれている。この漫画では、敵対する2つの国、スター国とウラン連邦が長年にわたって核実験を行っているという設定になっている。その結果、多くの動植物が放射線の影響を受け、突然変異を起こした。そのような突然変異のひとつが「フウムーン」と呼ばれる優れた知性を持つ生物を生み出し、彼らは地球がまもなく有毒ガスに覆われ、それゆえすべての生物が絶滅することを察知する。そこでフウムーン一家は、ノアが箱舟で行ったように、地球上のすべての生き物を一組ずつ連れて、大型衛星で地球を離れることにした。

一方、スター国とウラン連邦は核兵器の開発に余念がなく、やがて核戦争を始めてしまう。この核戦争で両国がほぼ完全に破壊されたとき、両国の指導者たちは平和を回復することに同意する。しかし、その頃には地球は暗黒の毒ガスで覆われつつあった。毒ガスが降り注ぐ中、両国の首脳は抱き合いながら、「平和、平和が訪れた!世界文化万歳!」と叫ぶ。いまや、地球沸騰化によって地球全体が深刻な気候危機に見舞われている一方で、私たちはいまだに世界中で戦争に明け暮れ、2023年には世界全体で年間24,430億ドル(約378兆円)もの軍事費を費やしている。73年前に手塚が描いた漫画 『来るべき世界』での世界の危機的状況は、哀しいかな、今現在の危機的状況と変わらない ― いやそれどころか、ますます逼迫した状態に陥りつつある。


このメッセージに加え、『来るべき世界』が提起する問題には他にも多くの要素がある。この漫画では、3人の子供、フウムーン、ヒゲオヤジと呼ばれる私立探偵、山田野加賀士博士という名の生物学者、そしてスター国とウラン連邦のそれぞれの国家指導者が主人公として登場する。この2つの国の対立の物語は、登場人物たちの関係が進展するにつれて展開する。これらの登場人物は、重大な事件が次々と起こり、それらの事件は前の事件が解決する前に始まるという悪循環が生まれるのを目の当たりにする。日本の漫画家であり評論家である夏目房之介が適格に指摘しているように、この2つの強国間の国際紛争の物語は、主人公たちの個人的な関係の多くの物語が複雑に絡み合って構成されている。さらに、国際紛争は、人間とフウムーン族の文化的・知的差異を物語る重要な要素としても構築されている。しかし、結局のところ、これらの物語はすべて、宇宙という壮大な物語のほんの一部分としてしか提示されていないことに読者は気づく。2つの国の対立は、人間とフウムーン族の対立という文脈では無意味であり、同様に人間とフウムーン族の対立も、地球と地球上のあらゆるものが脅威にさらされている今、無益であることを読者に分わからせるのである。

手塚の漫画によれば、未来の世界は相互関連性の論理に基づいて構成されているのであり、特に普遍的な観点からすれば、この世界には「絶対的な正義」など存在しないことを示している。実際、手塚は彼のエンターテインメント性と想像力を駆使した漫画を通して、すべてのものは他のものとの関係によって条件づけられており、何事にも単純明快な答えは存在しないことを読者に伝えようとした。言い換えれば、人間を含むあらゆる存在は、他の存在との関係によって不可避的に条件づけられており、この相互関連性の関係なしに存在するものは何もないということだ。それゆえ、他の多くの児童漫画の物語とは異なり、この壮大な漫画には正義と平和のために戦うスーパーヒーローは登場しない。したがって、物語はスーパーヒーローの絶対的勝利で終わることはない。

しかし、手塚はこの漫画を人類の悲劇で終わらせたくはなかった。そこで彼は、毒ガスが地球に降り注ぐまさにそのとき、劇的な化学反応を起こして無害な酸素に変わり、人類が生き延び、生き続けることができるようにすることにしたのだ。しかし、彼は山田野博士の最後の言葉を通して、読者に警告を発している。言わく、「いつの日か、優れた生物が人間を征服するかもしれない。これは自然の法則である。もし私たちが自然の法則の下で生き、生き残りたいのであれば、互いに争うことをやめなければなりません」。手塚はまた、『メトロポリス』や『ゼロマン』など、1940 年代後半から 1950 年代初頭に制作した他の大作マンガの最後にも同様の警告を挿入している ― 例えば、「いつの日か、人類は科学が発達しすぎたために自滅するかもしれない」という言葉はその一つ。

カレル・チャペックの小説『山椒魚戦争』と手塚の『来たるべき世界』を比較すると、相互関連性の論理が驚くほど似ていることに気づく。どちらの物語でも、人間より優れた種 ― 『山椒魚戦争』ではサラマンダーが、『来たるべき世界』ではフウムーン ― が現れ、やがて地球上のあらゆるものが全滅の危機に直面する。どちらの物語でも、人間は地球上の多くの生物種の一つとして扱われ、人間同士の争いは地球全体に深刻な危機をもたらす。そしてまた、手塚の物語の結末は、人類が最終的に生き残るための希望を与えているのに対し、チャペックの物語は人類の致命的な悲劇を予言して終わっている。この違いにもかかわらず、手塚の初期の作品がチャペックの科学や人間の行動に対する懐疑主義から、大きな影響を受けていたことは間違いない。

 

核問題を描いた大作漫画

1953年、手塚は『太平洋Xポイント』という大作漫画を発表した。敵対する2つの核保有国、コスモポリタン国とユーラシア国が、より強力な兵器を開発しようと躍起になっている。やがてコスモポリタン国は、核爆弾よりもはるかに強力な「酸素爆弾」と呼ばれる新型爆弾を製造する。この新兵器の実験に反対する世界中の抗議にもかかわらず、コスモポリタン政府は太平洋上の「ポイントX」という場所で実験を行うことを決定し、実験場付近の島々の住民をすべて人里離れた場所に移住させる。このニュースを聞いた元泥棒で、今は普通の市民として暮らしているヒゲオヤジと呼ばれる老人は、実験前に兵器を破壊することを決意する。息子の協力を得て、彼はこの計画を成功させる。この漫画でも、政治家や軍国主義者の狂気と戦うのは、スーパーヒーローではなく、犯罪歴のある老人とその息子なのである。

「酸素爆弾」の恐ろしさを想像するヒゲオヤジ

手塚がこの漫画を書いたのは、アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行う1年前であったことは注目に値する。アメリカがビキニ環礁で核実験を開始したのは19467月で、広島と長崎に原爆が投下されてから1年も経っていない。しかし、核実験問題が日本で大きな政治問題となったのは、19543月にビキニ環礁近くで行われたアメリカ初の水爆実験「ブラボー作戦」の結果、日本の漁船「第五福竜丸」が放射性降下物に覆われ、乗組員が被曝してからである。手塚を除けば、この時期の漫画界で核問題をメインテーマに取り上げた作家はほとんどいなかった。

その例外のひとつが、日本の反核運動がすでに強く広まっていた第五福竜丸事件から5年後の1959年に出版された白土三平の『消えゆく少女』である。原爆による放射能病で、家族全員を失った広島の少女の物語である。彼女自身も被爆によって病気になり、 被爆者に対する当時の根強い社会的差別の結果、彼女はホームレスとなる。そして彷徨い歩く森の中で彼女は、戦時中に日本に連れてこられ、日本の炭鉱で強制労働に従事させられていた朝鮮人男性と出会う。しばらくの間、ふたりは幸せに暮らしていたが、韓国人男性が警察に逮捕され、韓国に戻る船に乗せられる。彼は船から逃げ出し、森に戻るが、少女はすでに死んでいた。放射能差別と民族差別を真っ向から取り扱う感動的なストーリーであることは間違いないが、この漫画のメインテーマは、原爆問題そのものよりも、日本の社会的・人種的差別である。日本社会の問題に焦点を当てており、手塚の漫画とは異なり、核問題に立ち向かうに当たってグローバルな視点は持っていない。

第五福竜丸事件に触発され、1954年末に映画『ゴジラ』が製作されたことはよく知られている。その翌年には、同じく水爆実験に影響を受けた黒澤明が『生きものの記録』を制作している。どちらも日本人を核兵器の被害者として描いている。実際、1952年以降、新藤兼人監督の『原爆の子』など、原爆や核実験を題材にした映画が数多く製作された。これらの映画は例外なく、日本と日本人を被害者として描いている。そのずっと後、1970年代になって、中沢啓治が『はだしのゲン』を発表した。この漫画は、広島に対する原爆無差別大量殺戮を生き延びた少年とその家族の厳しく困難な人生を描いた大作である。この漫画は英語をはじめ数多くの外国語に翻訳されて世界中で広く読まれ、現在も国内外で人気を博している。しかし、手塚自身がかつてコメントしたように、この漫画の物語の主たる重点は、核兵器の問題よりも、想像を絶する災難を経験した家族の深い愛と強い絆に置かれている。この漫画でも、日本人は主として戦争の犠牲者として描かれ、中心テーマは、戦後の日本での生活のさまざまな困難 ― とりわけ日本政治社会の「正義に反する行為」に起因する困難 ― を懸命に乗り越えていく、その「正義を求めて」やまないゲンの姿である。その点で、もちろん感動的な作品であることは間違いないが。

実に興味深いのは、手塚は1955年にも核問題を扱った大作『大洪水時代』を描いていることだ。この漫画では、 日本が核兵器保有国という設定になっている。北極近くに建設された日本の秘密核兵器が突然爆発し、海水の大洪水が日本に降り注ぐという災害を描いている。その結果、日本の国土の3分の1が水没するというストリーである。当時、多くの日本人が核兵器の使用によって自分たちが犠牲になることだけに関心を寄せていたのに対し、手塚は戦争に参加しなくても日本も核保有国になる可能性があり、その結果、自然環境だけでなく人間にも災いをもたらす可能性があることを示唆することにためらいがなかったことが、この漫画を通してわかる。手塚がこの漫画を描いたのは、アメリカ軍が朝鮮戦争で戦うために日本の基地を使用していたため、近い将来日本人も戦争加害者になるかもしれないという懸念を表明するためだったのは明らかだ。この漫画でもまた、大量破壊兵器の製造を目論む大人たちの狂気と戦おうとする少年の姿が描かれている。

『大洪水時代』から

劇画マンガとアメリカン・ヒーロー

1960年代後半から1970年代前半にかけて、ベトナム戦争反対運動が盛んだった頃、手塚は『紙の砦』、『ゼフィルス』、『カノン』、『墜落した戦闘機』、『大将軍、森へ行く』など、アジア太平洋戦争を題材にした、短編ながら優れた劇画マンガ(大人向けマンガ)をいくつか発表した。手塚がこれらの漫画を描いたのは、米軍による度重なる激しい空爆の下で、ベトナム人が日々どんな苦しみを味わっていたかを想像してのことだったのは間違いない。これ以外にも手塚は劇画マンガを制作しており、特に『ブラック・ジャック』シリーズは、ベトナム戦争でアメリカ兵が経験した精神的外傷や身体的重傷を直接描いた作品である。

1970年代後半からその生涯を閉じるまで、手塚の物語の多くは、善と悪の共存という人間の本性の二重性の問題と、この生来の矛盾から生じる様々な問題、中でも最も深刻な戦争問題をどう解決するかという問題を扱っていた。この種の作品では、1976年に出版された2巻本『MW(ムウ)』と1983年に出版された5巻本の『アドルフに告ぐ』が代表作だろう。『MW』では、化学兵器などの大量破壊兵器を扱う人々の狂気を ― 同時に当時としてはほとんどタブー視されていた同性愛の問題も真っ向から ― 取り上げている。一方、『アドルフに告ぐ』は、それぞれ「アドルフ」と名付けられた3人の男をめぐる長大で複雑な戦争物語である ― その3人とは、アドルフ・ヒトラー、神戸に住むユダヤ人のパン屋の息子少年、神戸に住むドイツ人領事の父と日本人の母の間に生まれた少年である。この物語では、人種の純潔性、民族性、個人のアイデンティティ、ナショナリズム、国家イデオロギー、軍事暴力、非人間化、政治腐敗など、多くの重要な問題が問われている。ユダヤ人少年の父親は、第二次世界大戦中にナチスの将校となった日系ドイツ人の少年に殺される。しかし戦後、ユダヤ人の少年はイスラエルに移住し、パレスチナ人を残虐に弾圧するようになる。パレスチナ問題に関心を持つ日本人がほとんどいなかった1980年代初頭、手塚はすでにこの問題を日本の漫画読者に紹介し、戦争が同じ人間を被害者にも加害者にもしうることを明確に指摘していた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すでに述べたように、手塚の漫画にはスーパーヒーローがほとんど登場しない。聖人のようなブッダでさえ、目的を達成するために人間のさまざまな弱点や欠点を苦労して克服する人物として描かれている。『ブッダ』と題された全14巻の長編漫画に登場するブッダには、イエス・キリストのような生来完璧な人物とは異なり、個人的な欠点や弱点を持った人間である。

手塚の漫画には、スーパーマンやスパイダーマン、バットマンといった、アメリカの漫画で最も人気のあるキャラクターのようなスーパーヒーローは登場しない。これらのアメリカン・スーパーヒーローは、正義、道徳、倫理といった事柄に関する限り、判断を誤ることは決してない。彼らは常に正義と平和という崇高な目的のために戦い、やがて悪党や悪を倒すという壮大な使命を果たし、その驚異的なパワーで次々と危険を排除していく。

この点で、アメリカのスーパーヒーローは、実は米軍を象徴するような存在なのである。米軍は、スーパーヒーローの如く、独善的な「正義と平和」のためには世界のどこへでも侵攻して行き、強力な軍事力で「悪敵」を排除する。広島・長崎に原爆攻撃を行ったのも、まさに「自由と民主主義の勝利」という崇高な目的のために日本軍国主義ファシズムを崩壊させるためだった、というスーパーヒーロー的な神話を作り上げて、ジェノサイドという由々しい「人道に対する罪」を隠蔽してしまった。

しかし、2001年の9.11テロのような現実の大惨事が起こると、こうしたスーパーヒーローたちは突然、まったく無力になる。これは、スーパーヒーローたちが生きている想像の世界が現実世界から完全に切り離されているのに対し、手塚漫画の想像の世界は、現実世界の重大で複雑な問題と密接かつ強固に結びついているからである。したがって9.11テロでは、スーパーマンは言葉を失い、燃え上がるツインタワーを前に、何もできない自分の不甲斐なさに苦しむばかりである。2001年末に発表された漫画では、911日の救助ボランティアたち ― 消防士、警察官、看護師、医師 ― の特大の姿を前に、小さなスーパーマンは彼らを見上げて、ただ「すごい」と言って感激することしかできない。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スパイダーマンもまた、ツインタワーの瓦礫の前で、大勢の救助ボランティアたちが懸命に作業をしている姿を、茫然と見下ろすより他になす術がない。彼にできることは、絶望的に「グラウンド・ゼロ」の現場に立ち尽くし、「テロリストの世界を理解することはできない」と心の中でつぶやくことだけだった。実際、スパイダーマン初のハリウッド映画は911日のテロの直前に撮影されており、その中でスパイダーマンはツインタワーの間に巨大な網を張っていた。ところが、映画が公開される前に、世界貿易センタービルの映像はコンピューター技術によってすべて消去されたのである(気をつけて観ると、ほんの数秒間だけツインタワーの映像がまだ残っているが)。ツイン・タワーが崩壊した後、瓦礫の下敷きになった人を一人も救えなかったスパイダーマンが、ツインタワーの周りをジャンプできるはずがないからである。つまり、現実は、真のヒーローはスーパーマンやスパイダーマンではなく、救助ボランティアであることを明確に示しているのである。


3,000人近い市民が無差別に殺されたこの驚くべきテロ攻撃に対して、手塚が当時まだ生きていたなら、漫画を通してどのように反応しただろうか。繰り返して述べるが、手塚の漫画にスーパーヒーローが登場する余地はない。なぜなら、彼の漫画世界は複雑で、絶対的な正義や絶対的な公正など存在しないからだ。彼の漫画の世界は非常に想像力に富んでいるが、登場人物の誰かが正義と平和を願うなら、人間社会の複雑さ、特にさまざまな形の「対立」に直面しなければならないという現実、その厳しい現実を直視しなければならないからだ。

 

結論

手塚の壮大な長編漫画は、ストーリーが常に対立を軸に展開するため、どの作品もダイナミックである ―  強国対強国、人間対機械、原始的対近代的、組織対個人、理想主義対現実主義、科学対倫理などなど。これらの対立は、帝国主義、独裁、植民地化、大量虐殺、官僚主義といった普遍的な問題の形をとっている。しかし、こうした大人のテーマは常に明確に提示され、子供にも理解しやすいように単純化されている。実際、彼の膨大な量の漫画作品は「無邪気なセレモニー」と呼べるであろうと私は思う ― この表現は、1920年にアイルランドの有名な詩人ウィリアム・バトラー・イェイツが、子どもたちの世界を表現するのに使った素晴らしい言葉である。

このように、終戦直後から漫画家として活躍し始めた彼は、1989年にその生涯を閉じるまで、魅力溢れるビジョンと力強い想像力によって、自分たちをもっぱら戦争被害者としか見ない偏狭な日本人の見方にほとんど影響されることなく、世界的視野に立った深いヒューマニズムを維持し、それを自分の作品で次々に表現することができたのである。彼の作品は、小林よしのりのようなナショナリスティックな日本の低劣な戦争漫画とは対極にあることがよくわかる。なぜ手塚はこのようなヒューマニズムを獲得できたのだろうか?私たち自身は、どうすれば手塚と同じような強靭なヒューマニズムを獲得し、それを社会の文化基盤としてしっかりと根付かせ、普及させることができるのだろうか?これらの問いは、人種に関係なく、手塚の刺激的な漫画を読むすべての人が真剣に探求すべきものであると私は思う。

 

 



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