― 広島を抱き寄せる米国、抱きしめられたい日本と広島 ―
米国の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」をひっくり返す「平和文化創造運動」の構想を!
この論考は、<米国の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」をひっくり返す「平和文化創造運動」の構想を!>と題して行なった広島講演(2024年5月11日)のノートに少し修正を加えたものです。元々の講演ノートの結論部分<7)新しい市民運動としての「平和文化創造運動」の構想を!>は、ここでは全文をカットしました。
実は、2月末に前回の「核兵器を抱きしめて(5)」をブログに載せた際に、次回(6)は<「広島の平和教育」への私的提言 ― 『ひろしま平和ノート』改悪を乗り超える展望を ― >という内容にする計画でした。ところが突然5月の一時帰国中に広島で講演することになったため、この計画を変更しました。講演ノートを「核兵器を抱きしめて(6)」として発表することにし、カットした今回掲載の論考の結論部分は<「広島の平和教育」への私的提言>と重なる部分がかなりあるため、次回の「核兵器を抱きしめて(7)」は、この私的提言を含めた新しい論考にする予定です。
とりあえず、今回のこの論考をご笑覧いただき、ご批評いただければ光栄です。
1) 「戦争責任隠蔽」を出発点とする日米両国の戦後 ― 映画「オッペンハイマー」批判から考える
この映画は、私のブログでも詳しく述べておいたように、原爆開発の先頭にたってきたオッペンハイマーが、実際に原爆が使われたことで、原爆攻撃の壊滅的な破棄力と殺傷力の驚愕的な現実性に突然気づいたときの、彼自身のもっぱら精神的な痛み ― 罪悪感 ― に強く焦点を当てている。その罪悪感ゆえに戦後は水爆開発には加わらず、米ソ軍拡競争を防ごうと努力したにも関わらず、冷戦時代の米国の過酷な反共政策による吊るし上げにあう。その結果、苦しい人生を歩まなくてはならなくなった「善良な科学者」に光をあてる。よって、映画は最初から最後まで、新型大量破壊兵器の開発に関わった「科学者のモラル」と「心理的苦悩」の問題として観客に迫ってくる。しかし、その大量破壊兵器が、戦争を終焉させるためにはどうしても必要だったという「神話」を、この映画は、最終的に ― 実際にはそれが真実ではないことを彼自身が後で知ったにも関わらず ― オッペンハイマーに吐露させている。ところが映画自体は、晩年になってオッペンハイマーが、原爆使用の決定が極めて政治的な理由に基づいたものであったことを知らされたという事実には全く触れない。よって、結局この映画は、オッペンハイマーという一個人の心の苦しみにだけ焦点を当てることで、あたかも当時の米国の大統領をはじめ政治・軍指導層たちもまた、オッペンハイマーの「心理的苦悩」を多かれ少なかれ共有しながらも、戦争を終焉させるために原爆という新型大量破壊兵器を使用するという難しい決断を迫られたかのような印象を、強く観客に与えるものとなった。
事実は、原爆使用の決定は戦略的な必要性に基づいていたものでは全くなく、ソ連に原爆の威力を示すことによって戦争を終わらせ、しかもソ連が戦後の日本占領に加わる機会を得ないようにすることにあった。かくして、1945年8月6日と9日の原爆による21万人(内4万人は朝鮮人、3千人は日系アメリカ市民)にのぼる広島・長崎市民の無差別大量殺戮、それに続く8月15日の日本の降伏を、日本軍国主義ファシズムに対する「自由と民主主義の勝利」と米国は誇り高く主張した。同時に、トルーマン大統領は、戦争終結を早め「多数の民間人の生命を救うため」に原爆を投下したと述べて、アメリカ政府が犯した重大な戦争犯罪=「人道に対する罪」の責任をごまかす神話を作り上げた。この神話が、これまで長年にわたり米国市民の間で、強く広く、あたかも真実かのように信じられてきた。米アカデミー賞7冠に輝いたこの映画は、結局、世界各国で鑑賞した観客 ― 数百万人あるいは数千万人か? ― の意識に、この「神話」を再度強く埋め込んでしまったと思われる。
かくして、「正義の戦争」での勝利のために使われた手段であるという理由で、核兵器使用は正当化されてしまった。そのため、核兵器そのものの犯罪性が、その後現在に至るまで、厳しく追及されないままになってしまった。映画もまた、原爆の犯罪性については何ら言及しないままで終わっている。
一方、日本は、15年という長期にわたってアジア太平洋各地で行った戦争中に、様々な戦争犯罪や残虐行為で2千万人をはるかに超えるアジア人を犠牲者にし、それに加えて3万5千人を超える連合軍捕虜を虐待行為で死亡させ、310万人という日本人の戦没者を出した。戦争最終段階での、天皇裕仁と日本の軍事指導者たちにとっての最大の関心事は、原爆被害ではなく、日本がソ連軍に侵略される可能性であった。ソ連が日本占領に加われば、天皇裕仁が戦犯裁判にかけられることは確実であった。よって、戦後も天皇制維持を許されることが日本側の降伏条件であったが、連合国(実際には米国)側は、最終的にこれを受け入れた。ところが、1945年8月15日に発表した終戦の詔勅(天皇メッセージ)で、「非人道的な原爆のゆえに降伏せざるをえなかった」と述べ、「原爆投下」だけを降伏決定要因とし、戦争は「アジア解放」のためであったとの自己正当化のために原爆被害を利用した。かくして戦争犠牲者意識だけを煽ることによって、天皇自身をはじめとする戦争指導者層の侵略戦争の責任はもちろん、日本国民がアジア太平洋のさまざまな人たちに対して負っている法的・倫理的責任をも隠蔽する手段の一つに「原爆投下」を利用した。こうして、アメリカ政府同様に、日本政府もまた原爆殺戮を政治的に利用して「神話」を創り上げ、天皇裕仁をはじめ自国民の戦争責任を隠蔽した。
すなわち、日本の戦後は ― ごく少数の日本の戦争指導者の犯罪を除いて ― 米国と日本のそれぞれの戦争犯罪の隠蔽を、相互に認め合い、互いにその責任を追求しないという相互了解から始まったのである。
こうした日米両国の無責任という歴史的背景から、戦後これまで、私たち自身が被害者となった米国の原爆殺戮犯罪の加害責任を厳しく問うことをしてこなかったゆえに、私たち日本人がアジア太平洋各地の人たちに対して犯した様々な残虐な戦争犯罪の加害責任も厳しく追及しないという、二重に無責任な姿勢を産み出し続けてきた。そのため、米国の軍事支配には奴隷的に従属する一方で、アジア諸国民衆からは信頼されないため、いつまでたっても平和で友好的な国際関係を築けない国となっている。
核兵器そのものの犯罪性が厳しく追及されなかったため、「正義は力なり」という米国の本来の主張は、核兵器という大量破壊兵器を使ったことによって、実際には「力(=核兵器)は正義なり」とサカサマになっていたことを暴露する機会が失われてしまった。その結果、核兵器使用は「人道に対する罪」であり、核抑止力は「人道に対する罪」を犯す準備・計画を行う犯罪行為=「平和に対する罪」であるという核兵器の本質が、いまだに明確に普遍的な認識となって世界の多くの人たちに共有されていない。
映画「オッペンハイマー」は、核兵器をめぐるこうした現状に対して、観客になんらの再考も迫らないし、いささかの批判力にもなっていない。それどころか、米国が創り上げた「原爆神話」をひじょうに狡猾なやり方で幇助しており、その結果、間接的には日本政府がでっちあげた「原爆神話」も裏書する形となってしまっているのである。
2)相互に矛盾する「戦後国家の三原理(武藤一羊テーゼ)」と日本「戦後民主主義」の特徴
日本の戦後「民主主義」は、上に述べたように、日米各々の戦争犯罪と責任の隠蔽の相互了解を出発点としたが、その「民主主義国家」は、三つの国家正統化原理が一つの束となって成立した歴史的構成物であるというのが、武藤一羊がかなり以前から唱えてきたテーゼである。このテーゼは、特に安倍政権までの戦後日本の政治社会構造を極めて明瞭に理解するうえで、ひじょうに有効な分析方法であると私は考えている。日本戦後民主主義の特異な特徴を、この武藤テーゼほど簡潔明瞭に説明しているものはないのではなかろうか、と私は考えている。
そこで、ここでは、この「三つの国家正統化原理」について簡単に解説し、次節で三つの原理の拮抗バランスがとりわけ安倍政権以降、どれほど急速に崩れ始め、現在に至っているかを説明してみたい。そこから、現在、「核兵器を抱きしめている」米国の「ヒロシマの抱き寄せ」が引き起こしている様々な問題の発生原因についても、より明確に理解できるようになるはずである。
戦後の日本国家は、米軍占領期を経て、相互に矛盾する以下のような三つの国家正統化原理が一束になって構成されたものとして成立し、長年それが維持されてきたと武藤テーゼは説明する。その第1原理とは、アメリカの「グローバル覇権原理」、第2原理は、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」、第3原理は、「戦前日本帝国を継承する原理」である。占領終了後の日本国家はこの三つの原理を都合よく折衷し、相互に矛盾しているにもかかわらず、均衡を保ちながら政治的安定を維持してきた。
このうちアメリカ覇権原理とは、沖縄を中心に日本各地に軍事基地を置き、軍事・外交では日本を完全に米国に従属させること ― 実質的には「半植民地化」 ― で日本を中露(旧ソ連)+朝鮮に対抗する前線基地として利用し支配する原理のこと。そのカナメとして安保体制が、深く有機的に戦後国家に組み込まれた。
パックス・アメリカーナ(軍事支配力による平和維持)というこの米国覇権原理は、日本を再び軍事大国にはさせない目的で日本に創設させた「平和憲法」 ― とりわけ憲法前文と9条 ― とは、決定的に矛盾する。とくに前文で謳われている「全世界の国民」に保証されている「平和的生存権」の確認と、9条の「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という確約が、アメリカ覇権原理と真っ向から矛盾撞着することは、誰の目にも明らかなところ。
ところが、国家政権は安保・自衛隊を堅持する自民党が掌握し、それに対抗する社会党・総評ブロック(共産党を含む)を主力とする「革新」勢力が、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」を強調することで、反安保・護憲を掲げて対峙した。かくして、第1と第2原理の拮抗は、「1955年体制」と呼ばれる比較的安定した戦後国家を維持・継続することに貢献した。同時にこの時代は、日本資本主義の高度成長期で、経済拡大という目的さえ達することができれば、強力な政治的国民統合に国家を結集させていく必要性 ― 例えばナショナリズムの高揚 ― を保守政権がそれほど強く感じない時代だった。
第3の「戦前日本帝国を継承する原理」とは、「神聖にして侵すべからざる」天皇の下で、明治維新以降、近代日本がアジア太平洋各地で行った戦争、侵略、植民地化は正当で輝かしい過去であり、それに比べて、1947年施行憲法の下での戦後日本は、アメリカに押しつけられた憲法の下、本来の「日本」が失われた忌むべき姿をさらす国となった、という時代錯誤の思考を中心軸とする。それゆえ、本来の、美しい日本を「とりもどす」ことが必要であり、そのためになすべき最も重要なことの一つが、「憲法」を日本の伝統的思想に基づいて全面的に「改正」することであると主張。
しかしこの第3原理は、1980年代までは、第1と第2原理に強く押さえられて、戦後国家の中に固く閉ざされていた。そのため、大日本帝国の所業を肯定・正当化し正統化するこの原理を公然と主張することは、戦後長年、困難だった。ところが、1960年代初めから文部省が導入した教科書検定 ― 実質的には「検閲」で、家永三郎教授がその後長年にわたりこれに対して裁判闘争を続けた ― が1980年代初めから、さらに悪化。これを機に、第3原理は、教科書問題をめぐって間歇泉のように噴き出す文部大臣を含む保守政治家の「妄言」などで表面化して、すでにその存在を示すようになった。
以上が武藤テーゼの骨子であるが、実は矛盾はこの三つの原理の間だけではなく、第2原理の「憲法の非武装平和・民主・人権原理」それ自体が、決定的な矛盾を内包しているという重大な問題がある。すなわちそれは、憲法前文と9条の間に、そのどちらとも根本的には背馳する憲法第1章「天皇」が挟み込まれているということである。
すでに述べたように、天皇裕仁の戦争責任は日米共同の隠蔽画策で、不問にされてしまった。この共同画策を基に、アジア太平洋戦争における日本の「全面降伏」にもかかわらず、少なくとも「国体」の「象徴権威」 ― 「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」 ― だけは基本的にはそのまま温存することで、天皇制維持をはかりたいという天皇裕仁ならびに日本政府の意向と、天皇が「象徴権威」をそのまま維持することを許し、直接的「権力」を剥がした上で、その「権威」を日本占領統治支配のためにできるだけ政治的に利用することを最初から企てていた米国側の思惑が一致し、「天皇」を第1章とする「平和憲法」が作られた。
1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」にもかかわらず、新憲法の第1章「天皇」で規定された天皇の国事行為には「人間性」や「責任感覚」という要素は皆無であり、その意味で天皇は「人間」になることに失敗した、と私は考える。
天皇の戦争責任を隠蔽したまま天皇の「象徴権威」を温存していることで、将来、天皇の存在と地位が戦争のための「象徴権威」として、再び政治的に利用される危険性が十分あると考えたほうがよい。「そんな馬鹿げたことはありえない」などと考えていると、とんだシッペ返しにあうであろう。この危険性について戦後間もなく ― 天皇裕仁が「人間宣言」を行なった3ヶ月たらず後に ― 注意を促したのは、加藤周一であった。その危険性はますます高まっている。
それだけではなく、天皇制イデオロギーの家父長制的要素は、戦後も憲法1条で規定されている「象徴」にしっかりと根をおろしている。憲法14条が、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」と明言しているが、天皇の「象徴」の地位は、皇室典範第1条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」という規定によって、女性を明らかに差別。近代民主主義国家といわれる世界の国々の中で、憲法(24条第2項)で男女の「本質的平等」を唱っておきながら、その憲法に明らかに違反する差別行為を「日本国の象徴」である天皇とその家族に堂々と行わせているような摩訶不思議な国は、日本以外にはないのではなかろうか。
この点で、武藤テーゼの第2原理と第3原理は、矛盾しながらも、実は深く絡み合って相互に支えあっている面がある。この隠された第2原理の背後にある矛盾と第3原理の相互幇助関係が、日本の「戦後民主主義」を深く歪めている複雑な要因の一つであることを忘れてはならない。
3)拮抗する「戦後国家の三原理」の急速なバランス崩れと日本社会の崩壊
近年、米国の経済力の低下や中国の経済・軍事力の急成長もあり、米国のグローバル覇権力が低下する中、米国は日本列島に散在する米軍基地(自衛隊との共用施設73カ所に加え、日本専用基地54カ所)の維持・運用への財政拠出 ― 1978年から始まったいわゆる「思いやり予算」 ― を大幅に増額するようますます日本に圧力をかけ、2022〜26年の日本側負担額は総額で1兆551億円にまでなっている。米国はまた、太平洋やインド洋で活動する米軍との物理的な協力関係を緊密化するよう、日本の自衛隊に対する要求も強めてきている。
日本側は、米国の「グローバル覇権原理」を支えるために、とりわけ安倍政権下で、沖縄米軍辺野古新基地の建設開始を強権的に決行、原子力空母ロナルド・レーガンを中心とする第5空母航空団(空母打撃群の主兵力)の厚木から岩国への移転、明らかに憲法違反である集団的自衛権行使容認の閣議決定、さらには日米軍事協力指針(新ガイドライン)を策定し、戦争法(安保法制)を強行成立、等々。かくして「専守防衛」は単なるタテマエとなり、集団的自衛権を行使し、米軍が世界で行う戦争に自衛隊が参加できるようにしてしまった。つまり、すでに「将来の戦争が正当化」されてしまったのである。そのうえ、戦前・戦中の「治安維持法」なみの悪法「共謀罪法」も制定。
まさにこれは、ナチス政権がやったと同じように、事実上、憲法を「棚上げ状態」にしてしまったのである。結局、安倍は、立憲主義・議会制民主主義をなし崩しにし、法律や憲法は、さまざまな嘘と欺瞞を駆使して自分の都合の良いように曲解しながら、実際には法律違反、憲法違反を堂々と犯し続けた。
現在の岸田政権は、この「安倍レジーム腐敗構造」にドップリと足を浸し込んで、その全面的継承を行うことで、さらなる「憲法の空洞化」を激化させている。とりわけ、 「日本への攻撃が差し迫った場合」、朝鮮や中国のミサイル発射基地を攻撃する目的での巡航ミサイルの導入の計画は、文字通り「先制攻撃」の実施につながり、明らかに憲法9条違反となる。にもかかわらず、多くの政治家が、巡航ミサイルの配備は 「自衛」の定義に含まれると主張する。このように、日本の「自衛」という概念自体が無益になりつつある。
さらに岸田は、今年4月11日に米連邦議会で行った演説で、日本はかつて米国の控えめな地域パートナーだったが、今や「グローバル・パートナー」となったと述べ、米国が行う戦争には世界のどこであろうと追従する覚悟を表明。もはや憲法9条は、完全に日本政府に無視された形となってしまった。
ちなみに、米国政府も、日本の憲法9条が現在のアジア太平洋地域での軍事戦略的対応の点から考えて障害になっており、改正または廃棄すべきと考えているものと思われる。近年の日本に対する防衛予算増額 ― GDP2パーセント ― の強い要望、それに対応する形での上記のような「先制攻撃」への日本の戦略変更などから考えても、明らかに米国政府は日本の「防衛戦略」が憲法9条を逸脱していると認識しているはずである。憲法9条再検討という圧力が、すでに日本政府に対して密かに米国政府からかかっていたとしても不思議ではない。
かくして、第1原理であるアメリカの「グローバル覇権原理」と第2原理の「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の拮抗バランスは、今や急速に崩壊しつつある。
一方、第三原理は、1990年代半ばから徐々に政治の表舞台に出てくるようになり、日本帝国陸海が15年という長きにわたってアジア太平洋で繰り広げた戦争と軍の残虐行為と植民地化に対する反省は、「自虐史観」として退けられるようになった。1997年には、日本を天皇中心の国家に戻すために新憲法の設置を目指す日本最大の極右団体「日本会議」が成立。今や、国会と地方議会の多くの自民党議員を含む4万人余りが会員となっている。
それと並行する形で、この20年間、日本政府、特に小泉政権(2001-06年)と安倍政権(2006-07年、2012-20年)は、靖国神社参拝の上に、「従軍慰安婦制度」・「徴用工強制労働」に対する国家責任無視、侵略戦争の否定などを、次々とあからさまに政策面で表明し、「戦前日本帝国を継承する原理」の強化に努めた。特に、安倍政権下での自民党は、この第三原理を奉じる極右私党と化し、公党の資格で国政を掌握し、国政を私物化する道具となってしまった。
バブル経済崩壊後の1990年代半ばから極右団体が台頭し始めたのは、日本経済が衰退し、それとは逆に韓国や中国の経済発展が急速に勢いをましてきたがために、「国家弱体化」を憂いてナショナリズムが急伸してきたという背景もある。
こうして、第2原理は、第3原理によってもひどく衰勢化され、実際に自民党の新憲法案(2012年12月発表)では、天皇は国家の象徴ではなく「元首」となり、現行憲法の97条(基本的人権の保障)は全面削除され、代わりに国民の国家に対する責務が強く強調され、第2章の「戦争の放棄」の表題は「国家の安全保障」に変更され、新9条では「自衛隊」は「国防軍」に置き換えられている。さらに、普遍的な平和原則と基本的人権を明確に認め、強く強調している現行憲法の前文も完全に削除。この極端な改悪は、日本の憲法を基本的に明治憲法に戻すものだと言える。
以上見てきたように、「戦後国家の三原理」の急速なバランス崩れに伴う「戦後民主主義」の解体は、もうすでに始まっており、これを喰い止めるのは容易ではない。しかし、これをなんとしても喰い止め、さらには覆すための市民運動の展開方法を考える必要がある。いや、考えているだけでは手遅れで、有効な市民運動方法を早急に実践していく必要がある。
4)1950年代半ばに行われた「ヒロシマ抱き寄せ戦略」から学ぶべきこと
米国の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」は、このような「戦後国家の三原理」の急速なバランス崩れと密接に関連して展開されている。よって、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に有効的に対抗し、それを押し返すための市民運動は、現在日本が置かれているこの非常に危うい状況をしっかりと踏まえて、いったいどのような運動を広島から展開すべきなのか、その確固たる信念と、広島を真の意味での「平和文化都市」にするための想像力と創造力に満ちた展望を備えたものでなければならない。
ところで、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」は、実はすでに1950年代半ばに米国が展開し、驚くほどの成功をおさめていた。それは、原子力平和利用=原発推進のために広島という原爆被害都市と被爆者を「抱き寄せ」て、広島から「原子力平和利用」賛成の声を世界に向けて発信させることであった。
周知のように、1954年3月、ビキニ環礁で米国が行った水爆実験「ブラボー」による放射性降下物がマーシャル諸島民を汚染し、危険水域の外で操業していた第5福竜丸の乗組員23名を被爆させた。そのうえ、放射能を浴びたマグロが日本の市場に出回り、大勢の人がそれを食べたことで全国的なパニックが引き起こされた。これがきっかけで、またたく間に日本全国に水爆実験禁止署名運動が広がり、日本全国で3千2百万人、広島では100万人という驚くべき数の署名が集まった。その結果、1955年8月6日、広島で初の原水爆禁止世界大会が開かれた。
一方、米国は「原子力が建設的な目的に使われれば、原子爆弾ももっと容易に受け入れられるであろう」という考えから ― 他にも理由はあるが、ここでは時間の都合上触れない ―、アイゼンハワー政権下で、「原子力平和利用」政策を国内外で推進する政策を1953年末に打ち出した。ところが、日本ではビキニ核実験で反核運動が急激な高揚をみせたため、この反核運動と反核感情を押さえつけ、さらには態勢を逆転させるために、米国は1955年初めから猛烈な「原子力平和利用」キャンペーンを開始し、広島を「狙い撃ち」にする宣伝工作を始めた。手始めに、「最初に原子力の破壊をこうむった広島こそ原子力の平和的恩恵を受ける資格がある」と、広島に原子力発電所を建設し、広島を原子力平和利用のセンターにするという提案が出された。同時に、米国が世界各地で開催を計画していた「原子力平和利用博覧会」を、広島でも大々的に開くことを決定。
実験用原子炉のモデルが展示された「原子力平和利用博覧会」広島
当初は米国のこうした「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に反対していた原水禁運動広島協議会(中心的人物は当時、広島大学教授で協議会の本部事務局長でもあった森瀧市郎)も、メディア(とりわけ正力松太郎が社主の読売新聞・日本テレビ)をはじめとする全国的な強い賛成の声に押し流されて、多数の被爆者を巻き込む形で賛成派に変わってしまった。その結果、「原子力平和利用博覧会」が1956年5〜6月に広島で開催されることが決まるや、「広島における原発設置提案」は、1955年秋には米国原子力委員会で葬り去れられた。(ちなみに、森瀧市郎は1975年被爆30周年の減衰金世界大会の基調報告で、「核エネルギーと人類は共存できない」と述べた。ちなみに、原水禁の反原発運動は1969年から。)
かくして、広島の被爆者に「原子力平和利用」を基本的に受け入れさせ、同時に日本のメディアが全面的にこれを支持するような状況を作り上げることで、第5福竜丸事件が日本全国に波及させた反核アレルギーをできるかぎり除去し、「原子力平和利用」政策を正当化させようという米国の真の目的は、見事に達成された。
その後長年、福島原発事故が起きる2011年3月まで、広島の被爆者のみならず、日本被団協が基本的に反原発運動に関わってこなかった背景には、このような「ヒロシマ抱き寄せ戦略」によって、大多数の被爆者が「<原子力>は<原爆>とは別物」というマヤカシの虜になった事実があったことをもう一度思い起こし、米国の周到で怜悧狡猾な計略に騙されないよう、肝に銘じておく必要がある。
5)現在進行中の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」の目的は何か?
1950年代の「ヒロシマ抱き寄せ戦略」以降、最近まで、米国の広島に対する態度は、原爆無差別大量殺戮の被害事実はあくまでも無視し、原爆こそが太平洋戦争を終わらせたという自作の「神話」を、世界に向けて強固に発信し続けてきた。つまり、「抱き寄せ」ではなく「徹底無視」と称すべき態度であった。米国は、「太平洋戦争は真珠湾で始まりヒロシマで終わったと」言う表現で、頻りに真珠湾の記憶を呼び覚ましながらも、実際にはヒロシマについては語ることを一途に嫌ってきた。ところが、2016年5月のオバマ大統領の広島訪問あたりから、「ヒロシマ徹底無視戦略」が、急速に「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に180度転換しはじめた。
「原爆神話」を強固に維持し続けるという政策に変わりはないが、真珠湾を語りながら、同時にヒロシマについてもある程度言及するという態度は、真珠湾と広島平和公園の「姉妹公園」提携に如実に表れている。いったい米国のこの戦略変更の企みは何であろうか。
それは武藤テーゼの第1原理、米国の「グローバル覇権原理」が、前述したように、緊張が高まっているアジア太平洋地域で自国の覇権を維持しかつ強化するために、日本の軍事力を ― 豪州、韓国、フィリッピンの軍事力と束ねて ― 米軍の支配下に取り込み、できるかぎり利用しようという戦略に変わってきたことと深く関連していると思われる。そのためには、日本政府のみならず、日本国民も「米国の核抑止力」を全面的に受け入れるような、国民的総意を創出していくことが必要であるというのが、新しい「ヒロシマ抱き寄せ戦略」展開の理由であると私は考える。
よって、「ヒロシマの核被害」の実相をある程度米国も受け入れ、核兵器が使用されればヒロシマのような惨たらしい状況になるからこそ、敵の核使用を防ぐ「核抑止力」を米国が維持し、日本も ― さらには豪韓比などの太平洋諸国も ― その「拡大核抑止力」で防衛されることで、「平和」を持続させなければならないというメッセージを、ヒロシマから世界に向けて発信していこう ― これこそが、米国が最近盛んにいろいろな形で見せている「ヒロシマ抱き寄せ戦略」の目的であろう。つまり、一言で表現するなら「核被害グラウンド・ゼロのヒロシマを、核抑止力のシンボルに!」である。本来は「核ジェノサイドの原点」という広島が持つシンボルを、「核抑止力=米国の軍事力支配の下での<平和維持>」というシンボルに変えてしまおうという企てである。
米国の広島に対するこうした姿勢の変化には、最近、外国人による日本への観光客が激増している中で、世界遺産の原爆ドームがある広島はとりわけ外国からの訪問客が多い都市であることも影響しているように思われる。広島を訪れるほとんどの観光客が、原爆資料館を見学する。よってそうした観光客に対しても、核戦争を避けるためには「核抑止力」が必要不可欠であるというアメリカのメッセージを、なんとしても受け入れさせたいという意図も働いていると思われる。
米国は、近い将来、アジア太平洋地域を米日韓比豪の軍事力で囲い込み、沖縄あたりに核兵器を常備することで、欧州のNATOのような集団軍事地域をここにうち建て、中露朝を欧州と太平洋の両側から挟み込むことで睨みをきかそうという構想の実現に向けて、すでに動き出しているものと思われる。「ヒロシマ抱き寄せ戦略」は、米国のこの構想と密接に関連していると思われる。
昨年8月下旬から9月初旬にかけてNATO加盟国の英空母打撃群をはじめオランダとカナダのフリゲート艦、米海軍哨戒機P-8Aや米戦闘機F-35と海上自衛隊艦船ならびに潜水艦との「パシフィック・クラウン21」と題する大規模な演習が、日本(特に沖縄)近海から東シナ海にかけて行われた。これも、上に述べた米国の構想と密接に関連していると思われる。
これに対し、米国の「核抑止力に抱きしめられたい」日本は、「将来は核兵器廃絶が私の夢」と言いながら、「核兵器現代化」=小型核兵器の開発と増産に史上最大の核予算をつぎ込んだオバマの2016年5月の広島平和公園訪問を大歓迎した。そのため、「戦前日本帝国を継承する原理」の申し子とも称すべき首相・安倍晋三が、両手をあげてホスト役を務めた。本来は矛盾関係にある「グローバル覇権原理」と「戦前日本帝国を継承する原理」が、広島平和公園でしっかりと握手するという、奇妙な姿をここに見せた。互いに矛盾しながらも、その2つの原理が物理的に衝突しないかぎり、各々がその政治的利益を確保することを相互に認め合うという虚飾に満ちた儀式を、あろうことか、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の具現的姿であるべきはずの広島平和公園で行ったのである。その結果が、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の破壊でなければ、いったい何であったのか?!
同じように米国の「グローバル覇権原理」を全面的に支持し、同時に「戦前日本帝国を継承する原理」を安倍からそのまま受け継いで首相の座についた岸田文雄は、2023年5月、G7サミットを広島で開催し、再度、広島平和公園を安倍と同じように政治的にトコトン利用して、広島から、実質的には「米英仏の核抑止力維持」というG7メッセージを世界に向けて発信した。
同じように米国の「核抑止力に抱きしめられたい」広島市は、アメリカに対して「謝罪なき和解」を提案し、「姉妹公園」提案を簡単に受け入れ、米国の原爆攻撃の責任追求 ― 実際には全くやっていない追求 ― の「棚上げ」を公言し、米国と日本の両政府が喜んで受け入れるような学校教材『ひろしま平和ノート』を改悪したりと、忖度にやっきになっている。『ひろしま平和ノート』というタイトルにもかかわらず、日本の平和憲法についての言及は、この教材のどこにも見当たらない。
広島県のほうもまた、2011年10月から、『国際平和拠点ひろしま構想』と称するプランを立ち上げ、毎年変わり映えのしない『ひろしまレポート』を発行して、実質的には米国の「核抑止力」の支持に努めている。この『国際平和拠点ひろしま構想』でも、平和憲法は完全に無視されている。市長も知事も、いたるところで「核兵器のない平和を」と繰り返し述べていながら、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」を強調するような発言はほとんどしない。
ちなみに、今年3月、カトリック系平和団体「パックス・クリスティ」米国支部の巡礼団が広島を訪問し、被爆者とも面会した上で、世界平和記念聖堂で被爆者6団体代表らとの対話集会に臨んだ。この対話集会で、巡礼団一行11名は、米国の原爆攻撃の責任をはっきりと認め、「朝鮮半島出身者を含む被爆者たちに心からの謝罪を伝える」と同時に、「和解に向けた対話を始めたい」と明言。米国の市民団体で、原爆無差別攻撃に対する謝罪を広島で行い、「和解」を求めたのは、この巡礼団が初めてではなかろうか。その意味では、画期的な出来事である。さらにこの対話集会では、日米両政府が核兵器禁止条約に署名し、米国政府も公式謝罪を行うように求める共同宣言を発表した。
ところが、広島被爆者7団体のうちの一つ、被爆者2世の松井一実市長が会長を務める市原爆被爆者協議会だけは集会に参加しなかった。その理由は、対話集会が「協議会の設立目的から外れる。市としても米国に謝罪を求めてきていない」という説明とのこと。市長は、原爆無差別大量殺戮の米国の責任を追求することは、考えてもいないのである。重大な「人道に対する罪」のその責任追求が、どこの国であろうと同じ犯罪を再び犯させないための、被害者側の人間としての責務である、ということが全く分かっていないのである。その背後に、米国の「グローバル覇権原理」に自国日本を全面的に従属させ、米国の「核抑止力に抱きしめられたい」という日本政府と国会議員の重鎮たちの思いへの、市長の阿(おもね)りがあることがあからさまである。
それだけではなく、松井市長にいたっては、2012年度から毎年、新規採用職員向けの研修での講話で、まさに「戦前日本帝国を継承する原理」を体現している「教育勅語」の一部を引用した資料を使っていることが最近になって明らかになり、複数の市民団体から強い批判を浴びた。これに対し、市長は、「教育勅語の中にも、博愛や公益を説く良い部分があるので、良いものはしっかりと受け止める必要があるという意図から使っている」という趣旨の反論で応えた。奇しくも、2012年は第2次安倍内閣が発足した年である。
「教育勅語」の中で使われている「博愛や公益」を説く部分は、元々は『論語』の中の表現である。(なぜ『論語』の中にこのような普遍的な思想が含まれているのか、興味深い問題であるが、残念ながら、今これについて議論している時間はない)。したがって、「博愛や公益」を強調したいなら、『論語』を使うべきで、天皇を神聖化し軍国主義の高揚を目的として作成され、戦前の道徳教育の根幹とされた時代錯誤的な「教育勅語」をあえて使う必要は全くない。
ところが批判が止まないため、松井は今年4月の講話では、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分や、憲法99条の公務員の憲法尊重擁護義務も合わせて紹介したと弁明。先に述べたように、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」に基づいた発言をほとんどしない市長が、突然、憲法を利用して「戦前日本帝国を継承する原理」とのバランスを ― もちろん一時逃れのためであろうが ― とろうとする行動に出た。
この出来事は、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」がひじょうに弱まっているとはいえ、いまだ全面的に崩壊してはおらず、「戦前日本帝国を継承する原理」に対抗する上で、有効であることを教えてくれている。我々は、日常生活の中で、この原理に沿った活動をもっともっと頻繁に且つ強力に展開していく必要がある。
6)広島から「無差別空爆大量虐殺」反対のグローバルな市民連帯運動の展開を!そして「非暴力の実践」理念の滲透波及を!
日本政治社会の現状に関する以上のような分析から、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に取り込まれないよう強力な市民運動を展開していくためには、反核理念だけではなく、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の理念をできるだけ多くの市民の意識の中に深く浸透させ、米国の「グローバル覇権原理」と「戦前日本帝国を継承する原理」に抗していく必要がある。これまでのように、もっぱら核兵器にマトを絞り、核廃絶を目指す反核という市民運動だけでは、到底、「ヒロシマ抱き寄せ戦略」には太刀打ちできない。
「ヒロシマ抱き寄せ戦略」に抗するための、強力に「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の理念を広島に直結させる行動には、「核被害グラウンド・ゼロのヒロシマを、核抑止力のシンボルに!」というアメリカの狙いに真っ向から立ち向かう、我々の側の独自の戦略が必要である。それには「原爆無差別大量虐殺とジェノサイドのシンボルとしてのヒロシマ」を、いかにしたら世界に向けて広く且つ強力に発信できるか、このことを熟考しなければならない。
そうした戦略の一つとして、第1次世界大戦から本格的に始まった空爆が、第2次大戦を経て、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガン・イラク戦争、シリア内戦など、さらには現在進行中のガザ区攻撃に至るまで、ほぼ100年にわたる様々な「空爆による無差別大量虐殺」の連続であること、そしてその空爆の規模と破壊力の点で広島がシンボル的ケースであることを踏まえて、その歴史事実を活用するグローバルで屈強な市民運動を展開することが重要だと私は思う。そのようなグローバルな運動ためには、各国、各地の被害地市民との反無差別空爆の連帯運動を展開する本拠地を広島に置き、これまでの数多くの戦争で「空爆による無差別大量虐殺」の罪を最も頻繁に犯してきた米国への、徹底的で継続的な責任追求運動を行うことが効果的だと私は考える。
しかし、この市民運動を展開するためには、日本も、そして広島も、無差別空爆と大量虐殺=ジェノサイド ― その両方とも「人道に対する罪」 ― の点では、加害者としての重大な責任を負っていることをはっきりと認め、謝罪することが必要不可欠である。最近、カトリック系平和団体「パックス・クリスティ」米国支部が広島で行ったと同じように、広島の市民活動家たちが被害者側を直接訪問し、謝罪し、和解を求めること ― それなしで、自分たちの被害だけを強調する運動では、グローバル連帯運動をしっかりと築き上げることはできないからである。
具体的には、15年戦争初期に日本軍が中国での行動を急速に拡大するに伴って、上海、南京、武漢、広東、重慶といった都市住民を次々と無差別爆撃の目標としたこと。特に、現在では広島の姉妹都市となっている重慶は、1938年から3年間にわたり200回以上の攻撃にさらされ、1万2千人近い死傷者を出した事実を明確に認め、公式に謝罪し、和解を求めること。さらには、空爆によるものではないが、ジェノサイド的とも呼べる大量の市民を南京虐殺やマレー半島でのマレーシア華僑虐殺などで殺害し(それぞれどちらとも、推定被害者数は数万から10万人)、それらの虐殺には広島に本部が置かれていた第5師団からの部隊も加わっていたことも認め、これについても深く謝罪することを怠ってはならない。
すなわち、「原爆無差別大量虐殺とジェノサイドのシンボルとしてのヒロシマ」の「シンボル」とは、被害のシンボルであるだけではなく、加害のシンボルでもあることを、常に市民運動の中で強調していくことが、被害者側からの信頼はもちろん、全世界の人々からの信頼を得るためには、絶対に必要だと私は信じる。
戦争加害者としての日本国民としての我々自身の責任を忘れないためには、すでに論じたように、憲法自体の中に埋め込まれている深い矛盾 ― 日本の「戦後民主主義」を著しく歪めている憲法第1章「天皇」と「戦前日本帝国を継承する原理」の相互幇助関係 ― に、我々はどのように立ち向かうべきか。同時に、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」を、できるだけ多くの市民の日常生活における共有理念として、大衆意識のなかに、いかにして浸透させていくのか。このことを真剣に考えなければ、広島の市民運動、ひいては日本の市民運動に将来的な展望は見えてこないと私は考える。
「憲法の非武装平和・民主・人権原理」は、すでに述べたように、具体的には、とりわけ憲法前文と9条に明確に表明されている。その理念を一言で表現するならば、それは「非暴力」であろう。なぜなら、ジュディス・バトラー(アメリカのフェミニスト哲学者)の言葉を借りれば、「非暴力とは単に暴力の不在、あるいは暴力の行使を自制する行為ではなく、持続的な関与であり、平等や自由という理想を擁護するために攻撃性を転換する方法でさえあると考えることができる………非暴力は平等への関与がなければ意味をなさない」(強調:田中)からである。しかも、その「平等」のうちで、最も重要なのは「個人の命」が誰にとっても重要であるという意味で、「生存権」を含む「基本的人権」とも深く関連している。「基本的人権」擁護は、言うまでもなく、民主主義の確立にとって極めて重要な要素の一つである。
このことは、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という、憲法前文に明文化されているところである。
ところが、憲法14条「すべての国民の法の下の平等」や24条第2項「男女平等」にもかかわらず、天皇の地位は「皇統に属する男系の男子のみが継承」とされ、女性を明らかに差別。さらに、憲法2条で、天皇としての地位は「世襲のもの」であると決められているということは、実際には天皇家の家系のみが尊重されるという意味で、明らかに14条の「門地(=家柄)」による差別の禁止に抵触。しかも天皇は「日本国民統合の象徴」として「万世一系」の「純粋な日本人」の家系の人とみなされることから、外国人、とりわけ「在日」と称される韓国・朝鮮系、中国系などの市民を差別するイデオロギー上の拠り所を、一部の国民に提供している。すなわち、天皇の存在そのものが他者に対するさまざまな差別の元凶と言えるのである。
「戦前日本帝国を継承する原理」を活動理念とする日本会議などの右翼団体は、こうした差別を「ヘイト・スピーチ」で盛んに煽っている。その日本会議のメンバーでもある国会議員の杉田水脈や松川るいなどは、アイヌ民族、在日コリアン、元日本軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)、LGBTなどに対する揶揄・蔑視発言で、「基本的人権」の侵害を公然と行っている。こうした差別言動は、一見、憲法1〜2条とは関係がないように見えるが、実は、天皇の存在が、国民の無意識的な感情レベルに深く且つ広く影響していることと密接に関連している。これが、私が主張する<憲法第1章「天皇」と「戦前日本帝国を継承する原理」の相互幇助関係>の具体的な例である。
こうした「基本的人権」の侵害と闘うにためには、「憲法の非武装平和・民主・人権原理」の根本的理念である「非暴力」が、我々市民の日常生活の堅実な規範となるように、我々の文化そのものを改革していく必要がある。なぜなら、非暴力とは、ジュディス・バトラーが述べているように、「単に暴力の不在、あるいは暴力の行使を自制する行為ではなく」、他者と平等な人間関係 ― 二人の主体が相互に相手を対象化することなしに持つ主体的な関係 ― を積極的に築くことで、個々人が互いに相互信頼できる平和な関係で結びつき合う行動を意味しているからである。その行動とは、具体的には、他者と喜び、悲しみ、怒りを互いに共有しあうことであろう。
そうした平等な結びつき合いの関係の網を共同社会全体に地道に深く張り巡らしていく活動、それが本当の意味での「非暴力の実践」だと私は思う。この非暴力の実践は、海外の市民共同社会と平和的な関係の結びつきを強めるためにも必要である。例えば、他国の人に戦争で被害を与えたのであれば、その人の痛みと悲しみを自分の痛み・悲しみとして内面化し、それらを共有する「非暴力の実践」で、謝罪を受け入れてもらうことで、はじめて「平等な人間関係」の結びつきができる。戦争犯罪加害国の市民に対しては、被害者である自分たちの痛み・悲しみをどのようにしたら理解してもらい、どのようにしたら自分のものとして共有してもらえるのか ― その「非暴力の実践」の方法を模索する努力を通して、「平等な人間関係」の再構築を促すことが必要である。
しかし、これは、今までのような反核・反戦という政治的運動にのみ我々の活動を集中させる形での市民運動では、決して達成できない。(だからといって、そのような政治的活動をやめるべきと私は言っているのでは決してない。誤解のないように願う。)
市民共同体の全員が積極的にこの「非暴力の実践」に参加し、新しい、平和な社会関係を創り出していくことがいかに喜びに満ちた楽しいことであるかを、毎日の暮らしの中で発見する ― そのような文化の創造活動でなければならない。繰り返し述べておくが、「非暴力の実践」とは、単に暴力を使わない、あるいは自制する行為ではない ― それは、ごく小さなことであれ、日々の暮らしの中で、他者のいろいろな思いに倫理的想像力を働かせ、平和な人間関係、社会関係をどうしたら築くことができるかを見つけ出し、その発見に喜びを感じることができるような文化的活動のことである。平和な文化創造とは、暮しの中にそのような「非暴力の実践」という生きた思想を浸透させることである。暮らしに密着した堅実な文化思想でなければ、順境にあるときにはともかくも、逆境に陥ればたちまちにして、暮しが思想を裏切ることになる ― そのことは、これまでの歴史が証明している。
もちろん、そのような理想的な文化創造は一朝一夕にしてできるものではない。幾世代にもわたって、様々な形での「非暴力の実践」を行なっていくことで、徐々に創り上げられていくものでしかない。それには、常にそのような文化活動を受け継いでいく若者世代の積極的な参加を促すような、興味深い文化活動でなければならない。現在の広島と日本全体が直面している憂慮すべき社会状況を考えると、「そのような悠長なことは言っていられない」という批判もあるだろう。しかしながら、時間をかけながらも、日々地道に努力していかなければ、「団塊の世代」と呼ばれる高齢者が中心の市民運動だけで現在の状況を大きく変革することは、もはやひじょうに困難、いやほとんど不可能であることは誰の目にも明らかないように思える。
参考文献:
武藤一羊著『戦後レジームと憲法平和主義: 〈帝国継承〉の柱に斧を』(れんが書房新社 2016年)
加藤周一著「天皇制を論ず」 『言葉と戦車を見すえて』(筑摩文庫 2009年)に収録
田中利幸 ピーター・カズニック共著『原発とヒロシマ:「原子力平和利用」の真相』(岩波ブックレット 2011年)
田中利幸著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房 2019年)
田中利幸著『空の戦争史』(講談社現代新書 2008年)
原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島 https://web.archive.org/web/20061019065808/http://www.k3.dion.ne.jp/~a-bomb/index.htm
ジュディス・バトラー『非暴力の力』(青土社 2022年)
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