1)本題に入る前に: 黒澤明の『夢』と私の父について
黒澤明が1990年に制作・監督した映画『夢』は、8篇の「夢」から成っています。その4番目の「夢」を観るたびに、私は自分の父親のことを憶い出します。その「夢」は次のような話です。
敗戦後、ひとり復員した陸軍将校(配役:寺尾聰)が戦死した部下達の遺族を訪ねようと、人気のない山道を歩いてトンネルを抜け出ると、自分の部下であった戦死した一人の兵の亡霊が、今しがた自分が歩いてきた暗いトンネルの中から出てきます。その亡霊は、山の下に見える一軒の家の明かりを指差し、あれが家族が待っている自分の家だと告げます。将校は「お前は死んだのだ」と告げると、悲しそうな顔をしながらもと来たトンネルを戻って行きます。ところが、突然、今度は大勢の兵隊たちの軍靴の音がトンネルの中から聞こえてきます。どのような者たちが出て来るのかとおどおどしながら待ちかまえていると、現れたのは自分が指揮していた小隊全員の、戦死させてしまった兵たちの亡霊でした。彼らの霊魂も故郷に帰りたかったのです。その将校は、部下たちの霊魂に向かって、この世を彷徨い続けることの虚しさを説き、「静かに眠ってくれと」頼み、「廻れ右」の号令でトンネルの暗闇に向かってもと来た道を帰らせます。母国を遠く離れた戦地で死亡し、故郷に帰ることができなかった無数の日本兵たちの無念と哀しみを、凄まじく悲壮な象徴的表現で観客に突きつけ、心を深く震わせる映像芸術だと私は思います。黒澤の仕事らしい、傑作であることは間違いないと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=wovssrluaD0
にもかかわらず、この映画には決定的な問いかけがスッポリ抜け落ちています。それは、日本という内地から見れば哀しい戦争被害者であったこの兵隊たちは、彼らが侵略した土地の住民からみれば、日本軍の軍服・軍帽・軍靴を着用し、菊の紋章がつけられた銃を抱え、日章旗と軍旗を掲げた、残虐極まりない男たちだったのです。彼らは、その地で、略奪・強姦・殺戮など、さまざまな残虐行為を犯しました。その被害者や遺族たちは、日本兵の霊魂がこの世を彷徨い続ける姿に、目に涙を滲ませることすらないのは当然です。その被害者とその遺族の感情的な深い痛みへの倫理的想像力が、この「夢」にはスッポリ抜け落ちているということです。
私の父は、戦時中は関東軍中尉(中隊長)として満州で主として中国共産党軍(いわゆる八路軍)と戦ったようです。ところが、ある日、戦闘で敵弾が腹部貫通するという重傷を負い、ハルビンの陸軍病院に搬送されて入院。回復するや、内地の故郷・福井県の鯖江市の歩兵第36連隊駐屯地に転任となり、なぜか再び外地に出されることはなく、敗戦まで鯖江にいました。そのため、中国で自分が指揮した中隊の部下の若者たちはほとんど戦死したにもかかわらず、自分だけが生き残ったという罪意識にずいぶん苛まれていたようです。私がまだ幼い頃、父は毎年1〜2回、行き先も告げずに突然いなくなることがあり、1週間あまり帰って来ませんでした。母は父がどこに行っているのか分かっていたようですが、私は「家出した」のではないかと(父は「婿養子」でしたので<笑>)、その度に心配したことを覚えています。後年になって分かったことですが、父が隊長を務めた中隊の兵たちの多くは岩手県の農村出身だったとのことで、父は福井の田舎の永平寺町から岩手県まで、戦死させてしまった部下たちの墓参りと、部下たちの母親に会って謝罪するために、出かけて行ったとのこと。父の気持ちは、映画『夢』の中のあの将校と同じように、「この世を彷徨い歩く部下たちの亡霊」に時折悩まされ、岩手まで出かけずにはいられなかったのではないかと想像します。その負い目からだと思いますが、軍人恩給を受け取ることを一切拒否しました。
しかし、その父が、岩手の若者たちと一緒に殺害したであろう敵兵あるいは中国市民に対して、罪意識を感じていたような気配は全くありませんでした。私は、父から戦死した部下たちの話はよく聞きましたが、敵兵や中国住民に関する話はほとんど聞いたことがありません。敵兵については「八路軍の士気とモラルはひじょうに高く、その点では日本軍は比較にならないほど劣っていた」ということだけは繰り返し述べていました。聞かされたのは、それだけです。「中国の人に謝罪したい」という言葉を、父の口から聞いたことはありませんでした。
2)動画レポート「被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」を観て
さて、本題に入ります。最近、ノンフィクション作家の高瀬毅さんが制作した動画、「被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」をぜひ観てみるようにと、広島の私の尊敬する友人で、被服支廠の建物保存運動を熱心にすすめておられる「広島文学資料保全の会」代表の土屋時子さんと、最近全国的に注目を集めている広島の画家・四國五郎氏の息子さんである四國光さんのお二人からお薦めがありました。土屋さんは「Hifukusho ラジオ」という番組も昨年から始められ、広島に関心を持って市民活動を行なっておられる全国さまざまな人にインタヴューを行い、被服支廠建物を保存し、どのように活用したら良いのかという議論を展開しておられます。
Youtube「被服支廠赤レンガ倉庫 ~浮かび上がる軍都・廣島」は、「Hifukusho ラジオ」で出されてきた様々な意見の総まとめ的な報告とも言えるものだと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=V62jdHW-DoI
土屋さんたちが、この運動で訴えたいことは以下のようなことだと思います。日本軍将兵が着用した様々な種類の軍服と軍靴を製造し、同時に日本国内の他の地域にあった被服支廠から広島に送られてきた軍服・軍靴を宇品港から海外の戦地に送り出すための中継地の役割を果たしていたこの被服支廠=軍服・軍靴製造工場は、広島が単なる地方都市ではなく、軍に密接に協力していた「軍事都市(軍都)」であったことの一つの証である。軍都であったからこそ広島は原爆攻撃の目標になったのであり、原爆攻撃の直後には、破壊を免れたこの被服支廠の建物の中に瀕死の状態になった多くの被爆者が逃げ込み、医療手当もほとんど受けられずに次々に亡くなっていったという、その原爆被害の実相を記憶する意味でも、この建物をしっかりと保存し、平和構築のために活用すべきである、ということです。
「軍都の証」として今も残っている被爆建物は、確かに広島にはほとんどここにしか存在しません。同じ広大な陸軍の敷地には、武器弾薬を製造し、またそれらの兵器を集積・補給するための兵器補給廠の建物もありましたが、1970年代に解体されたため、現在は残っていません。
動画「被服支廠赤レンガ倉庫」では、土屋さんや元広島市長の平岡敬さん、それに戦時中に被服支廠で働いておられた切明千枝子さん、若い世代で被服支廠の保存・活用運動に意欲的な若者たちへのインタヴューを入れながら、被服支廠だけではなく宇品港に当時あった陸軍の建物などを紹介し、被服支廠がいかに「軍都の証」であるかということを示すと同時に、原爆無差別大量殺戮の被害者の多くが亡くなっていった場所としても記憶されるべき建築物であるというメッセージが力強く発信されています。動画の最後近く、四國光さんが見事にそのメッセージを簡潔明瞭にまとめる形でご自分の意見を提示されています。
それによると、被服支廠の建物は①戦争記憶を継承するための「戦争遺構」として、②原爆被害者の鎮魂のための墓標である「被爆遺構」として、保存すること。同時に③現在広島に残されている芸術・文学関連作品(四國五郎の絵画や、峠三吉、原民樹、大田洋子など被爆者詩人・作家などのオリジナル原稿や出版物)、さらには原爆関連の漫画、アニメ作品などの収集、保存、展示のためにもこの建物を活用すること。この三つが被服支廠保存・活用をめざす市民運動の目標として掲げられています。私もこの提案の根本的な構想方針に、一応、大枠としては賛成します。
3)「戦争記憶継承」と「鎮魂」は誰のために、何のためにあるべきか
私が「一応、大枠として」という条件をなぜ入れたのか、その理由を説明します。それは、「戦争記憶継承」と「鎮魂」の仕方そのものに関わってくる重要な問題だからです。
動画「被服支廠赤レンガ倉庫」や「Hifukusho ラジオ」でインタヴューされた人たちのほとんどが、被服支廠を「軍都の証」として保存・活用すべきということを主張されています。確かに広島は、明治維新後の10年後の1877年に広島城跡地に広島鎮台司令部が置かれ、1888年には陸軍第5師団が設置されました。翌年1889年に築港された広島宇品港が陸軍の軍用港に指定され、1894年の日清戦争では、この宇品港から歩兵第11連隊が朝鮮半島を経て中国東北部に送りこまれました。しかも、第5師団司令部には戦争指揮のための大本営が置かれ、明治天皇・睦仁をはじめ政府ならびに軍首脳も広島に移り住み、大本営のそばには臨時の国会議事堂まで建てられました。日清、日露戦争で勝利した日本は、宇品港をもつ広島に様々な軍事施設を設置して「軍都」として発展させ、ここを起点に中国、さらにはその他のアジアと太平洋地域への侵略行為をエスカレートさせていったことは周知のところです。
みなさんのインタビューを聴いていますと、したがって、広島がアメリカに原爆攻撃をさせる原因を作っていたのは、広島が一大軍事都市となっていたからであり、その歴史的事実を知らしめるためにこそ、被服支廠を「軍都の証」として残すべきすべきである、というのが保存・活用の最も重要な理由と考えておられるように思えます。そのこと自体については、私も全く同感です。
しかし、それとの関連で、動画の中で、宇品から海外戦地に送り出された「8割の兵士たちが(日本には)戻って来れなかった」と、案内役を務めた河口悠介さんが説明されているように、ここでの「戦争記憶」の焦点は、あくまでも「私たち日本人が、軍都のせいでいかに戦争被害者にされたか」に置かれていることに気がつきます。動画の中では、私が気がついた限り、被服支廠との関連で加害の具体的な例をとりあげられたのは、多賀俊介さんが広島での朝鮮人強制労働に一言触れておられるカ所だけです。
不思議なことに、被服支廠で製造された軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠から出された兵器を手渡されて宇品から海外に出陣していった兵たちが、いったいどのような蛮行をはたらいたのか、その点を「軍都」との関連で言及する人はほとんどおられません。“戦争記憶を継承するための「戦争遺構」”を提唱された四國光さんも、市長時代に「アジアに対する加害責任」を強調された平岡敬さんも、この動画では、記憶の重要な要素としての戦争加害の問題には一言も触れていません。(ただし、平岡さんは「Hifukusho ラジオ」でのインタヴューでは、被服支廠を「加害の遺産」とはっきりと述べられていますし、加害と被害の両方に視点を当てる戦争記憶継承の重要性を強調されています。インタヴューでも実際には述べられたのかもしれませんが、編集段階でカットされた可能性もあるかと思います。)
日本帝国陸海軍は、日清戦争前の「東学党の乱」の時点から朝鮮農民の虐殺という残虐行為を行い、日清戦争では旅順で多くの捕虜や市民を虐殺。日露戦争には当初から日本の朝鮮半島植民地化の狙いが含まれていたのであり、戦時中は、朝鮮での徴発、軍用品輸送や土木作業のための人夫労役に反抗する多くの朝鮮人を日本軍は処刑しました。戦争直後には、日本による朝鮮植民地化に反対する「義兵運動」が高まり、1906〜11年には朝鮮各地で義兵闘争が起きました。日本軍はこれに対し、暴行、略奪、焼き払いなどで弾圧を試み、その結果、朝鮮人義兵側には推定死傷者2万4千名が出ました。
日清戦争後の1895年5月に台湾植民地化のために台湾北部に上陸した日本軍は、台南占領までの約5ヶ月間に、軍民合わせて1万4千人以上を殺害。その後起きた北部蜂起に対する日本軍による報復殺害の犠牲者数は3千人近く。1898〜1902年までに台湾総督府が処刑した「叛徒」の数は1万人以上にのぼりました。このように日本は、朝鮮・台湾植民地化の当初から虐殺行為を繰り広げました。
1931年9月になると、日本軍は侵略の口実としてデッチ上げた「満州事変」をきっかけに、中国への侵略戦争を拡大していき、その過程で、南京虐殺や三光作戦、731部隊による人体実験、日本人経営の鉱山や工事現場で使いものにならなくなった数多くの中国人労働者を生き埋めにした「万人坑」など、様々なおぞましい戦争犯罪行為を中国各地で犯し、無数の中国人を殺傷しました。
1941年12月には日本は戦域をアジア太平洋全域に一挙に拡大し、連合諸国との全面戦争という破滅への道を急速に駆け落ちていきました。1942年2月にシンガポールを陥落させた日本軍第25軍は、シンガポールやマレー半島で、「抗日分子」または「抗日ゲリラ」が潜んでいるとみなした村落を皆殺しにしました。マレー半島での犠牲者数は数万人から10万人にのぼると推定されていますが、このマレー半島での虐殺に加わった兵隊たちの一部は、広島に本部が置かれていた第5師団歩兵第11連隊所属の兵員でした。
戦時中、日本軍は同じような住民虐殺をフィリッピン、ボルネオ、インドネシア、マレーシアなど各地で犯しました。インドネシアでは、日本軍占領地域における軍関係の様々な建設工事のための労務者が徴発され、ジャワ島のみならず、マレー半島、ビルマ、太平洋の島々に連行されて強制労働に従事させられました。その数、400万人にのぼったと言われています。泰緬鉄道の建設工事現場にも数多くの労務者(ロームシャという用語はインドネシア語になっています)が送り込まれましたが、ここではインドネシア人だけではなく、地元のタイ、ビルマ、マレーなどから合計35万人を超えるアジア人ロームシャが酷使され、過酷な労働や熱帯病、飢餓で多くが亡くなりました。泰緬鉄道の工事に駆り出された5万5千人の連合軍捕虜のうち、1万3千人あまりが過酷な強制労働と熱帯病で死亡しました。ベトナム北部では日本軍占領下の1944年末から45年にかけて大飢餓が発生し、200万人が餓死または飢餓関連の病気で死亡したと言われています。
さらに、アジア太平洋戦争中には朝鮮・台湾から100万人以上の人たちが炭鉱、軍事工場、土木工事などでの労務のために強制連行され、広島の原爆で被爆した朝鮮人の数は約5万人、そのうち死亡者が3万人いたということについてはあらためて述べるまでもないと思います。その上、多くの女性たちが軍性奴隷としてアジア太平洋各地に送り込まれた事実も周知のところです。
日本軍による虐待・虐殺ケースは例をあげればキリがありませんので、これ以上言及しないでおきますが、日本が15年間にわたって繰り広げたアジア太平洋戦争での日本軍による虐待・虐殺や強制労働などの犠牲者はどんなに少なく見積もっても1千万に近いと思われます。第2次大戦中5年ほどの間における、主としてユダヤ人という一人種の計画的な大量虐殺と、場当たり的で、どちらかと言えば無計画な15年にわたるアジア多民族の殺害とを単純には比較できません。しかし、それでも絶対数だけからすれば、日本軍残虐行為の犠牲者はホロコーストをはるかに超えるものであったと言えると私は考えています。
そして、その残虐行為に加わった日本兵士の多くが、広島の被服支廠で製造された軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠からの兵器を手渡されて宇品から海外に出陣していった、この事実!日本のこの凄まじい加害行為にほとんど触れない「軍都の証」=「戦争記憶継承」とは、いったいどんな「戦争記憶継承」なのでしょうか?それが本当に「戦争記憶継承」と呼べるのでしょうか?
このことを考えていただくために、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(339〜40ページ)で、栗原貞子の詩を引用しながら私が記しておいた「記憶」のあり方についての部分を下に紹介せていただきます
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このことの重要性を、詩という形で見事に表現したのが栗原貞子の『ヒロシマというとき』である。とりわけ、その詩の最後の言葉は、その本質を象徴的に表現している。
<ヒロシマ>といえば
<ああヒロシマ>と
やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめなければならない
このように他者(とりわけ私たち自国の残虐行為による被害者)の「記憶」を自分のものとして内面化することを経て、はじめて我々自身の「記憶」が他者によって継承されるのである。「記憶」とは他者と自己との継続的な相互交流の中でこそ機能し継承されるものであり、「文化的記憶」はこのような二重性、相互関連性を最初からしっかりと具えていなければならない。自己の「記憶」だけを一方的に相手にむかって発信しても、そして、たとえそれが一時的に受けとめられたとしても、それが時間と場所を超えて長く広く継承されることはない。
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したがって、<鎮魂のための墓標である「被爆遺構」>という被服支廠の活用の仕方も、極めて自己被害中心的で且つ狭隘な捉え方であると思いますので、この提案には私は残念でなりません。この建物は、もちろん被爆者を鎮魂するためと同時に、宇品から出動し、ここで作られた軍服・軍靴を着用し、兵器補給廠から出された銃器で日本軍兵士が、明治時代から1945年8月までの長期にわたって、アジア太平洋各地で繰り広げた虐待と殺戮の無数の被害者の人たちの「痛み」に倫理的想像力を働かせ、自分の「痛み」として内面化するための場所ともなるべき空間なのです。
映画『夢』の中の、故郷に帰ることを願いながらも彷徨っている「日本兵の深い心の痛みと哀しみ」。同じように、その兵隊たちに虐殺されて愛する人を失った夫や妻、子供を失った親、親を失った子供などなど、その人たちの「痛みと悲哀」をも私たちは自分のものとして深く内面化すべきだと思います。それが、日本軍兵士であった父親や祖父の世代を持つ私たち日本人の、人間として当然とるべき責任倫理だと私は思います。
その行為を通してこそ、自分たちの「被爆の痛み」を、日本軍の加害行為の犠牲者の遺族の方たちにも共有してもらうことができるはずです。すなわち、この建物を「痛みの共有機構」としなければならないと私は思います。いうまでもなく、「戦争記憶継承の機構」と「痛みの共有機構」は表裏一体となっているべきもので、分離できるものではありません。「痛みの共有」の上にこそ、真の平和的生存関係が築かれるはずだと私は信じます。
私は、この被服支廠の三棟の一つを、日本の戦争加害の歴史と、その加害歴史に広島がどれほど深く関与したかを詳しく解説すると同時に、原爆被爆当時にこの建物がいかに悲惨な阿修羅地獄と化したかの実相を描写する、しかも「加害」と「被害」がいかに緊密に絡み合っているかが実感できるような、「戦争博物館」にすべきだと思っています。「加害の歴史」は、広島に現存する博物館や美術館では完全に無視されていますので、ぜひこれを実現してもらいたいです。「平和文化都市」を自称する広島市が、「痛みの共有」の上に立った文化施設を作れないなら、「平和文化都市」と自称するのを止めるべきです。
長くなりますので、今回はこれで一応終わらせていただきます。四國光さんが被服支廠活用のためのアイデアとして述べられている「芸術の利用」についての私自身の考えは、日をあらためて、「私見 広島『被服支廠』の活用について(2)」としてこのブログで紹介させていただきます。
ちなみに、上に述べた「痛みの共有」の重要性を、文学作品で強調したのが栗原貞子であり、その重要性を証言活動で実践したのが沼田鈴子さんでした。この稀有なお二人の被爆者の思想と活動については、このブログに掲載してある「国家主義を突き破る人道主義:栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの」(2018年8月30日)と「沼田鈴子の思想と実践:<痛みの共有>に関する補論」(2020年8月29日)を参照してください。戦争被害者のご遺族の心の痛みを具体的に知っていただくためには、豪州人の例として、今年6月30日のブログ記事で紹介しているお二人の遺族のスピーチ(私の講演録の後に載せてあります)を是非ともご一読いただければありがたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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