「8・6ヒロシマ平和へのつどい2018」で講演していただいた金鐘哲さんから、以下のようなエッセーを送っていただきましたので、ご紹介します。
金鐘哲(『緑色評論』発行・編集人)
翻訳:金亨洙
8月の最初の週末、日本の広島に行ってきた。毎年この時期になると広島では日本や世界から平和を願う数多い市民や活動家たちが集まり様々な集会が行われる。言うまでもなく8月6日が広島にあの原爆が投下された日であるからだ。
私が今回、初めてあの広島を訪れたのは、長らく平和運動を行ってきた、とある日本の市民団体のおかげであった。「8・6ヒロシマ平和へのつどい2018」と言う名のもとで今年の集会を準備するなか、最近の朝鮮半島の情勢に関して韓国人の話を聞いてみようという案が出たらしい。そこで私に講演の依頼がきたのだが、その依頼を受けた5月には今年の夏の暑さがこれだけ酷いことになるとは予想できなかった。約束の日が近づいてくるにつれ、暑さに弱い私はソウルより少しも劣らないはずの広島の暑さの中に入っていくことが、非常に心配に思えて来た(どこかで読んだ証言の記録によると、原爆投下から奇跡的に生き残った生存者たちの鮮明な記憶の一つは、73年前のあの日の朝、爆弾が落とされる直前のヒロシマはとても暑かったと言うことだそうだ)。
しかし、暑さのせいで広島行きをキャンセルするわけにはいかなかった。それで、8月5日、酷暑のなか広島にて講演・討論会が行われた。韓国からの見ず知らずの人間の話を聞くために、かなり広い講堂には多くの聴衆が集まっていた。講演の冒頭で私は、朝鮮半島問題に関する言わば専門家の識見ではなく、韓国の一市民・知識人のアマチュアとしての常識を話すと言い、「安保論理から平和共生の道へ」というタイトルの発表をした。そして1時間余り参加して下さった方々と多様な意見を交わした。
私の講演の要旨は単純なものであった。つまり、第2次世界大戦以降朝鮮半島と東アジア、延いては世界全域に渡る第一の支配論理は安保論理であり、その安保論理のせいで人類社会(特に朝鮮半島と東アジア)においては如何なる創造的な生き方の可能性も徹底的に遮られて来た。最近、「ロウソク革命」以降韓国に民主的な政権が成立し、その後朝鮮半島を中心に展開されている平和ムードは、安保論理に囚われて来た既存の世界秩序を打破するのみならず、我々の想像力を開いてくれる決定的なきっかけになり得る。そしてそうなってきた際、朝鮮半島の住民は言うまでもなく、東アジアの人々は未だかつて経験したことのない、より高い質の人間的な生き方を自由に探索できる機会にめぐまれることになるであろう。そして、このせっかくの機会を生かすのに最も必要なのは鳩山由紀夫元日本総理(2009~2010在任)が唱えた「友愛に基づいた東アジア共同体」といった概念、あるいはそれに近き政治哲学であり、そのために欠かせないのは民族や国境という境界を超えた、東アジアの市民たち同士の自由で活発な交流と対話、連帯に向かっての努力である…。
講演が終わるとフロアからの質問と意見の発表が活発に続いた。質問の中には私としては答え難いものも多かった。例えば、「一帯一路」という一大プロジェクトを掲げ、物凄い勢いで勢力を広げている現在の中国の指導層に「友愛に基づいた東アジア共同体」のような政治哲学を期待することが現実的に可能なのだろうか、という質問があった。この質問にすっきりした答えを出すのは私の能力を超えることだった。しかし、私は昨年10月の第19次共産党大会にて習近平主席が中国の未来像について語りながら、殊に小康社会、美麗社会、そして生態文明社会として表したのは、単なる政治的な修辞というより現在の中国の政治指導者たちの本音が含まれた抱負を表現したものではないだろうかと、そうであればそこには東アジア共同体の潜在的可能性があるのではなかろうかと、恐れ憚りながら答えた。
しかし、このような難しい問題以外にもより根本的な憂慮も示された。それは、東アジア共同体という概念自体には何ら問題もないが、その言葉にはどこか「アジア主義」を標榜しながらも実際においてはアジアに対する侵略を正当化するイデオロギーとして機能した、日本帝国主義時代の右翼思想を思わせるところがあるという指摘であった。この指摘に対して私は、我々が目指すべき東アジア共同体とはどこまでも「友愛」に基づいたものであり、そのためある特定の国家が東アジア共同体の構築を主導するというような発想自体を捨てるべきだという点を強調する必要があると、ただ常識的な答えしかできなかった。
しかしフロアは全体的に韓国がロウソク革命を通して民主的政権を成立させ「希望的」社会になり得たことを、非常に羨ましがる雰囲気だった。参席した方々は殆どが68年学生闘争を経験した高齢者の方で、大概の方が年金生活者のようだった。私の目にも問題は見えてきた。社会に不条理が溢れ、総理をはじめとする政治家や官僚たちが絶えず嘘ばかりをついている状況が続いているにもかかわらず、日本の若者たちは政治には何の関心もなく自らの生活ばかりに埋もれ、飼育された家畜のようになりつつあると、誰か嘆いている声が聞こえてきた。それが事実かどうか、私にはよく分からないが、一時世界的に最も強烈な反体制運動を展開していた往年の学生運動家たちの嘆息が、私の胸を打った。(彼らの発言を聞きながら私は昼夜を問わずスマホに夢中になっている昨今の韓国の若者を思い出し、やるせない気分になった。)
ところが、今度の広島行きで私が得た最も大きな収穫の一つは栗原貞子(1913~2005)という詩人の存在を知ったことであった。栗原は1945年8月6日ヒロシマに原爆が投下された時、爆心地から4キロメートル離れたところに住んでいた住民だった。彼女は原爆投下直後から完全なる廃墟と化した現場に向かい、見るに堪えないあの惨状を目撃し、極度の苦痛のなか死に、喘いでいる被爆者たちを助けるために必死の努力をした。その経験から彼女は、戦後日本における数少ない優れた「原爆詩人」となった。しかし彼女は原爆の残酷な後遺症やその惨状を記録するにとどまったわけではなかった。彼女は社会主義を信奉するご主人と共に、早くから日本のアジア侵略を批判し、反対していた反戦思想家でもあったのだ。
彼女は生涯を通して反戦、反核、平和のために人間である我々が如何にすべきかということを、詩と行動を通じて問い続け、また訴えた。その延長線上において、彼女は日本社会が全般として原爆の犠牲者としての立場を強調しながら「平和」云々するのは、根本的に偽善で虚偽であると指摘し、ヒロシマの惨劇だけではなくアジア・太平洋地域で犯した日本軍国主義の蛮行に対する歴史的責任を認識すべきだと、繰り返し強調した。しかし戦後にも日本は朝鮮戦争やベトナム戦争に積極的に関与し、再び「他者の犠牲」の上で経済復興を成し遂げ、結局ヒロシマの悲劇から一つも学んだことのない結果となってしまったと、厳しく批判し続けた。そのため彼女は日本社会の中で酷い孤立を耐え続けるしかなかったが、少数の良心的な人の中では尊敬の対象となった。
韓国には殆ど知られていないこの詩人の詩を読んでみると、その根底には真の詩人であれば誰しもがもつ共通の資質とも言えるアナキスト的精神が熾烈に生きていることを感じ取ることができる。彼女は「文学は政治に従属するのではなく、政治に先行するものである」と言い、また「どの時代にも政治的支配に対して文学は反対の立場をとってきた」と述べ、文学の意義と役割に関する強烈な信念を語っていた。同時に「政治的無知と無関心」こそ「平和と民主主義の敵」であと、強調してやまなかった。
国益という論理、安保という論理をもって、いつまでも真実を隠蔽し世の中を危険にさらしている支配層によるありとあらゆる弾圧や世論操作にも、我々が人間としての感受性を失わず平和と民主主義を守るための戦いを続けられるのは、結局栗原のような「不敗の精神」を持った詩人の存在のおかげかもしれない。
(この文章は8月10日付「ハンギョレ新聞」に掲載されたコラムの一部を修正・加筆したものである。)
1 件のコメント:
田中利幸様
毎年広島で8月6日前後原爆と被爆後の政治の現状などを討論し、今後の世界平和への道筋を開けようと
努力されている姿を、遠くはなれたブラジルから感動をもって眺めさせていただいています。
私達ブラジル在住の被爆者も年々年老いて今の会員は84名と数少なくなりました、1990年代270数名の
被爆者が、日本を出た被爆者には外国に住むというだけでなんの援護も受けられず、団結して日本在住被爆者と
同等の医療援護を受けられるようにと働いていた当時を思い出し、未だに完全にそれが実現していない現状を打開するために残り少ない会員と頑張っています。
今ブラジルでブラジル被爆者平和協会の,森田会長、渡辺理事、それに私と3人の被爆者が、森田さん94歳、私が78歳、渡辺さんが75歳とという陣容で、「3人の被爆者」と題して、ポルトガル語で被爆体験を中心に4年前から演劇をしています。サンパウロだけでなく、その他の都市でも公演依頼があれば行って多くの人たちに平和の大事さを訴えています。いつまで続くかわかりませんが動ける限り続けるつもりでいます。
貴方様がサンパウロに来られお会いされた多くの被爆者も、お亡くなりになっています。しかし今後ともどうか元気で活動されることを祈っています
盆子原国彦
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