- 戦争責任問題を考えるための予備知識 -
(5) 太平洋戦争の歴史的経緯
*第1期「日本軍攻勢」段階
*第2期「戦略失敗による態勢逆転と大量餓死」段階
*第3期「死守・撤退の中での棄民と玉砕の悲劇」段階
*第4期「壊滅的敗退と軍民無差別大量死」段階
太平洋戦争4段階の歴史的経緯
太平洋戦争は、日本側から戦局の推移を見た場合、4つの時期に区分できると私は考える。
第1期「日本軍攻勢」段階:
1941年12月8日の英領マレー北部コタバルとタイ南部シンゴラへの陸軍部隊の奇襲上陸と海軍による真珠湾への奇襲攻撃から、1942年5月初旬の珊瑚礁海戦の結果としてのポートモレスビー海路攻略作戦の中止まで。
第2期「戦略失敗による態勢逆転と大量餓死」段階:
1942年6月のミッドウェー海戦における日本海軍の大敗北と8月の米軍ガダルカナル上陸を経て、ガダルカナルとニューギニアでの激戦。さらに、8〜11月にかけてのソロモン海、南太平洋での4回の海戦と航空兵力のいちじるしい消耗を経て、1943年2月のガダルカナル島撤退まで。
第3期「死守・撤退の中での棄民と玉砕の悲劇」段階:
ガダルカナル島撤退から、1944年6月のマリアナ沖海戦でのさらなる敗北と、同年7月のインパール作戦の失敗、サイパン島などマリアナ諸島での玉砕と放棄まで。
第4期「壊滅的敗退と軍民無差別大量死」段階:
マリアナ諸島放棄から、1944年10月のレイテ沖海戦での日本海軍のほぼ全滅に続くレイテ戦、1945年2月の硫黄島戦、沖縄戦、米軍による日本本土無差別爆撃を経て1945年8月の敗戦まで。
この時期区分からも分かるように、日本帝国陸海軍が攻勢を見せたのは最初の半年のみで、その後は、アジア太平洋各地で、多くの将兵と日本人市民、さらには数多くのアジア諸民族の人々を残酷な死に追いやる連続の、長くて実に破壊的な3年3ヶ月間であった。単に多くの人間生命が失われただけではなく、広範に及ぶアジア太平洋各地の文化と自然環境がこれほどまでに深刻な打撃を被ったことは、それまでの歴史上で初めてのことであった。
今回は、主として太平洋戦争の「戦史」に焦点を当て、大本営の無謀な戦略の繰り返しのゆえに、いかに多くの日本軍将兵の生命が消耗されたか、その悲壮な歴史を簡略に省みてみたい。日本軍が占領地住民や捕虜に対して犯した様々な残虐行為に関しては別稿で取り扱うことにする。
第1期「日本軍攻勢」段階:
日本時間1941年12月8日午前2時頃に、山下奉文中将を司令官とする陸軍第25軍の先遣兵団が、シンガポール攻略を目指して、英領マレー北部のコタバルとタイ南部のシンゴラに奇襲上陸。同日午前3時25分(ハワイ時間で7日午前7時55分)に、南雲忠一中将が指揮する空母6隻を基幹とする第1航空艦隊が真珠湾を奇襲攻撃した。しかし、東京とワシントンの日本大使館の間の連絡ミスから、アメリカ政府に日本政府の最後通牒(宣戦布告)が手渡されたのは、奇襲開始からほぼ1時間も経ってからであり、これが、「だまし討ち」をした日本に対するアメリカ国民の感情を一挙に憤激させる口実 – “Remember Pearl Harbor”(真珠湾<だまし討ち>を忘れるな)
- を与えてしまった。
フィリッピンにたいしては、12月8日の夜明けとともに台湾から飛びたった陸軍航空隊がルソン島を先制空襲し、これに続く海軍航空部隊による攻撃で、一挙に制空権を掌握。10日には第14軍(司令官・本間雅晴中将)陸軍部隊がルソン島北部に上陸し、マニラに向かって侵攻。しかし、マッカーサー将軍が率いる米軍・比(フィリッピン・ユサッフェ)軍はバターン半島とマニラ湾口のコレヒドール島要塞に立てこもり粘り強く抗戦。このため、日本軍がマニラ市を占領するには翌1942年の1月2日までかかった。バターン半島では激しい攻防戦の結果、マッカーサーはオーストラリアに向けて脱出したが、米比軍(米軍1万2千名、比軍6万4千名)は4月9日に降伏。コレヒドール島要塞の攻略は5月7日までかかった。
マレー作戦では第25軍部隊が1月11日にクアラルンプールに侵入し、1月31日にはマレー半島南端のジョホールバルを占領。シンガポール攻略は華僑の抗日義勇軍と英連邦軍の激しい抵抗のため2月15日までかかり、占領後はここを昭南島と名付けた。シンガポール攻略戦で捕虜になった英連邦軍将兵(英軍、英植民地インド軍、濠州軍)は約8万人、その上にマレー半島戦闘で投降した5万人の合計13万人。
石油資源を有する蘭印(オランダ領東インド)攻略作戦には今村均中将を司令官とする第16軍の諸部隊があたり、12月16日から2月10日までにボルネオ島の要地を制圧。2月14日には落下傘部隊のパレンバン降下とそれに続く主力部隊の侵攻でスマトラ島を制圧し、2月20日には中立国ポルトガル領のチモール島を制圧。ボルネオ、スマトラ、チモールの三方からジャワ島を包囲する態勢でジャワ島攻略に向かった。日本軍のジャワ島上陸を阻止しようと、蘭英濠米連合艦隊が出撃したが、2月27日のスラバヤ沖海戦、さらに3月1日のバタビア沖海戦で日本軍艦隊によって壊滅させられた。第16軍は、3月1日にジャワ島に上陸。3月9日にはオランダ軍は無条件降伏し、翌日に第16軍はバンドンを占領した。ジャワ島だけでも捕虜になった連合軍(蘭印軍、濠州軍、英軍、米軍)兵の数は8万3千名ちかくいた。
(緒戦でこれほど多くの連合軍捕虜が出るとは考えていなかった日本軍には、捕虜のための食糧や医薬品の準備がほとんどなかった。このことが、戦時中に多くの捕虜の死亡者を出したことの大きな原因の一つであるが、捕虜虐待問題については次回取り上げる。)
太平洋戦線では、堀井富太郎少将を司令官とする南海支隊が、12月10日にグアム島を占領したのち、ウェーク島、ビスマルク諸島に侵攻し、1月23日にはニューブリテン島のラバウルを占領。3月8日には、東部ニューギニアの東北岸のラエとサラモアに、飛行基地設定の目的で第4艦隊と南海支隊の一部が上陸。
当初の計画よりも1ヶ月も早く東南アジア各地の要域を占領下においた日本軍は、勢いにのって、最初の予定に入っていなかったビルマ攻略作戦を繰り上げて実施。飯田祥二郎中将が率いる第15軍がタイからビルマに侵攻し、1月31日にはモールメンを、3月8日にはラングーンを占領した。
かくして開戦から半年も経たないうちに、東南アジアから南西太平洋に至る広大な –日本が「大東亜共栄圏」と呼んだ- 地域が日本軍の占領下に入った。しかし、緒戦における日本軍の圧勝は、日本軍が準備を十分に整えて奇襲攻撃を行ったのに対し、連合国側はヨーロッパ戦線での戦闘にエネルギーを集中させており、そのためアジア太平洋戦域での準備は極めて不備であったという状況によるところが大きい。しかも、連合軍側は、士気の点で劣る守備軍と植民地軍隊で対抗しなければならなかった。
しかしながら、この開戦時の日米両国の経済力にはすでに格段の差があった。このとき、アメリカの国民総生産額は日本の11.8倍、粗鋼生産では12倍以上、航空機生産で5.2倍、商船建造で5倍、軍事費で2倍以上であった。日本軍は、この経済力の格差を忘れ、緒戦の勝利感に酔って自己過信し、やたらに戦線を拡大して自ら破綻の原因をつくっていったのである。この経済力の格差は、早くも開戦の半年後から戦域各地で表れはじめる。
日本軍が南西太平洋を占領すると、海軍はオーストラリア占領を計画。一方、対ソ戦のための戦力を節約・強化したいと考えていた陸軍は、この海軍の計画に反対。そこで妥協策として計画されたのが、アメリカとオーストラリアを結ぶ輸送路を遮断するための、オーストラリアにとっての重要拠点であるニューギニア東南岸のポートモレスビー(以下「モレスビー」と略)と、南太平洋のサモア、フィージー、ニューカレドニアの3諸島を、陸海軍協同で攻略する「米濠遮断作戦(FS作戦)」で、これを5月と7月頃に実施することが決められた。さらに海軍は、真珠湾攻撃で撃ちもらした米空母を誘き出して、米海軍太平洋艦隊を一挙に撃滅するための海軍独自の短期決戦、「ミッドウェー・アリューシャン作戦」を計画し、4月16日に天皇裕仁に上奏し允裁をえた。
しかしその直後の4月18日早朝、アメリカ空母ホーネットから発進したドゥーリトル中佐率いる16機のB25中型爆撃機が、正午過ぎから東京、横須賀、名古屋、神戸を奇襲爆撃し、1機も撃墜されることなくそのまま日本上空を通過して、中国大陸とソ連沿海岸へと飛び去った。被害は死者50人、負傷者400人以上。空襲被害としてはそれほど大きくはなかったが、本土の制空権を破る侵入に軍部も政府も大きな衝撃を受けた。このため、陸軍もミッドウェー・アリューシャン作戦に加わることに熱心になり、陸海軍協同で6月中旬に実施することとなった。
これに先立つ5月7〜8日、モレスビー攻撃に向かっていた日本軍空母艦隊は、ソロモン諸島とニューギニアの間の珊瑚海で待ち受けていた米艦隊と遭遇し、日本側の空母3隻に対し米側は空母2隻という、初めての「空母対空母」決戦を展開。この時点でアメリカ側は日本海軍の暗号をすでに解読することに成功しており、日本側の動きはアメリカ側に筒抜け状態であった。米側の空母・レキシントンが撃沈され、日本側も小型空母・祥鳳を失い、空母・翔鶴が戦闘不能となった。艦隊機を日本側が43機と米側が33機を失い、その結果、日本はモレスビー海路攻略作戦を延期し、結局は中止せざるをえなくなった。戦闘という観点だけから見た場合には引き分け状態であったこの珊瑚海戦は、日本軍の拡大をここで停止することができたという点で、連合軍側にとっては心理的な転換期となった。これ以降、連合軍側は攻勢に変わっていく。
第2期「戦略失敗による態勢逆転と大量餓死」段階:
1942年6月5日〜7日のミッドウェー海戦では、日本海軍の連合艦隊のほうは、「赤城」など空母4隻を中心とする第1機動部隊(南雲忠一司令長官)を前衛において、その約500キロ後方に連合艦隊長官・山本五十六が坐乗する旗艦「大和」など戦艦7隻、巡洋艦3隻、駆逐艦21隻という大編成であった。ところが、暗号解読によって日本側の作戦を事前に察知していたアメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、ミッドウェー島の防備を固めると同時に、空母3隻を含む第16と第17の両機動部隊をミッドウェー島北方の海上に待機させ、日本海軍の第1機動部隊を待ち伏せさせた。この待ち伏せ作戦で先制集中攻撃を受けた第1機動部隊は、空母4隻と艦載機285機の喪失という大打撃を受け、精鋭のパイロット約110人を含む3千人以上が死亡。そのため、作戦を途中で中止して敗退。
シベリアへの米航空部隊進出と米ソ間の連絡を妨害する目的で行われたアリューシャン作戦のほうではアッツ・キスカ両島を無血占領したが、日本海軍はミッドウェーの大打撃で当分のあいだ積極的な攻撃作戦をとれなくなったため、「米濠遮断作戦(FS作戦)」も延期され、結局は中止された。
日本海軍は、先の中止されたモレスビー攻略作戦の際に、その攻略の前線基地にするために、アメリカとオーストラリアを分断する戦略の要衝であるソロモン諸島東端のフロリダ島のツラギを占領していた。7月上旬から、そのツラギの対岸にある小島ガダルカナル(いわゆる「ガ島」)に設営隊・守備隊の合計約3千名を送り込み、飛行場を造成しつつあった。その完成寸前の8月7日、米軍は1万人を超える数の海兵隊を一気に投入し、ツラギも含めて制圧して飛行場も確保。このガ島奪還を目指す日本軍は、なんらの情報収集もせずに、軽装備の部隊を次々と送り込んで壊滅させるという失敗の繰り返しを半年間も続けた。その上、ガ島確保によって、米軍側がこの地域の制空権・制海権を握ったため、日本軍は武器弾薬、食糧、医薬品も送ることができず、結局は、1943年2月の撤収までに、上陸した兵士31,400名のうち20,860名が死亡、このうちの1万5千名ほどが餓死またはマラリヤなどによる病死者であった(このため、ガ島はしばしば「餓島」と記される) ガダルカナル上陸作戦で壊滅させられた日本軍将兵の屍体 |
海軍は、ガ島奪還のためにニューブリテン島ラバウル基地の航空兵力を繰り出し、新結成の第8艦隊も出撃させて、8月初旬から11月初旬まで、第1次〜第3次ソロモン海戦や南太平洋海戦を展開。その結果、小型空母1隻、戦艦2隻のほか多くの輸送船を失ったが、とりわけ、ミッドウェー海戦に続いて、再び航空兵力をいちじるしく消耗した。
一方、ニューギニアのモレスビー海路攻略作戦は中止となったが、大本営はモレスビー攻略をあきらめたわけではなかった。東部ニューギニアの東北岸のブナからモレスビーまでの密林、図上距離220キロメートル(途中に標高4千米以上のスタンレー山脈があるので、実質距離は360キロ)を徒歩で侵攻するという全く無謀な計画がたてられ、第17軍所属の南海支隊と歩兵第41連隊の約1万5千名ちかい兵が8月中旬に送り込まれた。ガ島同様に、ここでも携帯食糧が1ヶ月で底をつき、作戦は完全に失敗。最終的に、1943年1月のブナ方面からの撤退時までに、なんとか救出された兵はわずか3千名にすぎず、1万2千名の死亡者の7割が餓死・病死であった。
こうした作戦上の失敗の連続で多くの将兵を死なせながら、いずれの場合も責任の所在を明らかにせず、しかも失敗の原因について徹底的に研究し、失敗から教訓を得るという努力を陸軍も海軍も怠った。それのみか、大本営は、失敗の事実を秘匿し、事実とは全く異なる虚偽の「戦果」(例えば、「東太平洋に感激の壮烈戦
ミッドウェーを強襲 空母2隻を撃沈」1942年6月17日)を次々と国民には発表した。この虚偽の戦果発表は、1945年8月の敗戦まで一貫して続けられた。(ちなみに、最近話題になった「自衛隊イラク派遣日報」の隠匿の事実は、自衛隊幹部が太平洋戦争の歴史から「情報開示」の重要性という点で何も学んでいないことを明示しており、こんな自衛隊が戦争をするなら、国民に対していったいどんな嘘の情報を流すかを想像することは難しいことではない。そんな自衛隊を批判追及する野党国会議員を現職の自衛官が「お前は国民の敵だ」と罵倒する行為は、まさに戦前・戦中の、シビリアン・コントロールが全く機能していない状況を彷彿とさせる。情報隠匿とその責任所在の不明、シビリアン・コントロール不能という点では、根本的に現在の日本は戦時中となんら変わっていないということを、我々は忘れてはならない。)
第3期「死守・撤退の中での棄民と玉砕の悲劇」段階:
モレスビー陸路攻略作戦の大失敗にもかかわらず、それでも大本営はあきらめきれず、ブナ奪回を目指し、さらにモレスビー北西200キロの地点にあるニューギニア南岸の要衝ケレマを北東岸のラエ、サラモアから広大な密林と中央山脈を横断して占領し、そこからモレスビーを包囲するという計画を立てた。前回同様、無責任にも、現地の広大な密林地帯という地勢状況を全く知らない大本営スタッフが、中国戦線の平原地帯と同じように容易に行動できるという前提で立てた作戦である。この作戦実施のために、1943年3月以降、第18軍の将兵を次々と北東岸に上陸させ、結局は合計で14万8千人という膨大な数にのぼる将兵が送り込まれた。彼らのほとんど全員が、飢餓・栄養失調と熱帯病に苦しみながら、生き延びるためには人肉食も厭わず、濠米両軍に追撃されて密林の中を逃げ回るという、文字通り地獄のような苦しみを長期間続けることになった。その結果、戦後に生還できたのは1万3千人に過ぎず、13万5千人(死亡率91パーセント)という犠牲者を出した。
1943年4月18日、ラバウルから最前線視察に向かっていた連合艦隊長官・山本五十六の搭乗機が、暗号解読でこれを知って待ち伏せしていた米軍機に、ブーゲンビル島上空で襲われて撃墜され、山本は戦死。国民最大のヒーローであったこの山本長官死亡の情報も、国民に与える衝撃を恐れてしばらくは報道されず、5月21日なってようやく公表された。
5月11日にはアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。山崎保代大佐率いる2,379名の日本軍は、日本からの支援が全くない孤立無援の状態で、苦戦の末に5月29日に敵地に最後の「玉砕(=自殺)」突撃を敢行。捕虜となった29名を除いて、あとの全員が戦死または自決した。これが、それ以降、太平洋各地の島々で繰り返される「玉砕」 - 死ぬまで闘うことを強要され、降伏を許されない日本軍の悲劇 - の始まりであった。ちなみにキスカ島の日本軍は7月29日に無事に撤退したが、玉砕ではなく撤退を選んだひじょうに稀なケースであった。
米海軍は1943年の夏までに新鋭空母「エセックス」級6隻と巡洋艦改造の小型空母9隻を太平洋艦隊に編入。艦隊機も新鋭のグラマンF6Fに替えて、防御システムを強化し、空母を防衛するという戦術をとった。一方、日本海軍のほうは、ミッドウェー海戦後に新たに建造した空母は、そのほとんどが商船を改造した防御力の弱い小型空母で、正規の空母は終戦までに3隻が建造されたが、完成した時点では搭載機と燃料不足のために、1隻も実戦に参加できなかった。しかも、海軍主力戦闘機零戦は、米軍が次々と製造した新鋭戦闘機に、開戦当初もっていた優越性を覆されたために、多くの搭乗機と優秀な搭乗員を失い、日本の航空戦力は急速に低下していた。日本軍の場当たり的な戦術戦略の結果と工業技術・生産力の格差が、すでにこの時期、航空戦力に如実に表れていた。また1943年後半から日本の軍需生産が次第に低下してきた理由の一つは、米潜水艦による商船撃沈によって資源確保が困難になってきたことである。
9月8日にはイタリアが連合軍に無条件降伏したため、連合国側は米軍戦力の一部をヨーロッパ戦線からアジア太平洋戦線に振り向けることができるようになった。日本はこれまでの敗退の連続も考え、戦略の根本的再検討を迫られた。そこで、9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」を決定し、大東亜共栄圏を縮小する「絶対国防圏」なるものが設定された。これによって、絶対確保すべき要域が、太平洋「北端の千島 – 東の小笠原諸島・マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム) - 南端の西部ニューギニア・スンダ – 西はマレーからビルマまで」を結ぶ線とされた。縮小されたとはいえ、いまだアジア太平洋の広域にわたる地域が「絶対国防圏」とされたが、それは日本の(経済的、軍事的)占領能力をはるかに超える地域であった。
しかし、その結果、この「絶対国防圏」の外にある南太平洋の最大の基地ラバウルの約10万の駐留兵、東部ニューギニアの密林で飢餓状況で闘っていた10数万の将兵、マーシャル諸島ほかいわゆる内南洋離島の駐留兵12万人と1万人ほどの官民たちは置き去りにされ、見捨てられることになった。つまり、かれらはその後の2年間ほど「自活」して生き延びなければならなくなったのである。換言すれば、「絶対国防圏」は、30万人以上の自国民を「棄民」するという政策と裏腹になったものだったのである。
11月21日には米軍はギルバート諸島タラワ・マキンに上陸し、25日日には日本軍守備隊は玉砕。1944年2月5日には、マーシャル諸島クワジャレンの日本軍が全滅。続いて、2月17〜18日、米軍は、中部太平洋における日本海軍最大の基地であるカロリン諸島トラック島を猛爆撃し、43隻の戦艦を沈め飛行機約270機を破壊して、基地を壊滅させた。2月23日、米軍は、今度はマリアナ諸島のサイパン・テニアンを猛爆撃、両島の基地航空兵力は壊滅的な打撃を受けた。2月24日には、マーシャル諸島ブラウン環礁の日本軍が玉砕。3月末には西太平洋のパラオ諸島が陥落。
6月11日、米軍はサイパン島に上陸開始。19〜20日には、マリアナ西海域で日米両海軍機動部隊の決戦が行われたが、この「マリアナ海戦」で、日本側は3隻の空母を撃沈され、395機を失った。これに対し、米軍側の沈没艦数はゼロ、撃墜37機(そのほか事故損出80機)にとどまった。日本海軍は、この惨敗で機動部隊が壊滅状態となった。一方、サイパン島に駐留していた約3万人の日本軍は、海と空の両方から支援を受ける約6万7千人の米軍の圧倒的な攻撃を受け、7月7日に最後の総突撃を決行し、翌日に玉砕全滅。非戦闘員の在留邦人犠牲者は約1万人いたが、その中の4千人は、島の北端に追い詰められて手榴弾や毒薬で自決、あるいは断崖(バンザイ・クリフ)から投身自殺した。さらに、軍の作戦上足手まといになるとして、兵たちに虐殺された現地住民もいた。マリアナ諸島の陥落で、制空権・制海権は米軍に握られ、太平洋側の「絶対国防圏」は完全に破綻した。
太平洋には、日本軍が守備隊を配置した大小様々な島が25あった。そのうち米軍が上陸し占領したのは8島にしかすぎず、重要ではないと見られた残る17島を米軍は戦線の背後に放置しておいた。8島で玉砕した数は11万6千人。孤島に取り残されたのは16万人で、そのうち4万人ほどが米軍と闘うこともなく餓死、または熱帯病で死んでいった。
マーシャル諸島で餓死寸前に米軍捕虜となった海軍兵たち |
「絶対国防圏」の西端のビルマに近いインド領インパールでも、多くの自軍兵士の命を奪う無謀な作戦が行われた。南方軍第15軍司令官牟田口廉也中将がインド・アッサム州の攻略「インパール作戦」を強硬に主張。これを直属上司であるビルマ方面軍司令官・河辺正三中将が支持(ちなみに、河辺と牟田口は、1937年7月の盧溝橋事件のときの支那駐屯歩兵旅団長と支那駐屯歩兵第1連隊長で、戦争開始の最高責任者)。1944年3月、第15軍所属の3個師団が、たった2週間分の携行食糧しか持たずインパール付近まで進攻。しかし、攻撃を開始した段階ですでに食糧も弾薬も不足。そのため、制空権を確保して圧倒的な火力と物資で支えられた英印軍の反撃を受けて苦戦。5月には雨期の激しい雨の中、武器も食糧も枯渇し、兵士は飢えとマラリヤや赤痢のため次々と倒れていった。にもかかわらず、牟田口は、攻撃に消極的な師団長3名全員を罷免して攻撃続行を命じた。結局、日本軍は壊滅状態となり、7月10日に作戦中止。氾濫する河川と泥濘の中を、英印軍に追撃されながら、日本軍は500〜1,000キロを退却するという悲惨極まる苦闘を強いられた。ようやく10月中旬に撤退が完了した段階で、参加者兵士約9万人のうち3万人が死亡、4万人が戦傷病に倒れた。日本軍が養成したチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍もこの作戦に参加して、壊滅。翌1945年3月にはビルマのマンダレー、5月にはラングーンが英軍に奪回され、アウンサンが率いる日本軍養成のビルマ国民軍も反乱を起こし、かくして「絶対国防圏」の西側も崩壊した。
第4期「壊滅的敗退と軍民無差別大量死」段階:
1944年6月のマリアナ沖海戦敗北と、同年7月のインパール作戦の失敗、サイパン島などマリアナ諸島での玉砕と放棄で日本の「絶対国防圏」が崩壊したあと、米軍は、今度はフィリッピンを目指して進攻。10月18日、アメリカ第7艦隊は650隻という大船団でレイテ湾に殺到。これを迎え撃つ日本海軍連合艦隊も残り少なくなった艦船を総動員して出撃し、三方向からレイテ湾突入をはかり、米機動部隊をひきつける「おとり艦隊」をルソン島に向かわせた。しかし、10月23〜25日に行われたこの「レイテ海戦」では、日本軍はレイテ突入に失敗し、空母「瑞鶴」1隻、戦艦「武蔵」など3隻を含む合計30隻を失って、連合艦隊はほぼ壊滅状態となった。これに対し、米軍側の損失は空母1、護衛空母2、駆逐艦3であった。
このレイテ海戦では、海軍第1航空艦隊司令官・大西滝治郎中将の発案による、250キロ爆弾を搭載した零戦で戦闘機もろとも敵艦隊に体当たりする、「神風特別攻撃隊(特攻隊)」が編成され、初めて出撃。陸軍も万朶隊、富岳隊などの特攻隊を編成。11月中旬以降は、航空兵力を急減に消耗させる絶望的なこの特攻戦法が航空攻撃の主体となり、沖縄戦でも多くの青年たちが「特攻隊員」として自殺攻撃を強いられた。特攻隊で戦死した者は、合計3,948名であった。その上に、人間魚雷「回天」や小型ボート「震洋」を使った自殺攻撃の特攻戦死者が1,448名いた。特攻隊員のほとんどの青年たちは、自分たちが犠牲になることで日本が勝利するなどとは夢想もしなかった。彼らが期待していたのは、「特攻作戦」で米軍側に恐怖を与えることで、なんらかの形で「停戦」がもたらされることであった。しかし、実際には神風特攻は、それほど大きな成果をもたらさなかった。
マッカーサー将軍が率いる25万人という大軍に囲まれたレイテ島の日本軍は、補給を全く受けられないまま苦戦を強いられ、12月には全滅状態。玉砕を強いられた日本軍の戦死者は79,561人、捕虜800人あまりという悲惨な結果であった。
ルソン島の日本軍は、本土防衛の時間稼ぎのために持久戦を命じられた。1945年2月3日にマニラに突入した米軍と市街戦になったが、住民の抗日ゲリラ活動に悩まされた日本軍兵士たちは多くの市民を無差別殺傷・強姦し、市街地を廃墟と化した上で全滅。山中での持久戦をはかるため、マニラを捨てて北部山岳地帯に逃れた第14方面軍は、補給もないまま飢えとマラリヤに苦しみ、ニューギニアの日本兵同様、人肉を食べてまで米軍・フィリッピン・ゲリラと戦い、密林の中を彷徨する状態となった。結局、フィリッピン戦での日本軍戦死者総数は48万6千人以上という驚愕的な数字にまで達し、敗戦時の生存者は12万7千人であった(死亡率80%)。
1945年2月19日、米軍は3万発におよぶ猛烈な艦砲射撃に続いて、7万5千人の兵力を動員する大編成軍を硫黄島に上陸させた。迎え撃つ日本軍は、栗林忠道中将が率いる守備隊2万3千人で、延長約18キロにもおよぶ坑道陣地にたてこもって持久・ゲリラ戦の戦法をとった。3月27日の栗林の自決まで、太平洋戦線でもっともすさまじい死闘が続いたが、この戦闘で日本軍は21,304人が戦死(死亡率93%)、米軍側も戦死傷者が約2万3千人に達した。硫黄島を確保した米軍は、ここに航空基地を建設して、日本本土爆撃に向かうB29爆撃機を護衛する戦闘機を配備。またB29の燃料補給や不時着飛行場としても活用した。
敗戦が避けられないような非常に不利な戦況に深い不満と不安をおぼえた天皇裕仁は、1945年2月7日から26日にかけて、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東條英機を次々と個別に呼んで意見を聞いている。「1日も速やかに戦争終結の方法を考えるべき」という近衛の意見に対して、裕仁は、「戦闘で大戦果をあげ、戦争をこのまま継続すれば不利であることを敵にさとらせたうえで和平交渉に持ち込むこと、これ以外にうつべき手はなし」という広田の進言に基づき、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」と述べた。裕仁は台湾で米軍に大打撃を与えて「大戦果」をあげ、停戦交渉のきっかけにしようと考えていたようで、そのためには沖縄を「国体護持」という自己保身のための「捨て石」にしようとしたと思われる。
1944年12月、大本営は沖縄防衛のための第9師団を台湾に転出させ、さらに本土から第84師団を増援部隊として沖縄に送るという計画も中止した。フィリッピン同様、ここでもまた大本営は、沖縄に消耗戦を強いることで本土決戦の準備のための時間稼ぎをしようとしたのである。
硫黄島の戦闘が終末段階に入った3月23日から連合軍の沖縄進攻が始まるが、沖縄攻略軍は、空母19隻・戦艦20隻を中心とする艦船約1,400隻、艦載機1,700機、人員45万からなる巨大軍団であった。猛烈な艦砲射撃に続いて、3月26日には慶良間諸島に、4月1日に米軍は沖縄本島に上陸。沖縄本島に上陸したのは、第10軍司令官バックナー中将率いる陸海軍合わせて18万3千人の将兵。これに対して、日本軍の兵力は陸軍86,400人(そのうち、戦闘部隊として本土から派遣されたのは5万名のみ)、海軍8,000人(武器操作ができたのはそのうち3千名のみ)。このため第32軍司令官・牛島満中将は、上陸軍には無抵抗で、島の南部で持久戦法をとる戦術をとった。上陸したその日のうちに米軍は北・中の両飛行場を占領。この無抵抗に大本営は驚き、裕仁も「現地軍はなぜ攻勢に出ないか」という叱咤もあって、第32軍は4月12日になってようやく総攻撃に出たが、大損害をこうむったため、再び持久戦法に戻った。
裕仁は海軍へも攻撃を要求し、そのため4月5日、海軍は戦艦大和と駆逐艦など9隻からなる「海上特攻隊」に沖縄突入を命じた。この海上特攻隊は、航行2日目の4月7日午後、九州南西洋上で米機の攻撃にさらされ、大和ほか5隻が沈没、3,721名の将兵が戦死。これをもって連合艦隊の海上兵力は文字通り全滅した。この沖縄戦では神風特攻攻撃も激しく繰り返され、陸海軍合わせて2,393機の特攻機が投入された。そのうえ、海の特攻である人間魚雷「回天」も出撃させ、多くの能力ある若者の命が消耗された。米軍側の損害は沈没36隻であったが、しかし、その中に空母・戦艦・巡洋艦は1隻も含まれていなかった。
5月にはドイツが降伏し、沖縄戦の見通しも極めて悲観的になってきたにもかかわらず、軍部の強硬派は「本土決戦」を主張して戦争を継続。6月末まで続いた沖縄戦では、降伏を許されない日本軍の玉砕戦法に多くの一般住民が巻き込まれたため、軍人・軍属の戦死者約9万4千人とほぼ同じ数の一般住民・戦闘協力者が亡くなった。軍人・軍属・一般住民の総戦死者数18万8千人のうち、沖縄県民の死亡者は12万人、さらにマラリヤ病死や餓死を含めると15万人になると推定されている。つまり、当時の沖縄県民の56万人の4人に1人以上が戦死したのであった。米軍の戦死者は12,520人であった。
一般住民の戦死者がそれほど多かった理由には、戦力不足を補うため、17歳から45歳までの男子約2万5千人が防衛隊に組み込まれて戦闘に従事させられたこと;中学校・女学校の男女学生が鉄血勤皇隊・ひめゆり隊などの学徒隊として従軍させられたこと;米軍の猛烈な砲撃の犠牲となっただけではなく、日本軍による壕追い出しと食糧強奪、戦闘のじゃまになる、米軍に協力したというスパイ容疑などが原因での死亡や殺害;皇民化教育の結果としての集団自決、などが挙げられる。また、開戦時、沖縄には1万〜2万人と推定される朝鮮人が、飛行場や軍用施設の建設のための軍夫として連行されてきており、彼らの中からも多くの犠牲者が出た。さらに朝鮮人女性の中には軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)として、戦闘中も日本軍に酷使された人たちがいた。
マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)を1944年7月までに確保した米軍は、ここにB29爆撃機の一大基地を設置し、同年11月下旬から日本本土への爆撃を開始した。当初は軍事施設を攻撃目標とする「精密爆撃」であったが、すぐに人口密集地の一般住宅も焼夷弾による爆撃の対象とするようになり、1945年8月15日までに、東京、名古屋、大阪、神戸、福岡などの大都市はもちろん、日本全国の100あまりの都市を含む393市町村に、米軍は最終的に16万8千トンにのぼる爆弾・焼夷弾を投下した。その推定死傷者は102万人、その半数以上の56万人が死亡者、死亡者の7割近くが女性と子供であったと言われている。これらの死亡者のうち、約10万人は3月10日深夜の東京大空襲での焼夷弾による猛火の犠牲者であった。
東京大空襲:焼夷弾で破壊された車と重なる焼死体 |
無差別爆撃とはいえ、なぜゆえにこれほど多くの一般市民の犠牲者が出たのであろうか。日本は1937年に「防空法」を成立させたが、この法律が実際に目的とするところは、国民の生命・財産を敵の空爆から守ることではなく、国民を防空演習・訓練に総動員することによって統制・支配することにあった。しかも、1941年の法律改正で、「退去の禁止」と「応急消火義務」が加えられることによって、幼児、老人、病人を除いて原則として市民が「空襲避難」することは認められず、居住者の事前退去、すなわち無断で居住地から避難することも禁止された。すなわち、焼夷弾が降り注いでも「避難することは許されず、消火作業に奮闘せよ」という命令である。海外戦闘地域の前線で兵士たちが玉砕を強いられたのと同様に、いわゆる「銃後」の日本国内においても、実は「防空」という名称で、この「玉砕」の思想が、戦闘地域のようにはっきり見えない形ではあるが、国民全員に強いられていたのであるということを、我々は明確に認識しておく必要がある。すなわち、天皇制軍国主義のもとでは、戦争が激しくなるにしたがい、「前線」と「銃後」の実質的な差異はなくなり、国民はすべて自分の生命・財産を国家のために犠牲にすることを強いられるというのが、その国家論理だったのである。
1945年8月6日、朝8時15分、B29エノラ・ゲイ号から投下されたウラニュウム爆弾「リトル・ボーイ」が広島上空で炸裂し、さらに8月9日午前11時2分にはボックス・カーと名付けられたB29からプルトニュウム爆弾「ファット・マン」が長崎に投下された。広島では原爆攻撃により一瞬のうちに少なくとも8万人あまりが死亡し、1945年末までの総死亡者数は14万人(うち3万人が朝鮮人)と推定されている。長崎では同年末までに死亡した被爆者は7万人(うち1万人が朝鮮人)と言われている。また広島で使用された原爆1個による被爆者総数は45万人と言われている。そのほとんどは一般市民であった。
この原爆無差別爆撃殺戮が日本政府をしてポツダム宣言を受け入れ降伏させる決定的要因となったと、しばしば言われる。しかし現実には、長崎への原爆攻撃後も日本への空爆はポツダム宣言受諾を決定する8月14日までほぼ毎日続けられ、酒田、長野、大阪などが爆撃された。したがって、日本の連合諸国への全面降伏決定には、8月9日のソ連の参戦とソ連軍の満州への進攻、米政府による戦後の天皇制存続への保障の日本政府による確認など、原爆とは別の軍事的、政治的要因が強く働いていたのである。
特に、ソ連の参戦が日本政府の降伏に及ぼした影響は決定的であった。日本時間で8月8日午後11時、ソ連は、日ソ中立条約がいまだ有効であったにもかかわらず、日本に対して宣戦布告。150万人という兵力が、モンゴル人民共和国南部国境から沿岸州地方と樺太国境までの5千キロ以上にわたる全戦線に侵攻。満州国の関東軍は70万人以上の兵力を一応持っていたものの、主力部隊は太平洋戦線に引き抜かれ、その補充を在留邦人の成年男子の根こそぎ動員で埋め合わせた弱体武力であった。そのため、関東軍は全線にわたって敗走し、満州国は一挙に崩壊。関東軍に置き去りにされた老幼婦女子の在留邦人は、ソ連軍の猛攻撃の中を逃げ惑い、略奪・暴行・強姦され殺傷されるという残虐行為の被害者となった。土地を奪われた中国人が、復讐のために日本人を襲うというケースも起きた。かくして在満邦人155万人のうち17万6千人が死亡。そのうちソ連との国境近くに居住していた開拓団員27万人のうち、7万8千5百人が亡くなっている。日本政府がひじょうに恐れたのは、ソ連が日本降伏後の戦後処理で、天皇制廃止を強く要求し、日本の領土の一部もソ連支配下に入る危険性があることであった。そうした最悪の事態を避けるためには、ソ連軍が日本本土に上陸しない間に、正式に連合軍に降伏する必要があったのである。
結論
結局、太平洋戦争における軍人・軍属・民間人全てを含む日本人戦没者の総数は310万人と推定されている。これら戦没者の実に18パーセントが無差別爆撃による犠牲者であった。一方、自国本土が敵に襲われることがなかったアメリカは、アジア太平洋全戦域で、東京大空襲の死亡者数とほぼ同数のやく10万人の死者(その大半が兵員)を出した。日本は15年という長い戦争の間に、その30倍以上の数の自国民の命を失った。しかし、同じ15年の間に、その日本は、推定2,100万人という数の死傷者の犠牲を中国に、その他にも数百万という数にのぼる死傷者の犠牲をアジアの様々な国民に強いた国であった。
なぜゆえに日本は、これほどまで多くの他国民のみならず自国民を戦争の犠牲者としたのであろうか。その最も根本的な原因は、明治維新以降、日本国家が国家原理としてきた天皇制軍国主義イデオロギーが、あらゆる人間が先天的に有しているはずの人類普遍的な「基本的人権」を最初から否定するものであったからというのが私の考えである。あらためて言うまでもなく、「基本的人権」尊重は民主主義にとって不可欠のものであるが、敗戦後の日本の政治改革派は、残念ながら下からの強烈な民衆の民主主義獲得運動として行われなかったため、いまも日本人には「基本的人権」に対する意識が薄弱である。そのことは、例えば、在日韓国・朝鮮人や女性に対する差別の実態を考えてみるだけでも明白である。戦争責任に対する意識の低さは、「基本的人権」に対する意識の低さと密接に関連しているのである。
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