- 戦争責任問題を考えるための予備知識 -
(2)日中全面戦争への道
前回の満州国成立の経緯に関する最後の部分で説明が少し足りなかったようなので、最初にその部分を補足しておきます。
今回の(2)の部分は、したがって、実際には満州国運営の実相から始まります。しかし、書き出してみたら、日中戦争の歴史的背景をいくら簡潔に説明するにしても、当初考えていたより少々長くなりそうで、読んでいただくにも1回ではたいへんだと思います。そこで、今回「日中全面戦争への道」と次回「日中全面戦争」の2回に分けることにしました。ご笑覧いただき、ご批評いただければ幸いです。
前回「(1)張作霖暗殺、満州事変から満州国成立へ」の補論
1931年9月18日の関東軍の陰謀による、奉天郊外の柳条湖の満鉄線路爆破とそれに続く満州各地への日本軍侵攻は、中国各地における抗日運動を激化させ、特に上海では、9月22日に上海抗日救国委員会が、10月19日には対日経済絶交実施委員会が立ち上げられ、日貨排斥という対日ボイコット運動が起きた。これによって、上海を拠点にする日本の企業や商社は大打撃を受けた。関東軍参謀・板垣征四郎大佐は、満州国建設という謀略から国際世論の注目を、とりわけ米英両国の注意をそらすために、上海でのこの不安定な情勢を利用することを考え、上海駐在公使館付陸軍武官補佐・田中隆吉少佐に暴力事件を画策することで協力を要請。田中は、1932年1月18日、市内を歩いていた日本山妙法寺の僧侶と信者5人を、買収した数十人の中国人に襲わせ、重軽傷を負わせ、その結果、一人が数日後に死亡。これに対し、真相を知らない日本人居留民も暴動を起こし、排日絶滅運動を日本軍に要請。上海総領事は上海市長に抗議し、海軍が戦艦と陸戦隊を上海に派遣したため、28日には中国軍と激しい市街戦が開始された。これが後に、「第1次上海事件」と呼ばれるようなった事件の真相である。
列強諸国、とりわけ対中国投資の8割ほどが上海に集中していた英国は、満州の場合とは異なって、日本の武力行動に強く反発。2月2日に、英米仏の三ヶ国駐日大使が日本政府に即時戦闘停止を要求した。3月下旬から国際連盟の勧告のもとに、日中両国と英米仏伊の4カ国による停戦会議が開始され、5月5日に停戦協定が成立。この戦闘策動で日本軍は、上海から撤退するまでに自軍に3,091名という死傷者を出した。これらの日本兵死傷者は、満州国建設のために列強諸国の注意を華南に釘付けにするという板垣の謀略の犠牲にされたわけである。
柳条湖満鉄爆破事件と満州国設置の調査のために国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書が、1932年10月に発表された。報告書は、日本の軍事行動を「自衛行為」とは認めず、満州国が日本の傀儡政権(名目上は独立国でありながら、実際には他国によって管理・統制・指揮されている政権)であると断定し、満州国が設置された中国東北部を国際連盟の管理下に置くことを提案した。この報告書が国際連盟で審議されている最中に、関東軍は、今度は満州と華北の間にある熱河省(「省」は中国の行政区分で最上位のもの)を占領する計画を立て、1933年2月に熱河省に侵攻するという暴挙を行った。この無謀な行動がさらに列強を怒らせ、米国大統領ルーズベルトは「満州国全面不承認」を発表した。2月4日、国際連盟はリットン報告書を採択し、満州国不承認を可決(報告書に対する賛成42、反対1<日本>、棄権1<シャム>)。日本代表の松岡洋右(元満鉄副総裁)は、その場で日本の国際連盟からの脱退を通告して退場。3月27日に、日本政府は、国際連盟脱退を正式に通告した。こうして日本は、ますます自国を孤立化させていった。
日中全面戦争への道
満州国運営の実相
上述したように、東三省(遼寧省、吉林省、黒龍省)地域、すなわち満州全域を一応占領した関東軍は、国際連盟でリットン調査団報告書が審議されている1933年2月17日に、満州国南部に隣接する熱河省に侵攻し、熱河省の満州国への編入をはかったわけである。この熱河省はアヘンを特産品とする地域で、関東軍にとってアヘンは財源として絶大な魅力を持っていた。実は、関東軍は満州国運営のための財源確保のために、これ以降、大量のアヘン密造・密売・密輸に手を染めていった。つまり、戦後、東京裁判のために検察側が明らかにしたように、関東軍は「占領地において麻薬を蔓延させ、侵略のための収益を増やし、日本の意思に従うように占領地の人々を堕落させる政策」を推進していったのである。さらに後年、関東軍はアヘンをイランからも輸入するようになり、三井物産や三菱商事がこの輸入業務に携わった。関東軍がアヘン密売であげた収益は膨大な額であり、中国人社会に与えた悪影響も深刻なものであった。
関東軍は、国民政府の中央軍による反撃にもかかわらず、熱河省を超えて華北省内にまで侵攻し、5月23日には北平(現在の北京)から30キロ近くにまで迫った。5月25日、中国側が日本軍に対して停戦を要求。5月末に塘沽(タンクー)で停戦交渉が行われた結果、日本軍側の提案による停戦協定が成立。この塘沽停戦協定によって、河北省北東部の万里長城の内側から中国軍が撤退し、この地域を非武装地帯とすることが決められた。結局、この停戦協定によって、日本軍は熱河省のみならず河北省の万里長城の以南の広大な部分を、「中立地帯」として潜在的に確保したことを意味していた。
満州国設立をきっかけに、「日満経済ブロック」構築(満州を日本の排他的な経済圏にする)というスローガンのもと、1930年代には満州に対する投資が飛躍的に拡大。満鉄を中心に、一産業一社という国策会社独占による事実上の植民地経営による第1期産業開発(1932〜36年)から、新興財閥であった日産を中心とする満州重工業設立のための満州産業開発5カ年計画の第2期(1937〜41年)を経て、第3期(1941〜45年)には5カ年計画を放棄して、満州を戦争のために対日物資・食糧供給の基地にするという、3段階を満州経済は歩むことになる。
第1〜2期での満州産業開発の重点は、対ソ連戦争の準備のための軍需産業の建設に置かれていた。その基礎として、1932〜36年までに3千キロに及ぶ満鉄新線路が建設された。同時に、鞍山の製鉄、撫順の石炭などの大規模増産をめざしたが、満州の資源不足が問題で、計画通りには進まなかった。したがって、後述する軍部の華北への勢力拡大は、華北地域の鉄・石炭・綿花などの資源を求めての侵攻という経済的に重要な意味を含んでいた。満州での産業開発で忘れてならないことは、製鉄所の日雇工や炭鉱での採炭工として雇われた多くの労働者が、安い賃金で搾取された中国人や朝鮮人であったことである。長時間労働を含む酷悪の労働条件からくる過労と栄養不良のために、死亡者が続出した。
ちなみに安倍晋三首相の祖父・岸信介は、1936年10月、満州国の行政機関、国務院の実業部総務司長として満州に渡っている。37年7月には産業部次長、39年3月には総務庁次長となり、事実上、満州国運営の実権を握った。その間に、「戦争準備ノ為満州国ニ於ケル産業ノ飛躍的発展ヲ要望ス」という関東軍参謀部の方針に沿って作られた上記の第2期・産業5カ年計画の立案と実行に、岸は深く関わった。すなわち、満州国の軍需用工業を発展させることで満州を日本帝国主義の重要な戦略基地にすることに、岸は決定的に重要な役割を果たしたのである。戦争終了後に岸がA級戦犯(「平和に対する罪」を犯した)容疑にかけられた理由の一つは、この産業5カ年計画の立案に関わることで「侵略戦争の準備」に貢献したことであった。(岸はまた、満州での自分の地位を利用して蓄えた巨額の政治資金を東条英機に提供したとも言われている。東条とのそのような緊密な関係から、1941年10月には東条内閣の商工大臣のポストに就き、43年11月に軍需省が新たに設置され東条が軍需大臣を兼務すると、岸がその次官兼国務大臣となり、産業経済の全ての分野で総力戦体制を確立強化させていく様々な政策の立案と実施でも手腕を発揮した。)
1941年10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣した岸信介
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満州国設立との関係でもう一つ重大な問題は、1933年から始められた日本人の満州移住である。満州移住のために選ばれた土地は、移住農民を対ソ防備のためや満州工業地帯の防衛に使うという軍事的目的から、ソ満国境と満州中核都市の外縁地域が多かった。すなわち、日本国内の農村窮乏を緩和すると同時に、関東軍の戦力補強にも役立たせるための「武装移民団」が多かった。しかし、そのために確保された農地は、満鉄系列会社である東亜勧業会社や満州国官憲が関東軍の指揮のもとに中国人からただ同然の安い値段で取り上げた、実質的には強制的収容土地であった。このことが満州での抗日武装闘争、とりわけ中国共産党軍による武装闘争を強化させる大きな原因ともなった。
前にも述べたように、日本軍はこうした中国側の武装組織を「匪賊」とみなして制圧しようとしたが、全く効果のない、終わりの見えない対ゲリラ戦にあけくれるという事態が続いた。満州国における「匪賊」の出現回数は、1933年度は13,072回、34年度は13,395回、35年度39,150回、36年度36,517回。陸軍省の統計数字によると、「満州事変」から1936年7月までの日本軍将兵の戦死・戦病死者数はほぼ4千名にのぼり、中国側の戦死者数は1933〜36年度の間に4万1千名を超えている。
日本国内のファシズム化
一方、日本国内では、満州事変をきっかけに民間右翼組織と急進青年将校グループが結びついて、満州での関東軍の動きに合わせるような形で、暴力的手段で「国家改造」を企てようという、急進ファシズム運動が急激に高まった。この時期、1930年に始まった「昭和恐慌」で、全国で失業者が増大し、労働争議が頻発、農村も極端に窮乏化。彼らは、こうした危機的な民衆の生活状況に対して、財閥企業は自企業の利益を追求するだけで労働者には無慈悲であり、二大政党である政友会と民政党は両党とも無策であると激しく非難。汚職腐敗した政財界要人を暗殺することで、「日本民族を覚醒する」軍事革命が必要であると考えたのである。彼らに大きな影響を与えた民間右翼の代表的な思想家としては、北一輝、西田税、大川周明、頭山満、井上日召、権藤成卿、橘孝三郎などがいた。こうした背景から、2名の海軍青年将校に率いられた11名の陸軍士官候補生グループと、30名ほどの主として「血盟団」と呼ばれる右翼組織メンバーが、1932年5月15日に起こした首相暗殺事件が「5・15事件」であった。この事件では、孫文を含む中国要人とも親しく、しかも軍縮支持者であった首相・犬養毅が暗殺されたが、他にはほとんど死傷者を出さず、襲撃された複数の場所も小さな被害で終わり、「クーデター」と呼ぶような大規模な軍事行動には至らなかった。
「話せばわかる」と言った犬養首相に、青年将校は「問答無用」と射殺
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しかし、この事件を契機に軍部が政党内閣排撃の強い要求を出したため、軍人の中でも穏健派と見られていた、海軍大将で元朝鮮総督の斎藤実が元老・西園寺公望(政界の超憲法的重臣で、天皇に内閣首班の推薦を行い、国家の内外の重要政務についても政府あるいは天皇に意見を述べた人物で、西園寺は最後の「元老」)によって首相に推薦された。天皇裕仁もこれを了承し、斎藤が民政•政友両党の協力を要請。かくして、軍部・政党・官僚の均衡の上に挙国一致内閣として斎藤内閣が成立したが、これによって、選挙による多数派政党が内閣を組閣するという、1924年以来8年間続いていた政党政治が崩壊。斎藤内閣の下で、1932年9月15日に、日本政府による傀儡国である満州国の公式な設立承認を意味する「日満議定書調印」が行われた。斎藤内閣以降は、軍首脳部の人間が首相の座につくか、あるいは軍部の支持なしには首相になれないという状況が、1945年8月の15年戦争集結まで続くことになる。
斎藤内閣当時の軍内部、とくに陸軍内部では、陸軍大臣・荒木貞夫大将や参謀次長・真崎甚三郎中将に強く擁護され、上記の右翼思想家たちの影響を受けた、青年将校を中心とする「皇道派」と呼ばれるグループと、主として陸軍省や参謀本部の中堅幕僚将校に代表される「統制派」グループ(陸軍省軍務局長・永田鉄山、軍事調査部長・東条英機、作戦課長・武藤章など)の間での派閥抗争があった。皇道派は、腐敗した政財界を暴力的手段で排除し、天皇親政(天皇自身が政治を行うこと、あるいはそうした政治形態)の下で、軍部独裁で国家改造にとりくむという、極端に精神主義的な天皇中心主義を唱えたが、具体的な政策案に欠けていた。同時に彼らは、激しい反ソ連・反共産主義観念を抱き、対ソ主敵論を唱え、ソ連に満州が攻撃される前に予防戦争をできるだけ早く遂行すべきであるとも主張。一方、統制派は、軍部独裁による国家改造をめざすという点では皇道派と同じであったが、軍部を中核に財界・官僚とも提携し、資源確保、物資増産、軍備拡張を組織的、統制的に行うことで日本全体を総力戦体制にまでもっていこうという考えであった。したがって、対ソ戦の準備のためにも、満州国建設の完成と中国を屈服させることが先決問題であるという主張であった。すでに述べた「5・15事件」や後述する「2・26事件」を起こしたのは、皇道派の青年将校たちであったが、統制派はクーデター本位の国家改造には反対であった。この時期、岸信介のように、右翼寄りの、統制派に組する「新官僚」と呼ばれる官僚もまた政策作成面で影響力を急速に強めつつあった。
皇道派、統制派の両方のみならず、日本軍全体と日本政府にとって、1930年代初期は、第1次・2次5カ年計画でますます経済力と軍事力を拡大・強化していたソ連が脅威であり、軍事力のみならず、共産主義思想の日本社会への浸透もまた天皇制国家を脅かす危険な社会要素とみなされるようになった。そのため、反体制運動の抑圧と思想統制が急速に強化されるようになり、左翼、とりわけ共産党員がそのターゲットとされた。1928年に改悪された治安維持法による左翼の検挙数は、1933年には14,622人と戦前最高の記録となった。1930年2月〜31年6月に行われた大規模弾圧では多くの共産党員が検挙され、共産党は壊滅状態となった。検挙された党員の中には、平野義太郎、山田盛太郎、三木清といった秀れた学者や、中野重治、林房雄、小林多喜二などの作家が含まれていた。1932年に、警察の取り調べで拷問を受け殺害された党員は114名にのぼったが、その中には委員長の野呂栄太郎や『蟹工船』の作者として有名な小林多喜二が含まれていた。
治安維持法適用によるこうした思想弾圧の対象は、共産主義者にとどまらず、いわゆる進歩主義的な学問思想、とりわけ自由主義的な法学思想を唱える学者にまで広げられた。1933年12月には、貴族院と衆議院の両方で議員が、京都大学教授・滝川幸辰の著書が無政府主義であると非難。これを受けて、文部大臣・鳩山一郎(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)が、滝川の著書が内乱を扇動し姦通(現代用語では「不倫」)を奨励する危険思想であるとまで主張。その結果、翌34年4月には、内務省が滝川の『刑法読本』、『刑法講義』を発禁処分にした。さらに5月には斎藤内閣が、京都大学の反対にもかかわらず、滝川を休職処分にさせた。
この滝川事件の真最中の1933年4月、政府内に、危険思想を取り締まり、国民教育で天皇崇拝に基づく日本精神の普及を徹底させ、社会改善を図るための「思想対策協議会」が設置された。同じ目的で、34年6月には文部省内に「思想局」が設置された。ちなみに、「危険思想」とは、国体(天皇制に基づく政治体制)変革や私有財産制度否定を唱えるマルクス主義とそれに類似した思想のことを指していた。弾圧のための具体的手段としては、特高(政治犯、思想犯取締り専門の「特別高等警察」の略。容疑者尋問中に様々な残虐な拷問を行った)の強化充実、保護観察制度、予防拘禁制度、出版物取り締まりなどが利用された。1935年2月には、天皇機関説(国家統治権は法人である国家に属し、天皇は統治総攬の一機関としてのみ統治権を行使するという学説)を唱え、治安維持法改悪に反対し、軍部をしばしば批判していた東大名誉教授で貴族院議員の美濃部達吉が、衆議院本会議で攻撃目標とされた。その数日後に、美濃部は不敬罪(天皇や皇族に対し、その名誉や尊厳を害する不敬行為の実行によって成立する犯罪)でも告発された。同年4月9日、政府は、美濃部の著書『逐条憲法精義』、『憲法撮要』などを発禁処分にした。9月に、不敬罪は起訴猶予とされたが、彼は貴族院議員を辞任させられた。
このようにして、1930年代には、軍部が政治や教育にますます介入するようになり、軍部ならびに民間右翼団体の動きを恐れる政治家たちは軍部の意向に沿うような発言・行動ばかりをとるようになったことで、もともと民主主義的とはいえない日本の議会主義・政党政治は機能しなくなり、短期間のうちにファシズム化していった。
こうした状況の中で、陸軍内部の統制派との派閥争いで劣勢に立たされていた皇道派グループが、一挙に退勢挽回をはかり、政党政治を完全に否定したうえで、天皇親政に基づく軍部独裁政治を実現しようと、1936年2月26日の早朝に決起したのが、日本史上最大のクーデター「2・26事件」であった。皇道派青年将校たちが「昭和維新」と呼んだこのクーデターでは、青年将校たちに率いられた東京の歩兵連隊の一部である1,500名ほどの兵たちが、岡田啓介(退役海軍大将)内閣の首相官邸、閣僚重臣私邸などを襲撃。斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重症を負わせた。岡田首相は官邸内の女中部屋の押入れに隠れたが、秘書の松尾伝蔵大佐が岡田と人違いされて殺害された(岡田は翌日脱出)。そのあと、クーデター部隊は、首相官邸、陸相官邸、陸軍省、国会議事堂、警視庁を占拠して永田町一帯を制圧。そのうえ、朝日新聞社を襲撃して新聞刊行を停止させ、その他の新聞社にも「蹶起趣意書」をばらまいた。しかし、クーデターを起こした青年将校たちの革命計画は全く具体性を欠いており、クーデターが成功した暁には、皇道派の真崎甚三郎を首相に、荒木貞夫を内大臣に、また彼らの思想的リーダーであった北一輝や西田税も閣僚にするという組閣構想以外には、あとは裕仁の「大御心(天皇の意思)」に従うというだけの極めて漠然としたものであった。
裕仁は自分が信頼する重臣を殺傷されたことに激怒。その天皇に、陸軍内部で皇道派と対立する統制派と、岡田、斎藤、鈴木の3人の海軍大将を襲撃された海軍が一致協力する形で、戒厳司令部を設置して反乱部隊の鎮圧のために動いた。2日後の28日早朝には、反乱部隊撤退を命じる奉勅命令(天皇が裁可した命令)が出され、29日午前8時から、戒厳司令部が反乱軍鎮圧のための攻撃を開始。同時に、反乱軍兵士に対して、ラジオ、チラシ、アドバルーン、飛行機などを使って、投降を呼びかけた。その結果、29日午後2時までには下士官と兵士のほとんどが、呼びかけに応じて帰順。反乱を主導した青年将校たち、ならびに北一輝、西田税の両人も憲兵隊に逮捕された。1936年7月に行われた軍法会議(軍人・軍属の犯罪を裁く特別刑事裁判、すなわち軍事裁判)で、17人の青年将校と北一輝、西田税が死刑となった。2・26クーデターに参加した兵隊たち |
本来は、このクーデター事件は、岡田啓介が後年述べたように、「陸軍の政治関与を押さえる絶好のチャンス」であったのであるが、裕仁もそのような動きを一切とらなかったし、政治家たちも「軍に逆らうとまた血を見るという恐怖の方が強くなって、ますます思い通りのことをされるようになってしまった。」皇道派を排除した統制派は軍部の主導権を掌握し、総辞職した岡田内閣に変わって、裕仁から組閣の大命(天皇の命令)を受けた広田弘毅に、閣僚候補の幾人かを「自由主義的」だとして排除を要求するなど、いくつかの要求をつきつけた。しかし、その後の日本の歩みを決定づける上で最も決定的であったのは、1923年に一旦廃止された軍部大臣現役武官制(陸海軍省の両大臣は現役武官に限るという制度)を復活させたことである。この制度は、軍部が大臣を決定しなければ組閣ができないということを意味しており、大臣を出さないという方法で軍部の政治的発言権を著しく強めた。
かくして、これ以降日本は、統制派が支配する陸軍を中核とする国家改造=総力戦体制確立に向けて突き進んでいくことになる。軍の要求をほとんど丸呑みにする広田内閣の下で、36年4月には支那駐屯軍兵力が3.26倍に増強され、8月には陸海軍の戦争構想である「ソ連の脅威」を除去し、英米との戦争に備えて満州・中国から東南アジアにまで「経済発展を策す」という方針を発表。36年度予算編成では、国家予算の47.2パーセントが軍事費を占めるという大軍拡予算となり、日本の経済は「準戦時経済体制」となった(38年度には76.8%、44年には85.3%という驚異的な割合にまで急
増)。さらに、37年11月には、日独伊三国防共協定が結ばれ、ますます英米仏などの列強諸国と対立するようになった。
この時期の日本の歴史は、軍に対するシビリアン・コントロールが効かなくなると、国家社会全体がいかに急速に軍国化され、戦争に向けて突き進んでいくのを止められなくなるかを明確に我々に教えている。最近数年の安倍政権の下での自衛隊の様々な動きを見ていると、シビリアン・コントロールがますます効かなくなってきていることに、不安を感ぜずにはいられない。
- 日中全面戦争への道 終わり -
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