アメリカ・メディアによる報道と演説内容
4月29日、安倍晋三が米国連邦議会上下両院合同会議で行った演説内容については、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ウォール・ストリート・ジャーナルなど米国の主要な新聞雑誌が、こぞって、戦争責任に関する言及が少なく、とくに「慰安婦」問題での謝罪がなかったことを批判的に報道している。ワシントン・ポストはとりわけ批判的で、安倍の英語スピーチが「のろくて(日本語)なまりの強い英語」であったと、演説内容と関係のない余計なコメントまでしている。「どの国の人間もみな英語を上手に話すべきだ」というアメリカ英語文化中心主義のおごった意識がここにはもろに表れていて、この点だけは読んでいて気持ちが悪い。自分たちの英語が決して完璧でないにもかかわらず…。
演説原稿は、おそらく数人のスピーチライターが、安倍の意向に基づいて、かなりの時間をかけて苦心して草稿を書き、最終的にはネイティブ・スピーカーの助言も取り入れながら準備されたものであろう。米国政府と米国議員の大半を喜ばせる一方で、「戦争責任に触れるのは極力最小限に抑え、謝罪の言葉は絶対に避ける」という意図がありありと窺える内容の演説であった。
しかも朝日新聞でもすでに指摘されているようであるが(私は朝日新聞のネット購読をしていないので詳細は知らない)、英文とその翻訳文である邦文には肝心な点でかなりの差異がある。肝心な部分を、意図的且つ強引にかなりの意訳をしていると思われる。例えば、「deep remorse」に「痛切な反省」という訳語を当てているが、これは厳密には正しくない。「反省」とは言うまでもなく、自分の過去の行動を厳しく検討し、その上に立って「自分は間違っていた」とその過失と責任を認めることであり、英語では「self-examine」という言葉にあたる。それに対して「remorse」とは、「申し訳なかった」という感情を表現するだけの言葉で、その語意には「自己検証」という意味は含まれていない。微妙な違いであるが、この場合には、その違いこそ重要である。ただし、安倍の祖父である岸信介など、戦後初期の首相をはじめ多くの歴代首相が海外での演説で「謝罪」にあたる言葉だと明白にごまかして使っていた「regret」(=遺憾に思う)から比べれば、確かに進歩したと言えなくもない。しかし、どちらの言葉を使ったにせよ、心から「反省」し「謝罪」するという真意が込められていないことは明らかである。私がさらに重要な翻訳上のゴマカシと思うのは、戦争責任問題につて安倍が述べた「
これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません」という個所である。英語表現は「I will
uphold the views expressed by the previous prime ministers in this regard」となっているが、正確な訳は「この件に関しては、これまで歴代首相が表明してきた意見を維持するつもりである」となる。つまり、これまで安倍が「河野談話」や「村山談話」についてゴマカシ発言をしてきたのと全く同様に、「継承するつもり」という表現であり、状況によっては変更もあるという可能性を含めた表現である。したがって、この場合は、日本語訳はあきらかにゴマカシなのである。とにかく、安倍の言うことに嘘やゴマカシが多いという点ではこれまでの長い前歴があるので、最初から相当注意して読まないと騙される。
さらに、日本のメディアが全く報道しなかったが、ワシントン・ポストが指摘した重要な問題が一つある。それは、安倍が米国連邦議会で演説を行った4月29日は、アジア太平洋戦争の最大の戦争責任者である裕仁の誕生日(「昭和の日」)であったということ。実は、このことにこだわって、この日の安倍の連邦議会での演説に元捕虜であったアメリカ人たちが猛烈に反対したという事実を、ワシントン・ポストは報道している。日本軍捕虜収容所でさまざまな虐待を受けたこれらの元捕虜たちにとって、忘れられない屈辱的な出来事の一つは、この日には、収容所で日本の国旗に向かって深々と頭を下げることを強制されたということである。よりによって、こんな屈辱的な日に、A級戦犯容疑者となった岸信介の孫である安倍に、連邦議会で演説させるなどというのは許せない、というのが彼らの強い思いであるというわけである。このことをどう評価するかはここでは議論しないとしても、その事実を日本のメディアが全く報道していないことは(ただし、私は日本のテレビは観ていないので私の思い違いという可能性も否定はできないが)、私がすでに「敗戦70周年を迎えるにあたって:戦争責任の本質問題を考える」で指摘しておいたように、日本では裕仁の戦争責任に関わる報道が完全にタブー視されていることの表れである。
これまたあらためて説明するまでもないことであるが、演説前に安倍がアーリントン国立墓地の無名戦士の墓に献花したことや、ホロコースト記念博物館と第2次大戦記念碑を訪れたのは、そのことで自分が戦争責任について十分配慮しているのだという印象を与えたいという安倍の小賢しい考えに基づいている行動であった。このことをアメリカのメディアも十分承知していたことが、記事の内容からうかがえる。今年1月に、イスラエルの国立ホロコースト記念館「ヤド・バシェム」を訪れたときと同様、ワシントンのホロコースト記念博物館でも、安倍は、戦時中にユダヤ難民を助けた杉原千畝領事の美談を再び強調して自己満足している。すでにいろいろな機会に私は繰り返し述べているが、安倍が演説で述べたように、真心から「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない」と考えているのなら、韓国や中国、シンガポールなどアジア諸国の戦争・植民地被害者追悼関連の博物館を訪れるべきであろう。
アドルノの「過去からの解放」と「怪しげな人物」分析の安倍批判への応用
安倍のイスラエル訪問での言動に関しては、私は「『忘却の穴』と安倍晋三:安倍の中東訪問と人質事件に関する私見」という拙文を、ハンナ・アーレントの論考を利用しながら批評しておいた。 ( http://peacephilosophy.blogspot.com.au/2015/01/blog-post_26.html 参照)
ちなみに、今年2月、私は自分の「さよなら講演」で、「過去の克服」についてテオドール・アドルノの考察について少々触れておいた。しかし、講演の時間的制限から、アドルノが著書『自律への教育』で展開した論考内容を詳しく紹介することができなかったので、今回は、この機会を利用して、とりわけその第1章「過去の総括とは何を意味するのか」でアドルノが述べた言葉を、安倍晋三という人間の言動に照らしながら、もう少し詳しく紹介してみたい。
アドルノは、まず、加害者が「過去にけりをつける」とはどういうことなのかという議論からこの章を始める。加害者は「過去にけりをつけて、できることなら過去そのものを記憶から消し去りたいと思」う。したがって、しばしば「一切を水に流しましょう」という、本来は被害者=「不当な仕打ちを被った人」が言うなら似つかわしい言動を、「不正行為を犯した側の支持者たちが」行うのだと指摘する。安倍もまた、最近はやたらに「過去にいつまでもこだわらずに、未来指向でいこうではないか」と主張し、したがって「安倍談話」についても、「先の大戦に対する反省の上に立ち、アジアの発展に貢献してきた。その誇りを胸にアジアや世界の平和にさらに貢献するメッセージを国内外に出したい。次の80年、90 年、100年に向けてどのような国を目指すのか、世界に発信できる英知を結集して考えたい」と述べている。しかし、実際には「先の大戦に対する反省」とは、真意のないおざなりの言葉だけで、結局そのメッセージの本意は「一切を水に流しましょう」、「過去は忘れて未来について語りましょう」というもの。かくして、本来は被害者側から発せられるべき意見を先取りして述べることで、自分の責任をうやむやにしてしまうのである。
「過去から解放されたいという望みは、もっともなこと」であるが、問題は、その「逃れたいと思っている過去がまだ生き生きと命脈を保っている以上、その望みは不当で」あるとアドルノは述べる。そして彼は、「民主主義に抗してファシズム的傾向が生きながらえることより、民主主義の内部にナチズムが生きながらえることの方が、潜在的にはより脅威だ」と鋭く指摘する。残念ながら、日本の場合、「戦後民主主義」といわれる政治社会体制の内部深くに「天皇制に基づく軍国主義的全体主義」が脈々と生きながらえてきた。その脅威がいま、安倍政権という怪物めいた姿となって我々にまざまざと襲いかかってきているのが現状である。
アドルノは1950年代末のドイツの状況を、「民主主義組織へのナチズムの潜入は客観的現実となっています。怪しげな人物たちが権力のある地位への返り咲きを果たしているのも、情勢がそうした人物たちに有利に働いているからこそなのです」と描写した。その後ドイツ、はこうした危険な社会状況をみごとに克服したが、日本ではこの状態が現在まで途切れなく続いてきたのである。その「怪しげな人物」のもっとも典型的な日本での人物の一人が、A級戦犯容疑者として逮捕されながらも、1957年、すなわちアドルノがこの警告を発した2年前に、すでに首相の座にまで登りつめた岸信介であることを、我々はもう一度はっきりと想起すべきである。
その「怪しげな人物」である祖父のことを、安倍は今回の演説の冒頭で自慢げに紹介している。1957年6月に米国連邦議会での演説で祖父が「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」と主張した、と安倍は誇らしげに述べた。「民主主義の原則と理想を確信して」いたはずの岸が、1960年には国民からの猛烈な反対運動を抑圧し国会審議を拒否して、日米安保新条約を強行採決するという甚だしく非民主主義的な手段をとった。その上、岸は安保条約改定をめぐるアメリカ政府との交渉段階で、核兵器を搭載する米艦船が日本領海を通過・寄港し、核兵器搭載の米軍機が日本領空を飛来して日本国内の米軍基地に着陸することを事前協議の対象としないという秘密了解を受け入れることで、国民の知る権利を抹殺したのである。そして今度は、その孫である安倍が、憲法を無視して違法にも集団的自衛権行使の容認を謀り、沖縄県民の強い反対を完全に無視して辺野古米軍基地新設をがむしゃらにおしすすめるなど、「民主主義の原則と理念」など全く関知しないという態度をとっている。そんな人間が、他国の国会議事堂で堂々と「民主主義の原則と理念」について演説の冒頭で述べるなどということは、よほどの破廉恥な人間でなければできない、驚くべきことである。(この点で、岸信介の実弟、すなわち安倍の大叔父にあたる佐藤栄作も破廉恥な大嘘付きの人物であったが、その詳細についてはここでは議論しない。)
「記憶」と「民主主義」の相互関連性
たいへん興味深いことに、アドルノは「記憶」ということを、アーレントと極めて似た表現で解説している。アーレントは、ホロコーストの真に恐ろしい本質は、その犠牲者が殺害されるということだけではなく、その人が生きていたという存在そのものの記録とその人に関する「記憶」自体が「忘却の穴」に落とされて抹消されてしまうことであると述べた。「記憶」をめぐるアーレントのこの鋭い洞察を日本の戦争犯罪に当てはめ、私は、今も存命中の日本軍性奴隷、いわゆる「元慰安婦」の女性たちに対して、「性奴隷」など存在しなかったと「嘘つき」呼ばわりすることは、彼女たちに関する「記憶」を「忘却の穴」に落とし込み、「あたかもそんなものは嘗て存在しなかったかのように地表から抹殺してしまう」ことなのであると、拙論「『忘却の穴』と安倍晋三:安倍の中東訪問と人質事件に関する私見」の中で述べておいた。アドルノも、被害者を「記憶」から抹消してしまうことの本質を、以下のように解説している。「無力な私たちが虐殺された人々に捧げることのできる唯一のもの、つまり記憶ですら、死者から騙し取ってやろうというわけです。記憶こそ私たちが死者に捧げうる唯一のもの……。」したがって、日本軍がアジア太平洋戦争中に犯した様々な残虐行為を、「そんなものはなかったのだ」と否定することは、被害者がいなかったことにすることであり、すなわち、その人たちの「記憶を騙し取る」ことなのである。それゆえ、「南京虐殺などでっちあげ」とうそぶき、元慰安婦を「嘘つき」呼ばわりする安倍と彼の仲間たちは、「記憶」を「忘却の穴」に落とし込むその「穴の墓掘り人」であると同時に、「記憶の盗賊」なのである。アドルノは別の著書で「わたしたちが連帯すべき相手は人類の苦悩である」と述べているが、苦悩と連帯するためには、苦悩を受けた人の「痛み」の「記憶」を、私たち自身が自分の「記憶」として内面化することが必要である。未来への希望は、そのような「苦悩」の「記憶の共有」からこそ生まれるものであって、自分たちが犯した犯罪行為の被害者の「記憶の抹殺」、すなわち「忘却」からは決して生まれない。「忘却というものは、いともたやすく忘却された出来事の正当化と手を結びます」とアドルノが述べているように、まさに安倍とその仲間たちがやっていることは、日本の侵略戦争の「正当化」なのである。
忘却=記憶の排除について、アドルノは、さらに次のようにも述べる。「記憶の排除とは、無意識のプロセスが優勢であるために意識が弱体化して起きているものではなく、活発すぎるほどの意識が行っていることなのです。とうてい過ぎ去ったとはいえないことを忘れ去るという行為の内には、激情の響きが洩れています。他人を説得して周知の事実を忘れさせるためには、まず自分自身を説得して忘れさせなければならないではないか、という激情が。」(強調:田中)つまり安倍もまた、国民を説得して、祖父がA級戦犯容疑者であったことを含む周知の様々な日本の戦争犯罪の事実を忘れさせるために、自分自身を激しい感情で説得して忘れさせようとしているのである。「慰安婦」問題をめぐる朝日新聞への激しい攻撃は、まさにそうした安倍の激情の表れの一例なのである。
こうした状況に対して毅然として立ち向かうためには、我々市民の側の抵抗運動こそが「民主主義の原則と理念」に深く且つ強固に根付いていなければならない。1950年代末当時のドイツに「民主主義」がしっかりと定着していないこと、しかしながら同時に反民主主義の運動も大きな勢力にはならないことについて、アドルノは、次のように述べる。
「(第2次世界大戦の)勝者たちによって民主主義が導入されたことが、民衆と民主主義の関係に何の影響も及ぼしていないとは考えにくいでしょう。このことに直接言及されることはめったにありませんが、それは差し当たり民主主義のもとで事がたいへんうまく運んでいるからであり、政治的同盟によって制度化された西側諸国、とりわけアメリカとの利益共同体に背くことにもなるからです。しかしながら(非ナチ化のための)再教育に対する恨みはありありと現れています。…… かといって民主主義は、人々がそれを本気で自分たち自身の問題として受け止め、自分たち自身が政治的プロセスの主体であると意識するほど市民の中に定着したわけでもありません。民主主義は数ある体制の中の一つだと思われており、見本カードを見て、共産主義、民主主義、ファシズム、君主制の内から選んでいるようなもので、民衆自身がそれと一体になっており、民衆の自律の現れだとは思われておりません。」
脆弱な民主主義体制という1950年代末のドイツの状況は、その後の地道で強固な「過去の克服」運動を通して「政治社会体制の克服」もまた推進されたことによって、現在では大きく変化していると言える。ところが、日本の場合は、いまだに「民主主義は、人々がそれを本気で自分たち自身の問題として受け止め、自分たち自身が政治的プロセスの主体であると意識するほど市民の中に定着」など全くしていない状態である。選挙における投票率の驚くべき低さも、そうした意識の低さをもろに反映していると言えよう。そして相変わらず「(非天皇制全体主義化のための)再教育に対する恨み」、つまり安倍に代表される「教育も憲法も占領軍のおしつけ」という右翼勢力の反感は、教科書問題や憲法改定問題に、今もありありと現れているのがこの国の現状である。
集団同調主義と集団的ナルシズム(自己陶酔)
したがって、表層的には民主主義体制である日本社会のその根本性格は、拙論「敗戦70周年を迎えるにあたって – 戦争責任の本質問題を考える -」の最終部分でも議論しておいたように、「権力への奴隷根性」を全国民的レベルで常に再生産し続けている「集団同調主義」である。1950年代のドイツにおいても、ナチス体制からの残遺として、権力への自発的服従と集団同調主義がかなり色濃く残っていたようで、アドルノはこの問題についてかなりのスペースを割いて議論している。権力に容易に服従してしまう性格について、アドルノは次のように解説している。
「権威に縛られた性格を決定しているのは、….. いくつかの性格的特徴です。すなわち、因習主義、大勢順応主義、自己省察の欠落、そして結局は経験する能力の欠落といった特徴です。権威に縛られた性格は、その特殊な内容がどうであれ、ひたすら現実の権力と自己を同一化させていきます。そのような性格が宿るのは、基本的には脆弱な自我にすぎず、それゆえこのような性格は、代補物として、大きな集団との同一化と、この集団による援護とを必要とするのです。」(強調:田中)
権力に自ら服従する人間(例えば御用学者の北岡伸一やNHK会長の籾井勝人)を批判する描写として、しばしば「権力に媚びる」という表現を我々は使う。しかし、この表現は正確ではない。「媚びる」のではなく、アドルノが述べているように、彼らは「権力と自己を同一化させる」のである。安倍の権力と自己を同一化することで、あたかも自分が権力を握ったかのような幻想を持ち、それゆえ、安倍には絶対に服従する一方で、目下の者には自分に絶対服従を要求するのである。同時に、そうした人間には確固たる個人の信念に基づく「自律」が欠落しているため、権力集団に密着同調し、その集団からの援護がないと生きていけない。こうした状態が日本社会を隅々まで覆っていたのが、日本では戦時中の天皇制=軍国主義的全体主義の時代であり、ドイツではナチス政権時代だったのである。ところが、日本では、この集団同調主義(竹内芳郎が「天皇教」と呼ぶもの)がいまだに脈々と息づいているのである。
アドルノは1950年代末当時のドイツのナチス体制の残遺についてさらに議論を展開し、次のように述べる。
「主観的側面に関して言えば、ナチズムは、人間の心理の内で集団的なナルシズム(自己陶酔)を高じさせました。端的に言えば、国民的な自惚れが途方もないほど増長したわけです。…….このような集団的ナルシズムは、ヒトラー政権の瓦解によって完膚なきまでに傷つけられました。とはいえ、そのようなナルシズムの損傷は、単なる事実の領域で起きたにすぎず、個々人がその損傷を自覚し、この自覚によって損傷を克服することはなかったのです。…….つまり、あの同一化と集団的なナルシズムは、無意識の内にくすぶりながら、またそれゆえにいよいよ頑強になって、粉砕されなかったところか、なおも存続しているという帰結です。……..傷ついた集団的ナルシズムが抱く期待、すなわち修復されるのを待ち構え、まずは意識の内で過去をナルシズム的な望みと合致させ、そのうえなろうことなら現実さえも、ナルシズムの傷が生じなかったことにしてもらえるよう作り変えてしまえたら、という期待が結びつけられるでしょう。」(強調:田中)
周知のように、そのような危険な集団的ナルシズムを、ドイツはその後数十年をかけて地道に克服する努力、すなわち「過去の克服」を全国民的レベルで推進してきたわけである。ところが、我が国の場合は、そのような「過去の克服」に完全に失敗したため、いまだに、危険な集団的ナルシズムに囚われている多くの人間が政治を動かしている。その最も典型的な人物が安倍晋三であり、彼は、アジア太平洋戦争の「歴史事実」を徹底的に修正して「ナルシズム的な望みと合致させ」ることにやっきになっており、「現実さえも、ナルシズムの傷が生じなかったことにして…….作り変えてしま」おうと、嘘と騙しを駆使して様々な政策を打ち出し、憲法までも自分のナルシズムに合致するように変更するつもりなのである。「美しい日本、強い日本を取り戻す」という安倍のプロパガンダは、まさに「現実を自己のナルシズムに合わせて作り変え」たいという彼の強烈で身勝手な願望を表現しているものに他ならないのである。
情けないことに、現在の日本の状況は、アドルノが今から56年も前の1959年にドイツ国民に向かって警告したような事態に急速に陥りつつあり、権力に同化する人間がますます増えることで、「全体主義に向かう潜在的可能性を生み出している」のである。アドルノは、その危険性について次のように続ける。
「その可能性は、順応を強いられるからこそ生み出され、再生産される不満や怒りによって強められます。……究極的には、民主主義の概念が本来約束しているありうる幸福が成就しないがゆえに、人々は民主主義を内心憎んでいないまでも、民主主義に無関心になっています。……人々は、自律を目標に生きることなどできないのではないかと恐れ、自律の義務から逃れて、集団的自我という坩堝に身を投じたいと願うのです。」
民主主義が機能せず、市民に利益をもたらさないため、民主主義に無関心になるという悪循環を生み出している。その悪循環の結果として、市民は「自律」をあきらめ、ますます権力に同調していかざるをえない。まさにこれが現在の日本の状況であり、このような権力集団同調主義の状況こそ、安倍自身と安倍を支持する右翼勢力にとってまことに好都合なのである。
結論:「自律的な主体」の確立と「過去の克服」
こうした状況を打破するためには、言うまでもなく、民主主義がうまく機能するような状況に市民の側が自分たちで社会を意識的に変革していく必要がある。ところが、アドルノが述べるように、「民主主義の理念」に対して主体的に反応するためには、その理念を訴えられる側が主体性をもった人間、すなわち、アドルノの言う「自律的な主体」でなければ反応することは不可能である。逆説的に言えば、自分を放棄し、主体性を抹殺して権力集団に同調している人間に、「民主主義の理念」をいくら訴えかけても反応は得られない。
では、できるだけ多くの市民を、「自律的な主体」、すなわち、権力に服従せずに物事を批判的に判断できる人間にするためにはどうしたらよいのか。アドルノは、その答えは、啓蒙としての「過去の克服」であると言う。なぜなら、「過去の克服」こそが、「本質的に議論の矛先を主体へと向けさせ、自己意識を強化し、したがって自己をも強化するからである」と彼は主張する。アドルノの述べるこの「自律」と「過去の克服」との関連を、私なりにもう少し詳しく解説すると以下のようになる。
「自律」とは、すなわち、今現在自分がおかれている社会状況を正しく分析する力を持ち、その分析力に基づいて自分で思考し判断し、その判断に基づいて自分の行動を律することである。今現在自分がおかれている社会状況を正しく分析する力を持つためには、いかなる歴史から現在が成り立っているのか、どのような社会的背景から自分がおかれている現在の状況が作られているのかを明確に知る必要がある。つまり、過去から深く学んだ重厚な歴史観を持たなければ、現在の状況を明晰に分析する力をもつことはできない。現在の問題に対する深い分析力を持たなければ、自分のあるべき未来像を描く展望力の点でも、極めて貧困にならざるをえない。
畢竟、「自律的な主体」としての自分を確立するためには、自分たちの過去の歴史を正しく詳しく知り、過去に犯した過ちについてはその原因と責任を明確にし、そこから学ぶこと、すなわち「過去の克服」が絶対に必要なのである。したがって、日本の現在の原発問題や沖縄米軍基地問題、憲法改定問題などへの対処の仕方は、自分たちの歴史観、歴史教育のあり方と根源的には深くつながっていることを、我々は、しっかりと熟考してみるべきなのである。すでに述べたように、民主主義を機能させるには、このような「自律的な主体」としての人々が構築する市民社会が基盤としてなければならないのである。それゆえ、民主主義形成にとっても、「過去の克服」は不可欠なのである。「過去の克服」ができない安倍が、民主主義的な政治活動をできない理由は、まさにここにある。
アドルノは、『自律への教育』の第5章「アウシュヴィッツ以後の教育」で「自律」を以下のように簡潔な言葉で説明している。
「アウシュビッツ(「広島・長崎原爆殺戮」、「南京虐殺」と置き換えてもよい)の原理に対して唯一ほんとうに抵抗できる力は、カントの言葉を用いれば自律性でありましょう。それは反省する力、自分で決定する力、人に(「権力」という言葉に置き換えることも可能)加担しない力のことです。」(カッコ内は田中による加筆)
同じことが安倍晋三に抵抗するためにも言える。「安倍による『記憶の盗み』に抵抗できる力は、我々市民の自律性である。それは反省する力、自分で決定する力、安倍と安倍支持勢力に加担しない力である。」
— 完 —
1 件のコメント:
Yuki先生の力強い論考に我が意を得たりの心境です。できることなら内外の良識ある人々とも連帯したいです。昨日はYouTubeでジョンダワーのインタヴューを見ましたが、皆で抵抗し反撃すれば安倍一党の悪だくみを弱体化できるかも。岡本珠代
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