広島市は今年2月に、現在は市中心部の「平和公園」近くにある中央図書館、映像文化ライブラリー、こども図書館の3施設を広島駅前の商業ビルの中に移転する計画を発表した。松井市長は「利便性」や「文化機能の発揮」という考慮からの提案であると述べているそうだが、この説明は全くナンセンス。「利便性」からしても「文化機能の発揮」の点からみても、現在の場所のほうがはるかに適していることは誰の目にも明らか。古くなったこれら3施設を新しくするために市の予算を使わず、すでにある商業ビルの中に、いわば「丸投げ」の形で移転させて問題を解決しようという本音を隠すための、詭弁であることは明白である。このことは、以下の2月5日の朝日新聞デジタル記事からの引用からも明らかとなる。
「市が昨年12月から1月14日まで市民の意見を募ると、200件以上が寄せられ、大半が反対だった。移転先について『喧騒(けんそう)だ』などの意見があったという。………
読み聞かせなど子どもの本にかかわる人たちでつくる『市民の会』はこども図書館の駅前への移転中止を求めて1月5~31日に署名活動を実施。対面で9804人分、オンラインで7804人分を集め、今月1日、市に提出した。署名とともに手渡した要望書では『十分な議論もないまま、早急に進めようとしている』と主張。併設されているこども文化科学館や周囲の公園などを含めた環境こそが『子どもの心を育む』とした。」
私が常に批判しているように、広島市の文学・芸術関連に対する態度は、常に、市が自称する「国際平和文化都市」という名称には全く逆行しており、とりわけ原爆文学・芸術の価値につていては「軽視」とも称すべき恥ずべき政策を、歴代の市長が一貫して取り続けている。なんとも情けないとしか、言いようがない。
実は中央図書館には、原爆文学関連資料である峠三吉や原民喜などの貴重な寄贈資料が数多く所蔵されているが、移転した場合、これらの資料が、果たしてどのような形で後世まで安全に保管されるのかだけではなく、「文化機能の発揮」のためにどのように活用されるのかなどについての説明は一切ない状態である。
この問題について、原爆文学について博学的知識を持っておられる「広島文学資料保全の会」の池田正彦さんから、7月1日発行の月刊詩誌『詩人会議』8月号に寄稿された論稿に少々加筆された原稿を頂いた。そこで、池田さんのご了解を得て、ここに紹介させていただく。
広島市立中央図書館所蔵の峠三吉文学資料は広島の戦後史・文化史をひもとく鍵
広島文学資料保全の会・池田正彦
昨年秋、突然、広島市は三施設(中央図書館・こども図書館・映像文化ライブラリー)を広島駅前商業施設エールエールA館に移転する案を提示した。この唐突さには、謎が隠されていた。この商業ビルを管理する第三セクターは大赤字でありこの補填のための「移転」なのである。広島市は問題を逸らすため「利便性」を強調するが、図書館の所蔵する鈴木三重吉をはじめとする文学資料(その多くは遺族や関係者の寄贈)についての処遇などにはまったく口を閉ざし「文化不在」と、市民からの大きな批判に曝されている。
私は、直接資料整理を担った「峠三吉資料」問題に絞り、これら「文学資料」の重要性を訴え、保管・管理態勢を蔑ろにすることへの警告としたい。
一九八七年、峠三吉の甥・三戸頼雄氏宅を捜索し、「大量の草稿類とともに<ちちをかえせ>の原形発見」(中国新聞見出し)した。その後、整理し、一九九〇年中央図書館に寄贈し、「資料目録」へとすすんだ。その目録序文(当時館長・西川公彬氏)では、「日記・蔵書・草稿・メモ等峠三吉の原資料、<われらの詩の会>関係資料や昭和20年代の地方同人誌等に関する資料も含まれており、峠三吉のみならず、広島の戦後史を知るうえでも大変貴重なものである」と、記されている。
目録に記録されている主な資料は次の通りである。
①『原爆詩集』に関わる直筆原稿類。それにかかわるメモ・日記など。
②主宰した『われらの詩』原稿を含む、関連資料。
③山代巴と共同編集した『原子雲の下より』原稿(未収録の児童・生徒・学生・一般市民から寄せられた原稿類)。
④書簡類(峠三吉に宛てられた書簡中心)。
⑤『原爆詩集』以前の抒情詩草稿。評論、短歌、俳句類。
⑥愛蔵図書・写真等。同人誌、『地核』(広島詩人協会)、新日本文学関係、さらに被団協の前身「原爆被害者の会」結成に至る資料など。
⑦遺品(デスマスク、ネクタイ、矢立、名刺、表札、印刷凸版など)
(この中には、盟友・四國五郎関係の書簡、『原爆詩集』表紙絵、「われらの詩」の表紙絵、追悼会に掲げられた肖像画なども含む)
合計3958点(一九九八年一〇月現在)
私は以後、広島大学研究支援金の助成を受けて、知られている中央図書館所蔵資料分と東京資料(甥・峠鷹志氏所蔵、後、日本共産党中央委員会へ寄贈)双方を合わせ(双方ともマイクロフィルム化されているが、中央図書館「資料目録」はわずか五〇部発行されているのみで、東京資料は長い間未整理であった)さらに追加資料を加えて、既存全資料の統一的目録と電子化を試みた。(『広島平和科学』26に掲載した文章を、経過・内容を理解いただくため、大幅に訂正した)
実は、東京資料においても、中央図書館資料においても、峠が主宰した『われらの詩』全号は揃っていない。この作業のなかで、「広島文学資料保全の会」が収集した資料を組み込み、全号新たにCDに収めた。
この事例のように、従来の資料の欠落を補い、かつ中央図書館目録を大幅に補充し、ジャンルあるいは内容ごとに年代順に整理した。新たな補充目録にCD化した資料を加えて必要資料を迅速かつ容易に画面で探し出される形、たとえばハイパーテクスト化する必要があると感じている。今回、これまで内容を知られることがなかった東京資料を新たに整理した結果を目録化した。(研究報告NO 32「峠三吉資料目録」松尾雅嗣・池田正彦 編2004年)東京資料に含まれる峠三吉資料の作品については、今日まで、峠三吉日記(被爆前後の日記)、詩稿、随想、短歌、俳句などは従来ほとんど整理・検討が加えられてこなかったものであり、峠三吉研究にとってきわめて重要なものと思われる。
峠三吉の作品については、今日まで、峠三吉自身が編んだ『原爆詩集』(青木書店、昭和27年)、『原子雲の下より』(峠三吉・山代巴編 青木書店、昭和27年)、また残された資料から編纂された、評伝『八月の詩人』増岡敏和著 東邦出版社、昭和45年)、『峠三吉作品集 上・下』(増岡敏和解説 青木書店、昭和50年)、『にんげんをかえせ』(且原純夫解説 風土社、昭和45年)などが刊行されているが、いずれもページ数などの制約から部分的な作品の紹介、日記や随想などの引用であった。とりわけ、一部の人を除いてこれらの資料の全体を閲覧することは叶わず、峠三吉研究にとって大きな弊害となってきたことは否めない。
1 抒情詩、戦争詩などの再検討
峠三吉は原爆に抗した「原爆詩人」として広く知られてきた。
そうした世相の評価や表面的な激しい生き方とは逆に、人となり、作品の多くは象徴的・抒情性を基調としている。残された作品群、特に東京資料に含まれる戦前期の資料からも裏づけられる。この背景となるのは、家族の文学的雰囲気と幼少期からの病弱・長い病床生活、キリスト教への信仰などが考えられ、『原爆詩集』にいたる「変革」は峠三吉研究の大きなテーマとしてとりあげられてきた。同時に、抒情詩人としての側面にこうした資料から照射していくことも、今後の研究課題と言えよう。
峠の戦争詩の問題もまた、検討の課題である。峠三吉も他の多くの日本人と同様、あの侵略戦争を「聖戦」とみなし、「幹部候補生採用願」や「幹部候補生志願学歴一覧表」などを提出し(病気療養中であり、当然採用されなかった)うじうじたる思いで少なくない戦争詩を残している。
峠三吉の抒情性、戦争詩の中身、戦後の一連の詩との総合的な関連の中で検討されることが、より大きな峠三吉像にせまることになると確信する。
2 短歌・俳句
峠は、詩と同時期に短歌・俳句を書きはじめている。その初期から自然詠より生活詠のほうが多く、一部は『峠三吉作品集・上』に収録されている。その解説で、増岡敏和氏は
「短歌や俳句には、いくつかの詩で直裁な戦争讃美のそれはない。むしろ客観的に、しかも『うたはこころ』だとする内部の声に従ってうたっており、そのおちついたうたいぶりは、逆に嘆きによって厭戦気分をそそるように書いたのではないかとまごうような作品となっている」と、述べている。
しかし、峠はいずれも昭和19年から20年(1945年)にかけて筆を絶ち、詩と童話に専念するようになった。峠三吉の場合特に、研究の対象が「詩」やその生き方に焦点があてられ、短歌や俳句はなおざりにされてきた感がある。20歳から25歳のまさに多感な青年時代を、初期作品とともに解き明かすカギがこのあたりにあり、この分野での研究が待たれる所以である。
3 推敲の課程:『原爆詩集』序のことなど
1987年に発見された峠三吉遺稿等の中で、注目されたのは「生」(A)と題された未発表の草稿である。これは『原爆詩集』の序で知られる「ちちをかえせ……」の原型と目される作品で「生」では
「勤めへと/食物あさりと/出たきり帰らぬ/父をかえせ/母をかえせ/………/にんげんの/にんげんたちの/都をかえせ/生をかえせ」
となっている。また同時に発見された遺稿の中に、ザラ紙にメモ的に鉛筆書きされた草稿(B)もあり、これらの推敲をみる時、峠三吉の身を削るような推敲を想像することができる。
広島文学資料保全の会。代表幹事であった、故・好村冨士彦氏は、「『序』に較べると、Bにおいても、Aにおいても状況的なものが具体的にリアルに描きこまれているが、最終的には個々のディテールを思い切って切り捨て、詩全体をひらがなにしている。そのことによってこれらの名詞は抽象的になり、メルヘン調な性格さえおびるにいたった。その結果『序』の詩は一段と普遍化をまし、『原爆詩集』の冒頭に置かれるにふさわしい、簡潔で力強いものとなった」(池田宛書簡 2002年4月23日)と記し、資料の重要性を改めて指摘した。
同様に『原爆詩集』に収録されている多くの作品においても、書き込みや書き直しの痕跡がある何種類かの草稿が確認されている。
また、『原子雲の下より』序文は、当初詩の形で構想していたが、途中で計画を変更し、青木文庫に見られるような散文の形式に落ち着いた。東京資料の中に未完の「序の詩」が存在し、メモ・書き込みから「もう一度血を喀いてもよい」(日記)という情熱が伝わってくる。この『原子雲の下より』応募総数は1389編とされるが、応募原稿の一部と思われる今回新たに発見された500余点を整理・目録化し、CDに記録した。
4 木片・本庁・包丁
『われらの詩』10号(1950年12月15日発行)には、原爆を描いた一編として林幸子・作「ヒロシマの空」が掲載されている。この作品は、その後、『原子雲の下より』(青木書店)、『日本原爆詩集』(太平出版)、『日本の原爆記録』(日本図書センター)などにも収録され、朗読されるなど多くの人に感動を与えてきた。
『われらの詩』10号では、「なつかしい/わたしの家の跡/井戸の中に/燃えかけの木片(きぎれ)が/浮いていた」となっている。ここでは「木片(きぎれ)」となっており、ルビまでうたれている。ところが、『原子雲の下より』では、「本庁」となり、まったく意味不明となっている。(一部では、それが「包丁」となったり、「本立て」になったりするのである)
間違いをことさら嘲笑するために例をあげたのではない。元もとの底本の存在に気がつかなかったか、また底本の閲覧すらままならない事情から派生したミスではなかろうか。こうした資料は、より多くの人が自由に閲覧できるシステムをつくることが大切だということをこの珍事は教えている。
5 書簡(はがき)など
書簡類(封書及び葉書)は、妻・和子や、長兄・一夫、長姉・嘉子、次姉・千栄子など親族から峠に宛てたものが残されている。
妻・和子に宛てたスケッチブックに記された絵日記(昭和26年)は、西条の療養所での様子や、饅頭の包装紙や電車の切符を貼り付けるなどして、面会に訪れる妻を待ち焦がれる心情を記録している。(また、病棟を図解し入院患者一人ひとりをユーモアあふれる絵入りで解説している)。
Kさんに宛てた花見のお誘い、Yさんに宛てた輸血の要請など、ほのぼのとした表現の中にきめ細やかさを滲ませ、メモ魔といわれた面目をしのばせる。
このような資質は、少年時代からのもので、広島商業学校(現・広島商業高校)時代の修学旅行・記念帳は、絵と日記とメモで埋められ、出発当日の様子は引率教師のあだ名ではじまり、途中立ち寄った姉・千栄子の部屋の見取り図など几帳面に写し、詩人としての繊細さとは別のおどけたひょうきんな一面を合わせもっていたことを伺わせる一コマである。
6 平和・文化運動史
膨大な峠三吉資料は、大きく二つにわけることができる。一つは、戦前・戦中であり、一つは戦後の作品群である。
戦前は、「聖戦」を信じ小市民として生きた一人の無名詩人であった。戦後は、その被爆体験から出発し、社会の変革と自己の変革を結びつけ、劇的変貌をとげた詩人でもあった。
その特異性をきわだたせた活動は、『原爆詩集』刊行などの文学活動にとどまらず、広島青年文化連盟や広島詩人協会による実践的活動、さらに日本製鋼所の労働争議への参加、われらの詩の会・反戦詩歌人集団の結成、丸木位里・俊「原爆の図」展の開催、平和擁護大会の準備、被爆者団体の呼びかけ・組織化、いくつかの職場サークルの結成など、実に多彩である。反原爆・戦争、平和と文化、抵抗運動などなど、まさに戦後の広島に平和・文化運動の旗頭として燃焼させていった。
この観点からすれば、峠三吉文学資料は個人の文学記録という範疇にとどまらず、いわば、広島の戦後の平和・文化運動史をひもとく貴重な記録・資料として位置づけられるものである。
蛇足になるが、同じように原民喜文学資料を中央図書館が所蔵している。この資料の多くは、佐々木基一氏から広島文学資料保全の会に託され(1535点)、整理・寄贈されたものである。(1994年4月)
最後に「最初」に戻ろう。
広島市は、中央図書館など三施設の移転(広島駅前商業施設エールエールに)を無謀にも決定しようとしている。が、収蔵している「文学資料」の説明は一切ない。「収蔵庫」など、今よりさらに劣悪な条件下が予測される「移転」は「平和・文化都市」の看板を放棄するに等しい野蛮な行為と言わざるを得ない。
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