2019年2月25日月曜日

哀悼:加納実紀代さん


  フェミニストで歴史家の加納実紀代さんが2月22日に亡くなられたとの悲報を受け、まだまだご活躍して欲しかったのにと本当に残念でなりません。
  加納さんは、私にとっては2002年に亡くなられた松井やよりさんと並ぶ大先輩で、お二人と個人的に交流させていただいた幸運に深く感謝している次第です。
  私は、広島平和研究所に赴任する前、2000年4月から2002年3月までの2年間という短い期間でしたが、新潟の小さなキリスト教系大学、敬和学園大学で「日本近現代史」の講座を担当しました。できの悪い先生のその後任として、日本を代表するフェミニスト歴史家の加納さんが赴任されると知り、いたく感激したことを今も昨日のように思い出します。はっきり記憶にないのですが、2001年秋頃でしたでしょうか、講座引き継ぎなどの相談で新潟まで来られ、そのとき初めてお会いしました。それを機会に、その後もいろいろメールのやりとりをさせていただきました。加納さんの著書『女たちの<銃後>』、『まだフェミニズムがなかったころ』、『女性と天皇制』などの愛読者の一人であった私は、こうして加納さんと直接コンタクトができるようになり、本当に光栄でした。 
  その数年後には、広島でフェミニストが集まる研究会があったようで、その機会を利用されて数人のフェミニスト仲間たちと私の研究室に立ち寄られ、当時のご研究の内容についていろいろ伺った覚えがあります。その後も、しばしば私の方から一方的に、ご教示をいただきたいときだけ連絡をさせていただくという勝手で、ご迷惑をおかけしました。このブログの関係で言えば、2016年4月に女性議員による元日本軍性奴バッシング考を書く折にも、いろいろとご助言をいただきました。その折からご体調がすぐれないとは聞いておりましたが、やはり幼児期の広島での被爆の影響があったのでしょうか。
  みなさんご承知のように、加納さんは5歳のときに白島で被爆。お父さんが陸軍参謀だったそうですが、遺体は全く見つからなかったそうです。そのような個人的体験から、加納さんは、戦争責任問題、とりわけ女性の戦争責任と天皇裕仁の戦争責任について徹底した研究をすすめてこられました。戦中・戦後の女性史と女性の観点から見る天皇問題では、加納さんの研究成果がなかったならば、現在のこの分野の秀れたレベルにまで日本の研究レベルが至っていなかったことは言うまでもないと思います。
  数多くのご著書を残されたので、そのお仕事の内容を一言で説明するのは困難です。そんな数多くの文章の中で、今、私が思いつく印象深い言葉をいくつか引用させていただきます。

・フェミニズムは権力とか暴力を否定する思想であって、単に男と同じ権利を要求するということではないということです。

・被害者であってかつ加害者、これがあの侵略戦争における日本の民衆の状況だ。これはたんに被害者であるよりも、もっと悲惨な状況ではなかろうか。「ヒロシマ」は、私たち日本人にとっては、たんなる被害者ではなく、被害と加害の二重性をもった民衆のより深い悲惨の象徴としてこそ掲げられるべきであった。(強調:田中)

・あの十五年戦争において、天皇と母たちは、大御心と母心の虚構をともに支え合ったという点で共犯者であった。母たちだけでなく、天皇が<母なるもの>への民衆の共同幻想の産物であってみれば、民衆全体が共犯者であったといえる。したがって、自らを剔抉する痛みに耐えることなくして、民衆に天皇の戦争責任を追及できるはずはなかった。民衆はその痛みを回避して、一億総ザンゲの共同性に逃げ込んだのだったろう。

・(戦争直後の)天皇巡幸は、……民衆に対する<許し>の旅でもあった。天皇さまに拝謁を許されたからには、彼らの戦争責任(敗戦責任)は、消滅したのである。天皇の戦争責任免罪のための巡幸は、民衆にも免罪を与えたといえる。あとは、一切の戦争責任はちょうど進行中の東京裁判法廷に立つ軍人、重臣たちにまかせればよい。天皇と民衆は、ともに被害者として手をとり合い慰め合い - この「無責任」の君臣一体!(強調:田中)

・民衆は自らを剔抉する痛みを回避した。したがって、依然として、<母なるもの>への共同幻想は生きつづける。その結実である天皇も生きつづける。

・<母なるもの>への共同幻想が生きつづけるとき、民衆に加害責任の意識が生まれることははない。あるのはただ、母の癒しの手を求める被害者意識である。
(天皇と皇后に「癒し」を求め続ける今の日本の現状を見てみれば、加納さんのこの痛烈な批判がいかにマトをえているかは明らか!<田中のコメント>)

加納さん、本当にありがとうございました。
もう一度お目にかかれなかったのが残念でなりません。
ご冥福を祈ります。
合掌






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