2018年2月18日日曜日

15年戦争史概観


戦争責任問題を考えるための予備知識 - 
(1)張作霖暗殺、満州事変から満州国成立へ

  イギリスのある大学出版会が、3巻本の『日本史百科大事典』を再来年半ばに出版する予定で、現在計画を進めています。この大辞典の「アジア太平洋戦争」の項目の執筆を私が依頼され、いつものように深く考えもせずに引き受けてしまいました(いつもこの調子で、後悔の連続<苦笑>)。執筆字数が極めて限られているので、重要事項に焦点を絞って各事項をできるだけ簡潔に解説しなければならないため、正直、四苦八苦しています。
  しかし、執筆計画を立てる段階で、本当は、これは英語だけではなく日本語でも書くべきではないかと気がつきました。今、日本の若者たち、いや若者だけに限らず、多くの人たちが、「アジア太平洋戦争」に関する知識を十分持っていないという状況になっていることは周知のところです。現在問題になっている「日本軍性奴隷(いわゆる慰安婦)」問題を真に理解するにも、日本が行った「アジア太平洋戦争」とはいったいどんな戦争だったのか、ということを知る必要があるのですが、悲しいかな、その基本的知識がないというのが実情です。
  「アジア太平洋戦争」は、通常は、1941年12月8日の日本軍マレー半島上陸・真珠湾攻撃から始まり、「ポツダム宣言」受諾で終わった1945年8月15日までの期間を指す戦争です。しかし、「アジア太平洋戦争」をよく理解するには、もうずいぶん昔に鶴見俊輔さんが提唱されたように、1931年9月18日のいわゆる「満州事変」から45年8月15日までの15年間を連続してとらえる、「15年戦争」史観が必要であることは改めて言うまでもないと思います。(私は、実は「アジア太平洋戦争」という用語を、いつもは「15年戦争」とほとんど同義語で使っています。)
  この15年戦争という戦争はいかなる戦争であったのか、なぜゆえに日本は15年もの長期にわたって戦争を続けたのか、その戦争は中国を含む東北アジア、東南アジア、太平洋諸島という広い地域の人々に、さらには自分たち自身にもどれほど痛ましい打撃を与えたのか、連合軍捕虜をどのように取り扱ったのか、それらに対する責任はいかなるもので誰にあるのか、という基本的で重要な問題に関する史実を確認しておかないと、つまり戦争の実態を知らないならば、その責任問題を正しく議論することができるはずはありません。
  私たちが70年以上にわたって戦争責任問題を重要視してこなかったこと、あるいは政治家たちが自国の戦争責任を認めることを拒否してきたこと、今も拒否し続けていること、アメリカの戦争責任を追及してこなかったことなどが、「慰安婦問題」に限らず、現在の日本の様々な政治的な歪みを産みだしている根本的な原因だと私は考えています。そこで、この機会に、15年戦争の歴史をできるだけ簡潔に、自分なりに書いておこうと思います。
  以下のように4回に分けて、毎月1回ぐらいのペースで書いてみようと思いますが、書き進むうちに、計画そのものが変わってくる可能性は十分あります。しかし、現在の段階での計画は以下の通りです。重要な出来事だけを選んで、できるだけ簡潔に書いてみます。したがって、様々な関連事項について細かく説明している余裕がありませんので、分かりづらいところが多々あるかもしれません。特別な用語についても、簡単な説明を付けておきます。ご笑覧いただき、理解困難な箇所や間違っていると思われる箇所がありましたら、遠慮なく、ご指摘、ご批評いただければ幸いです。

今回:
1)張作霖暗殺、満州事変から満州国成立へ

次回以降:
2)日中全面戦争
3)アジア太平洋戦争
4)敗戦、戦争責任、東京裁判

1)張作霖暗殺、満州事変から満州国成立へ

日本軍国主義の台頭と満州進出
  日本は日清戦争(1894〜95年)、日露戦争(1904〜05年)、第1次世界大戦(1914〜18年)を経て短期間のうちに急速に軍事大国にのしあがった。日清戦争では台湾・澎湖諸島を植民地化、日露戦争では遼東半島先端部(関東州)を租借地として獲得し、サハリン南東部(南樺太)を領土とした。1910年には朝鮮を植民地化、第1次世界大戦では南洋群島も保有するに至った。さらに、日露戦争後の日露講和条約では、ロシアから東清鉄道南部支線を取得し、これを基盤に半官半民の南満州鉄道株式会社(いわゆる「満鉄」)を設置。満鉄は鉄道経営にとどまらず、沿線の撫順・煙台の炭鉱採掘、大連・旅順の港湾事業、鞍山の製鉄業などの事業をも兼営する(最盛期には80を超える関連企業を有する)一大コンツェルンへと拡大することで、満州植民化への足がかりを作っていった。

  1931年の段階で、日本は280隻(13万8千トン)の大艦隊を擁する世界第3位の海軍大国となり、陸軍は常備兵力として17個師団(約23万人)の兵力をもち、そのうちの2個師団は朝鮮に配備され、さらに1個師団が関東州と満鉄の防備・保護の任務に当たる関東軍として配備されていた。この帝国陸海軍を統帥する(支配し率いる)のは陸海軍大元帥であった天皇裕仁(1921年に摂政、28年に天皇に即位)であったが、統帥権は、実際には、最高幕僚長である陸軍参謀総長と海軍軍令部長(1933年9月から「軍令部総長」と改称)の補佐によって行使された。この統帥権行使については、軍部が「統帥権独立」を主張し、内閣の関与を許さなかった。つまり軍隊の指揮・運用に関しては、参謀総長、軍令部総長、陸海軍両大臣の帷幄上奏権(天皇に直接進言する権利)によって、内閣の意向とは無関係に、軍令を制定することができた。天皇は、統治権を総攬する国家元首であり、国務に関する大権も持っていたが、この大権も国務大臣の補弼(天皇に助言を与えること)によって行使されていた。

  軍事的には大国となっていた当時の日本ではあるが、経済的にはいまだ弱劣国で、石炭はなんとか自給できていたものの、鉄鉱石、非鉄金属類、石油などの自然資源やゴム、羊毛、棉花などの原料確保では、覇権争いの相手であった米国ならびに英国植民地からの輸入に大きく依存していた。その上、日本は工作機械類の工業生産手段の生産でも立ち遅れていたため、この面でも米英からの輸入に依存。脆弱な経済力にもかかわらず、実力以上の軍事的対外膨張政策を推進したため、外資輸入や国際金融面でも米英への依存度が強かった。かくして、日本は、軍事力では世界第3位を誇り米英に対抗しながらも、経済的にはその両国に大いに依存しなければならないという矛盾を抱え込んだ、一言で称するなら「遅れてやってきた帝国主義国家」であった。

  この矛盾を解決するために、アジア地域で日本を中心とする自給自足圏(後に「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域)を打ち立てることで、米英に対する経済上の劣勢と依存を克服するという構想が、軍や右翼の急進派によって唱道されるようになった。この構想の実現は、当然、アジア全域に支配力を及ぼしていた既存の欧米勢力の打破を必要とするので、米英仏蘭といった列強諸国との軍事的対決が必然的になってくる。そのため、軍部は、このアジア覇権主義に基づき、上記の「統帥権独立」を盾に、国家総力戦体制の確立に向けて、内閣の意向を無視する形で軍備増強を推進。同時に、国政や外交にも頻繁に介入して、ますます内閣の欧米列強諸国との国際協調路線政策を妨げ、対外政策の分裂を増幅させた。同時に、軍部を中軸とする天皇制支配体制を強化し、議会政治、政党政治の機能を麻痺させていった。

  一方、経済面では、日本は、第1次世界大戦で異常に膨張した経済を襲った1920年の恐慌、23年の関東大震災による経済へのさらなる打撃、27年に起きた空前の深刻な金融恐慌などのために、長期にわたる深刻な経済不振にみまわれ、「慢性不況」と称される時代であった。この恐慌の影響で疲弊した農村では、多くの若い女性たちが娼妓、すなわち売春婦として身売りされ、都市へと送り込まれたと言われている。こうした経済危機を脱出するために資本家たちが中国市場の確保拡大を要求する動きによっても、「アジア覇権主義」は促進された。15年戦争は、「遅れてやってきた帝国主義国家」である日本が、長引く経済不振を「アジア覇権主義」で暴力的に解決しようと始めた無謀な戦争であった。

  上述したように、日本による南満州と大連・旅順という不凍港のある関東州の支配の大動脈は満鉄であり、関東軍の任務はこの満鉄と関東州の保護・防備であった。満州の資源、とりわけ石炭・鉄は、陸軍にとっては将来の国家総力戦にとって不可欠であるとみなされていた。しかしながら、問題は、日本が軍事的、経済的に極めて重要視していたこの満蒙(満州と内モンゴル)特殊権益と南満州支配は、侵略によって獲得されたもの、すなわち中国の主権と民族的利益を侵害することで可能となっていたことである。ところが、1919年の五四運動以来、中国民族の間には反日ナショナリズムが高まり、日本による中国の主権・民族利益の侵害を許さないという民族運動がますます強まっていた。南満州でも抗日運動が活発となってきたため、その対策として張作霖を首領とする奉天軍閥(軍閥=私的軍事力を持って一地域に割拠する封建的支配勢力)を日本の手先として育成・支援し、彼に抗日運動の制圧と地元住民の統制に当たらせた。

張作霖暗殺事件と反日民族闘争の高揚
  しかし、1920年代半ばに中国最大の実力者の一人にのしあがった張は、関東軍に反発するようになり、日本の意のままには動かなくなった。張を邪魔者視するようになった関東軍は、彼を暗殺し、これを機会に張の支配下にあった東三省を中国から分離・独立させて日本の直接支配下におこうという画策を行った。1928年6月4日早朝、関東軍高級参謀・河本大作大佐らが、国民党政府と対立して北京から引き上げてくる張が乗っている列車が奉天に近づいたとき、この列車を爆破して殺害。欺いて殺した中国人2人の死体を、国民党政府のゲリラのように偽装して現場付近に放置しておいたのである。この暗殺は、関東軍が独断で行ったもので、当初は田中義一首相も陸軍首脳たちも知らなかった。11月になって事実が判明すると、天皇裕仁は、一時は首相・田中義一の問題処理の仕方に不満を示したが、統帥権を犯した河本らを処罰することもなく、結局はこの陰謀を黙認してしまった。
関東軍は張作霖暗殺現場の写真を絵葉書にしていた



 
  父親・張作霖を暗殺され、そのあとを継いだ息子の張学良は、1928年末に蒋介石の国民党政府と提携し、その結果、東三省も国民党政府の管轄下に合流。かくして関東軍の陰謀は、日本に対する中国の国権回復の要求を逆に強めてしまうという結果を招いた。同時期、英米両国に加えフランスも、蒋介石の国民党政府を中華民国の唯一の政府として正式に承認。これに続き世界各国が国民党政府を承認し、その結果、長年中国を苦しめてきた不平等条約が改正され、関税自主権も認められるようになった。ところが日本だけが国民党政府を正当な国家政府とは認めずに敵対し続けたため、中国貿易に占める日本の割合は減退。かくして、中国市場を軍事的圧力で独占しようという計画は、意図していたものとはまさしく正反対の結果を招いてしまったのである。
  
  1929年後半に始まった世界大恐慌は農業恐慌も引き起こし、満州の農業も大打撃を被る。これに加えて、満鉄に対抗する形で、張学良が満鉄に並行して三大幹線鉄道を建設したため、満鉄の収入は29年から31年の3年間で4分の1にまで激減。さらには、1930年5月に、国民党政権が新鉱業法を制定して、日本人の土地と鉱業権取得を厳しく制限したため邦人企業経営はさらに不振に陥った。同時期、日本の植民地支配下にあった朝鮮では、労働者のゼネスト、学生運動、日本人所有農場での小作争議などが頻発し、ここでも反日民族闘争が高まっていた。この動きが、在満朝鮮人(1927年末の段階で約80万人、その大部分が吉林省の間島地方に居住)の間にも影響を及ぼし、中国共産党と繋がった革命的朝鮮人のグループが武装蜂起を起こし、間島地方の日本領事館や鉄道を襲撃するという事件も起きた。これらの中国人・朝鮮人革命家たちは、満州に隣接する社会主義国家ソ連が1928年に開始した第1次5カ年計画が飛躍的な発展を見せていることに励まされており、このことも関東軍参謀たちに大きな不安を抱かせた。

  このような状況から、1931年に入ると、軍部だけではなく、政治家や資本家の間でも「満蒙は日本の生命線」、「生命線満蒙の死守」といったスローガンが主張されるようになった。彼らは、満蒙問題が解決すれば日本の景気は自然に回復すると、不景気にあえぐ大衆の不満に訴えたわけである。同年7月、長春に近い万宝山集落で、用水路をめぐって朝鮮人農民と中国人農民の間で対立が起きたことから、日本人警官隊と中国人農民が衝突する事態となった。この事件が朝鮮での中国人への報復事件を多数引き起こし、100人を超える中国人が殺害された。実は、この事件は、朝鮮人農民に用水路工事を強行させて中国人農民に損害をもたらすことで、中国人を挑発した日本側の謀略であった。同年6月、蒙古人に変装して日本人旅行禁止区域の興安嶺方面でスパイ活動中であった中村震太郎大尉が、中国兵に怪しまれて射殺されるという事件が起きた。陸軍省は8月になって、中村大尉が軍事スパイであったことを伏せて、帝国軍人が不法に殺されたと発表。軍部は日本人の反中国感情を煽るためにこうした事件を利用し、日中関係は、軍部が期待した通り、一触即発の状態となった。

柳条湖爆破の陰謀と傀儡国「満州国」の設置
  関東軍では、参謀作戦主任の石原莞爾中佐と高級参謀の板垣征四郎大佐を中心とする参謀たちが、満州占領のための戦争計画、満蒙領有計画を1930年末までにほぼ完了させていた。時機到来と判断した関東軍参謀たちは、1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖の満鉄線路を爆破し、中国軍が不法にも攻撃をしかけてきたと主張。関東軍司令官・本庄繁大将は、「自衛」のための行動と称して攻撃命令を出し、1日のうちに奉天、長春、営口などの満鉄沿線全要地を占領し、21日には、満鉄沿線でもなく、日本に守備権もない吉林をも占領。同じ21日、石原、板垣らと事前に打ち合わせていた朝鮮軍司令官の林銑十郎中将は、一個旅団を独断で越境させて満州に派兵した。国境を越えての派兵は、統帥権を持つ大元帥・天皇裕仁の許可が必要であったが、林はこれを無視して行動。

  驚いた若槻礼次郎内閣は、19日の緊急閣議で「事件の不拡大」を決定した。関東軍の計画について何も知らされていなかった軍中央も、不拡大に一応賛成した。ところが、すぐに方針を変更して、この際、一挙に満蒙問題を解決しようと関東軍への増援支持を決定。軍中央の案に同意しないなら、これが原因で政府が倒壊しても全く我々の関知するところではないと政府を脅した。怖気づいた若槻内閣は、21日の閣議で、満州での事件を「戦争」とは見なさず「事変」として扱うことにし、したがって「宣戦布告」はしないと決定。さらに22日の閣議で、若槻首相は、21日の朝鮮軍部隊の越境派兵を「出たものは仕方がない」とあっさりと認めてしまい、そのための戦費支出も承認した。若槻は、その日のうちに、この政府決定を裕仁に上奏し、「追認御允許」を願い出た。これに対し、裕仁も「此度は致方なきも将来充分注意せよ」と、これまた簡単に既成事実を追認したのである。

  日本軍の侵略を受けた中国では、当時、国民党政府は蒋介石の南京政府と汪兆銘らが率いる広東政府に分裂していた状態であった上に、共産軍との戦闘にも追われていた。そのため、蒋介石は日本軍とは基本的には交戦回避の方針をとり、9月21日に国際連盟に提訴した。張学良も、無抵抗の姿勢をとって日本との戦闘を放棄。国際連盟は、30日の理事会で、日本に対して抗議し事件不拡大要求の決議を一応採択したが、日本軍の撤退についてはなんの有効な行動もとらなかった。欧米帝国主義列強にとっても中国の共産主義と民族主義は脅威であったため、日本に対しては強硬な態度をとらなかったのである。

  列強諸国のこうした消極的な反応に乗じて、10月に入ると、日本軍は侵略を拡大して、張学良が拠点としていた錦州を無差別爆撃し、さらに北満への侵攻も開始して黒龍江のチチハルを占領。裕仁は錦州への無差別爆撃を「状況上、当然のこと」と認めただけではなく、「関東軍の兵力は少なくないか」と尋ね、状況によっては関東軍を増強するつもりであった。日本軍は、翌1932年1月には錦州を占領し、2月には北満の要塞ハルビンも占拠。かくして、柳条湖爆破後わずか5ヶ月で、日本軍は全満州を占領した。こうした作戦遂行と並行する形で、関東軍は特務工作を使って各地に中国人の「自治委員会」をでっちあげた。一方、若槻内閣は、唱えた「不拡大方針」に対する有効な手を打つことが全くできず、幣原喜重郎外相による対英米協調外交も頓挫し、1931年12月11日に総辞職。かわって、犬養毅を中心とする政友会内閣が成立した。

  1931年10月2日、関東軍は最高会議で、「満蒙を独立国として我が保護下に置」き、日本がこの新国家の国防・治安・外交の権限を掌握し、各政治機関も指導監督するという、文字通りの傀儡国家設立計画を決定した。そのため、同年11月、清朝最後の皇帝溥儀を新国家の「執政」とし、1934年に帝政を布き彼を満州国「皇帝」とした。満州国内には関東軍が無制限、無条件に駐屯することとなり、関東軍が必要とする鉄道・港湾・水路・航空路などの管理は全て「日本に委託」するという形をとることで、満州国は関東軍の強力な軍事的支配下に置かれたのである。

  ちなみに、1932年3月1日に満州国建国が宣言され、同年8月に関東軍司令官・本庄繁は軍事参議官として東京に戻った。その際、本庄は裕仁から、「柳条湖爆破事件は関東軍の陰謀であるという噂があるが、真相はどうか」と訊かれ、「関東軍ならびに司令官である自分は絶対に謀略はやっておりません」と答えた。裕仁は「そうか、それならよかった」と言って、それ以上なにも調べようとはしなかった。
 
  この「満州事変」と称した戦争と「満州国設置」によって、軍部は日本政府の外交政策にとどまらず、内政全般に関しても急速に圧倒的な発言権をもつようになっていった。歴史学者・井上清が名著『日本の軍国主義』で適確に指摘したように、「日本のもともと不完全な政党内閣・議会政治の慣習は、1932年5月15日、政友会総裁で首相の犬養毅が、官邸で、海軍将校と陸軍士官候補生の一団に射殺されたときにとどめをさされた」のであり、「外には中国侵略戦争のとめどもない拡大と、内には軍部独裁の天皇ファシズムへの進展とが不可分の一体となって、日本を亡国のふちに追い込んでいった。」(強調:引用者)
  
  傀儡国家を設置したことで、満州国における中国民衆の反日感情は一層激しくも上がり、抗日ゲリラ武装闘争が激しくなった。例えば、日本政府による満州国の公式な設立承認を意味する「日満議定書調印」が行われた1932年9月15日、その日の深夜に、約2千人の抗日ゲリラが、奉天郊外にある満鉄所有の撫順炭鉱を襲撃し、日本人10数名に死傷者を出した(ゲリラとはいえ、所有していた武器は手製の粗末な銃・槍・太刀など)。翌16日、関東軍の撫順守備隊が、報復処置として、ゲリラに通じているとみなした近く平頂山の集落に急行し、村民3千人を崖下に追い込んで銃撃し、銃剣・日本刀で、妊婦や赤ん坊までほとんど村民全員を虐殺(女性の中には性暴力の被害者になった者もいたと言われている)。村落は焼き壊し、崖にダイナマイトを仕掛けて爆破して死体を埋め尽くし、兵士には箝口令を引いた。村民のほとんどが撫順炭鉱の労働者であった。

  関東軍は抗日ゲリラを「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗を行う賊)」と呼び、これ以降、「匪賊討伐」に明け暮れることになる。同時に「匪賊討伐」では、平頂山と同じように、抗日ゲリラに通じているとみなされた村落が日本軍によって焼き払われ、住民が虐殺されるケースが各地で起きている。1933年に入ると、満州における抗日武装闘争は、主として毛沢東指導下の中国共産党主導のもとに進められ、1933年9月に中国共産党満州委員会が立ち上げた、楊靖宇を司令官とする東北人民革命軍の一部隊が中心となった。また、1934年3月には、朝鮮との国境近くの間島省で、金日成(後に朝鮮民主主義人民共和国を建国し、初代首相となる)を司令官とする朝鮮人民革命軍が結成されている。

  満州国設立との関連でもう一つ忘れてはならないことは、細菌・化学戦部隊である731部隊の設置である。陸軍軍医・石井四郎を主幹とする防疫研究室が、東京の陸軍軍医学校内に新設されたのが1932年4月。翌33年には、関東軍防疫班が「東郷部隊」という秘密名で、満州国ハルビンの近くの背陰河に設置され、このときから中国人を細菌の人体実験として使い始めた。36年8月には、関東軍防疫部(1940年8月に関東軍防疫給水部と改称)として731部隊(いわゆる「石井部隊」)が発足し、ハルビン郊外の平房に建設された大規模な施設(医学研究室、実験室、人体実験被験者収容施設、監獄などの複合施設)に移った。731部隊は、ペスト菌、チフス菌、パラチフス菌など様々な病原菌を兵器として利用する目的で大量生産し、そのための人体実験で、中国人(少数ながらロシア人も含む)に感染させた。さらには、毒ガス、凍傷、熱湯、脱水、感電などの実験にも生きた人体を使った。マルタ(丸太)と呼ばれたこれらの被実験者たちは、抗日分子、スパイ容疑で逮捕された者、「犯罪者」と見なされた者などで、約3千人あまりが犠牲者となったと言われている。

- (1)終わり 

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