2016年4月10日日曜日

「叙事詩ひろしま」に向けての序奏


日本は今、各地で桜が満開の頃かと思います。私の住むオーストラリアのメルボルンは、すっかり秋らしくなり、気温は最高20度前後、最低15度前後の毎日です。「秋」とは言え、オーストラリアの原樹木(主としてユーカリ)の葉は紅葉することがないので、紅葉する樹木は全て北半球(植民地化の当初は主としてイギリス)から運んできて植樹したものばかりです。しかも、気温の最高と最低温度の差がイギリスや日本のように激しくないため、紅葉する葉の色もそれほどあざやかにはなりません。例外は首都キャンベラです。キャンゲラは最初から計画的につくられた政治都市であったため、企画された直線的に伸びる道路に沿って、紅葉する北半球の樹木を整然と並べて植樹しました。しかも、キャンベラは盆地であるため、秋には夜はかなり冷え込みます。したがって、キャンベラの紅葉はたいへんきれいです。とにかく、オーストラリアは、少ないながらも紅葉を見ながらじっくりと読書をする季節となり、私も、大田洋子の『屍の街』をもう一度読み直しながら、彼女の作家として「生きざま」の凄さをあらためて痛感しているところです。
さて、私は文学には全くの素人ですが、今日は、私が尊敬する広島の池田正彦さんが、最近『詩人会議』に投稿された峠三吉の詩作に関するエッセイを、池田さんの許可を得てここに転載させていただきます。栗原貞子と並ぶ広島の詩人・峠三吉がいかに苦闘しながら自分の詩の創作力を練磨していったかが、きわめて簡潔、明晰に紹介されています。池田さんは、長年、「広島に原爆文学館を!市民の会」の運動で中心的な役割を果たしてこられました。「広島に原爆文学館を!市民の会」は2010年に「広島文学資料保全の会」へと移行し、池田さんはその事務局長という立場で、運動を続けておられます。この会の詳しい内容については、下記ホームページをご覧ください。http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/hlm-society/ 
多くの優れたいわゆる「原爆作家」、「原爆詩人」を産みだした広島に「原爆文学館」が存在しないのは、「平和文化都市」を自称する広島にとって本当に恥ずかしいことですが、なぜか広島市や広島県の政治家たちには「恥ずかしい」という感覚もないようです。池田さんたちは、昨年から「原爆文学資料のユネスコ世界記憶遺産登録」運動も始められましたが、そのことについては、昨年65日にこのブログに載せた「世界記憶遺産をめぐって」ですでに紹介していますので、ご参照ください。
さらに、池田さんは故・四國五郎さんが残された数多くの絵画の保存にも、四國五郎さんのご子息の光さんと伴に努力されています。(四國五郎さんの絵画の紹介については、昨年4月にこのブログでとりあげた「四國五郎の絵画」を参照してください。)

「叙事詩ひろしま」に向けての序奏
池田正彦(広島文学資料保全の会・事務局長)

 二〇一六年二月八日、NHKテレビは「峠三吉よみがえる広島の叫び~発掘直筆44枚の詩」と題して詩稿「すべての声は訴える」の背景を追う番組を放送した。
 この詩稿は、ザラ紙四四枚に書かれた未完成草稿であり、内容はもとより、小さな文字で書かれた<>・書き込みの多さに注目した。
 当初一九五二年、峠三吉・山代巴編で出された詩華集『原子雲の下より』の「序文」の草稿とみられ、その存在はコピー等で一部関係者には知られていたが、二〇一五年七月、峠鷹志氏(峠三吉・甥)から峠三吉関連資料の保管・活用の依頼を受け整理。資料群の中に含まれていたもので直筆にはじめて接することができた。

『原子雲の下より』序文では
『原子雲の下より』序文は一九五二年に、「すべての声は訴える」も同時期に書かれており、実際、内容的にも類似した表現もあり、当初「序文」として用意されたと考えても何ら不思議はない。
 理由は不明だが、「序文」は書き直しをくりかえし、八月二日に完了し、日記には次のように記されている。
序文の書きかえ原稿やっと東京へ送る。これを書く
ためには自分の全力を出し切ったような気がする。
 この中では、編纂委員会の困難ななかでの活動が描かれ、
応募作品の傾向について細かな分析を行い、「投稿者全体
の気持を反映させ、子供から大人を含め生活のすみずみに
浸透した原爆の苦悩の中からのいつわらぬ平和の叫びを
盛るように勉めた」と、結んでいる。

「叙事詩ひろしま」へ
 詩友であり、手術台での峠三吉を記録した坪田正夫は、
峠の「叙事詩」への思いを次ぎのように述べている。
一九五一年一一上京、新日本文学詩委員会の『原爆詩
集』合評会に三吉は出席し、「抒情的すぎ原爆の政治
的性格が捉えられ表わされていない」(秋山清)と指
摘された。
三吉と私は「新日本詩人」の全国編集委員のメンバーであった。
平野町の第三平和アパートの彼の自宅を訪ねたとき、
「これはどうでしょうか」と紙片に鉛筆で走り書きし
た詩の数十行をさし出した。
「抒情を抑える、具体的な事物を捉えて、この中に抒
情を打ち込めて発射する、ぼくはこのように努力する。
いや努力というのかなあ、事実を描くことによってそ
の訴えたい精神を詩いあげる」
彼は、肺葉切除術を受けることで体力をよみがえらせ、新
しい力で<叙事詩ひろしま>を生み出したいと切望した。
(「ヒロシマの青春」一九九四年七月)

 また、当時学生で西条の国立広島療養所で療養生活時、
『原爆詩集』成立に立ち会い、広島の文学資料の調査と整
理・保全に尽力した好村冨士彦(広島文学資料保全の会・
元代表幹事)は、次の文を寄せている。
峠さんが自分の詩の抒情性について言っておられた興味深い言葉がある。私が峠さんの詩の叙情性は、じめじめしていて案外古いのじゃないかと問うと「今迄の日本の詩人の詩は、じめじめしているのが徹底していないのだ。僕はこれを徹底させて粘着力のつよい、敵にむかってからみついて離れぬような詩を書きたいのだ」と言っておられた。(峠三吉追悼集『風のように炎のように』一九五四年二月)

『原爆詩集』小考
 『原爆詩集』は、自身の被爆体験が大きな動機となっていることは言うまでもないことであるが、同時代を生きた原民喜(夏の花)や大田洋子(屍の街)はいち早く作品化しているのに、なぜ峠三吉は六年の時間が必要だったのだろうか。直後の昭和二〇年八月、原爆を直接テーマにした「絵本」という作品がある。

たたかいの手に 傷付けられた
瀕死の母親に見せる その子の絵本

高い格子窓から 一筋の夕日が
負傷者収容所の 冷い床に落ちてとどまる
(中略)
苦痛も怨みも 子につながる希いさえ
訴えぬまま 糞尿の異臭のなかに
死んでゆく
しんでゆく

 既に『原爆詩集』の原型が準備されている。あくまで抒情の質を残し、悲惨と悲しみをメルヘン的にうたい、未来を絵本に託し昇華させている。(『原爆詩集』にいたる数少ない一編である)
 おそらく、彼本来の優しい抒情の「質」では的確に原爆の惨劇を捉えることができなかったのであろう。弾力に富んだ抒情性とリアリズムの手法を獲得するための自己変革の苦闘がそこにはあった。
 一九四九年(昭和二四)、広島で戦後最大の労働争議といわれる日鋼争議の労働者・群衆の前で、自身の詩「怒りのうた」が声優・杉田俊也の手で朗読された。

きのうまで ミシンや車輌を生んでいた機械はとまり、労働者は追われ

きょう、閉ざされた工場の屋上に
にくむべき 警察のはたはひるがへる。
(中略)
刻々とかずを増して工場をかこむ 組合旗のゆらぎのなかに
うたとなるわれらの怒り。
唄となるわれらのなみだ。

かなた夕ぐれる木陰の土に 日鋼の労働者らたおれて睡り、
そのあたり しずかに剛し。

 多少上滑りの感があるが、戦後労働運動の高揚の中での連帯と怒りが克明にきざまれ、その精神は何よりも『原爆詩集』に生きてゆくのである。その意味では、日鋼争議は詩的覚醒の第一歩となった。
 その時の反応を日記に記している。
「嬉しい、そして激しい成長を感じる。やれそうだ!
なにかやれそうだ! 生きていてよかったといえそうなことが何か‥‥」 
 その後、病弱な身体を押して、われらの詩の会、反戦詩歌人集団、被爆者組織の結成、広島青年文化連盟、『原爆詩集』『原子雲の下より』の発行、映画「ひろしま」への強力、アジア平和会議(世界連邦アジア会議)への原爆禁止のアッピール文起草などなど。朝鮮戦争勃発、レット・パージ、日本共産党の分裂の影響を考えるならば、あの激動の時代、一途な活動は生命を縮める結果となった。

 最初の『原爆詩集』ガリ版印刷(一九五一年・四國五郎表紙)は、二〇編を収録している。青木書店版(一九五二年)では、「ちちをかえせ‥‥」の序を含めて二五編の詩を集載、大きな特徴は、「その日はいつか」を追加したことであろう。
 前述の「抒情的すぎ、原爆の政治的性格が捉えられ表わされていない」(秋山清)の指摘を受け創作されたのである。
 朝鮮戦争下、集会という集会が禁止され事実上戒厳令下で、弾圧に抗して決然と敢行された集会をドキュメント手法で描いた「一九五〇年の八月六日」は叙事詩につながる記念碑的一編だと考える。(私的には、非常に躍動的・能動感にあふれ、ある意味で色彩的すらある、好きな作品の一つである)
 「平和をねがうわたしの方へ/警官をかけよせながら/ビラは降る/ビラはふる」この現場にいない人にも、その臨場感は伝わってくる。
 さて、「その日はいつか」の場合はどうであろうか。
 他の作品の多くが、原爆の悲惨な描写が主目的であり、受動的な表現にならざるを得なかった。この「その日はいつか」は、客観的事実を軸にさらに能動的な広がりを示し、構想した「叙事詩ひろしま」への道を示唆していると思うのは私だけでないだろう。『原爆詩集』の嶺を押し上げる二三〇行を超える大作である。
熱い瓦礫と、崩れたビルに
埋められた道が三方から集まり
銅線のもつれる黒焦の電車をころがして交叉する
広島の中心、ここ紙屋町広場の一隅に
かたづけ残されころがった 君よ、

無惨な少女の死をうたいながら、原爆投下の意味を洞察し、その政治的意図をも捉え成功している。
「原爆投下は急がれる/その日までに自分の手で日本を叩きつぶす必要を感じる/暗くみにくい意志のもと」「緻密な計画とあくない野望の意志によって/のたうち消えた四十万の犠牲者の一人として/君は殺された」「この屈辱は日本人ぜんたいに刻みこまれた屈辱だ!
「平和をのぞむ民族の怒りとなって/爆発する日が来る」と呼びかけ、「つよい粘着力」をもって迫ってくる。
「ちちをかえせ‥‥」の序にはじまる「かえせ」の受動から「爆発する日」「屈辱が涙で洗われる日」を呼び寄せる能動的な抒情への変化がみられる。
 
 詩人・遠地輝武は、愛惜と自戒を込めて、峠三吉追悼集『風のように炎のように』に次のような文章を寄せている。
 原爆詩の仕事は、峠の見つけた新しい詩の鉱脉となった。彼はこの鉱脉を掘りさげることによって、ともかくも「原爆詩人・峠三吉」の存在を押し出すことができた。いい意味でも悪い意味でも、これにしばられて相当苦しかったのではないかと思う。原爆詩のことは彼にまかせておけという気分がなかったとはいえなかった。また意識すると否とにかかわらず、直接体験した彼がいるかぎり、他から下手に手を出せぬという感じもなかったとはいえないだろう、こういう事情が彼をせき立て、手術に耐えるだけの抵抗力ももたない体をむりやりに手術台へ運ばせた。

「叙事詩ひろしま」の構想
 『原爆詩集』(青木書店版)に新たに追加・収録した「その日はいつか」に「叙事詩ひろしま」のヒントが隠されているのではないかと前述したが、峠三吉追悼集『風のように炎のように』に、叙事詩の構成メモとして佐々木健朗は次のように紹介している。

広い原子力の研究
ナチとの闘争
原子力スパイ事件

日本に於ける軍閥の横暴
残される広島と 焼かれる各都市
広島で流言に左右する民衆

原爆実験の成功
反対する科学者 決行する政治家資本家

進撃してゆくB29 マリアナ基地
運命的な天候
投下、原爆の下に消えゆく広島


ソビエトの原爆実験
朝鮮戦争
アメリカの原爆実験、水爆実験

五人の少年係 精神養子
原爆乙女等××(不明)偽マン政策
原爆工場の資本形態
‥‥‥‥

 それは、原爆製造・投下の政治的意図を暴きだそうとする強い意思を包含し、並々ならぬ決意を感じる。
さらに佐々木は「このメモはつづき、原爆の状態はよりリアルに形象化されようとしている。それはいくつかの挿話となって構成されながら展開される様になっている」「新しい世界へのつながりの中で、原爆投下への憎しみ、その本質へのより激しい対決の抒情の性質はきびしい光を増してきている」と書いている。
原爆の歴史的・政治的背景を浮かびあがらせる壮大な叙事詩が計画されていたことがわかる。
今回発掘の「すべての声は訴える」と、佐々木健朗の「叙事詩ひろしま」構成メモと比較すれば一目瞭然、この構成メモに従い書かれたと確認できるほど内容が一致する。
残念ながら、未稿であり、多くの<>や書き込みは、推敲を重ね作品の中で消化しようとしたと考えるのが順当だ。事実、これに附随するたくさんのメモ・手稿が残されており、これらをつなぎあわせれば、「すべての声は訴える」の外観が補完されるはずである。
これが書かれた時期、詩華集『原子雲の下より』の出版計画で多忙を極め、「一九五二年は、峠にとって命を賭けた最後の年となった。原爆を受けた広島市民として病人でありながら、平和運動のために休むことなく働き続けなければならなかった」(妻・和子)
内外の情勢は、彼に「叙事詩ひろしま」を完成させる時間を与えることはできなかった。

一九五〇年占領下、峠三吉・四國五郎など「われらの詩の会」が中心に、「原爆の図展」が爆心地近くの「五流荘」で開かれたが、決して好評とはいえなかった。『原爆詩集』に対してもプロパガンダだなど、同様な反応があったことは表興味深い。
<原爆の図>(丸木位里・俊)美術家の初期の反応
日本美術会『美術運動』第一〇号(1950年3月10日)「合評会 第三回アンデパンダン展総評」が掲載された。評者は前衛美術会の大塚睦、戦前プロレタリア美術家同盟を結成した画家の岡本唐貴、美術評論家の嘉門安雄、林文雄という顔ぶれであった。記事の中から<八月六日>の評を抜き出してみよう。
嘉門 丸木、赤松両氏の<八月六日>は題材よりも表現に気を引かれた。題材とはちぐはぐなものを感じるね。人間のエロチックなもの、グロテスクなものに興味を引かれるという点にうったえてくるのであの作品に魅力があるのではないか。
岡本 テーマは非常にいいと思う。思想的に勇敢なところがある。日本人にとっては厳粛な事実であるテーマととっくんでいるがエロチックなものになって題材をけがしている。
  すべてが妖怪のように描かれている。デテールでは唇のめくれたところとか、皮のしわとかいろいろな点で真実を追究していると思う。しかしデテールの真実にとらわれてしまって、そこから出てくるヒューマニスチックなうめきというものがない。それがもっと出てきてくれればよくなったと思う。
岡本 餓鬼草紙、地獄草紙は一寸見るとグロだが、しかしあの軽妙な表現の中に、芸術的な点がある。
嘉門 それに比べるとこの絵全体に一つの感情の流れがでていない。
 一つの見世物になっている。
大塚 感情的な表出だけで終わってしまっている。戦争が終わっても次の戦争に対処しようという人々ではなく、盲従してしまうような人々を描いている。
岡本 画かれた人にたいする愛情がない。しかしとにかく勇敢な絵だ。
 <原爆の図>が、まず、裸体表現を「エロチック」、原爆の惨状の描写は「グロテスク」と批判され、「一つの見世物」と評されていたことは記憶しておきたい。(<原爆の図>全国巡回・岡村幸宣 新宿書房二〇一五・一〇)

峠三吉に文学的評価を
 先日、大学の平和講座で峠三吉の名前すら知らない学生が多いことを嘆いていた友人がいたが、一方で峠三吉が生前残した唯一の詩集『原爆詩集』は、一九五一年以降、版を重ね現在も多くの人に愛読されている。一冊の詩集が、こんなに長く多くの読者を獲得したというのは、日本の詩集出版事情からすれば稀有なことで、私は広島が誇れる市民的財産だと思っている。
 ところが峠三吉の場合、共産党の分裂、自身も手術の途中で亡くなるという不運、それ以降の平和運動の分裂が重なり、党派的解釈が独り歩きし、文学的側面から評価されることがほとんどなかった。
 さらに、私たち広島の人間も市民の誇りとして保護・継承してきたかというと、かなり心もとない。
 広島市には文学館構想すらなく(資料収集のための予算措置はゼロに等しい)峠三吉だけでなく他の文学者の業績を研究することもままならない状況下にある。
 何を勘違いしたのか、一部の平和団体は、プレス・コード下におかれた一九四五年|五五年の広島を「空白の十年」などと言い、自らを「聖域化」している。(『空白の十年・被爆者の苦闘』広島県被団協二〇〇九年八月)
 本当に「空白」であったのか検証すべきである。残された峠三吉資料を検証すれば明白である。『原爆詩集』だけではない。一九五〇年八月六日、事実上の戒厳令下におかれても、反戦・反原爆、朝鮮戦争反対をかかげた「平和集会」は敢行されたし、官憲の目をかいくぐり四國五郎と協働した辻詩(壁詩)活動も広島独特な活動として注目された。
 さらに困難な中、被爆者援護を求め、川手健など市民・学生が中心になって被爆者の組織化がすすめられたこと。市民・児童の詩華集『原子雲の下より』の発行など、枚挙にいとまがない。
 ヒロシマの風化・運動の形骸化が指摘されて久しい今日、峠三吉の生きた時代のエネルギーと精神を照射することも優れて平和運動である。

原爆文学、ユネスコの世界記憶遺産に申請
二〇一五年六月、「広島文学資料保全の会」は、広島市と共同してユネスコ国内委員会に、被爆作家による原爆文学(栗原貞子、原民喜、峠三吉の直筆資料三点)を申請。
    広島の被爆作家三人の直筆資料三点とは、①栗原貞子「生ましめんかな」などを書き留めた創作ノート ②原民喜『夏の花』のモトとなった被爆被災時を記録した手帳 ③峠三吉『原爆詩集』最終稿
二〇一五年は、被爆七〇年ということもあり、報道各社は私たちの申請を好意的に大きく取り上げた。しかし、九月に行われた国内選考委員会において、国内二枠の推薦候補にえらばれなかった。今回は残念な結果となったが、二〇一七年に予定されている次回の国内公募に再度申請すべく広島市と協議を開始した。
なお、再申請にあたり、作家・大田洋子や歌人・正田篠枝の関連資料、峠三吉被爆日記などを追加すべき文学資料として独自の調査活動をすすめている。
こうした取り組みを、峠三吉を含めた原爆文学の再評価への道につなげたい。

プレス・コード 連合軍占領機関は、<日本に与える新聞遵則>(プレス・コード)を設けて、占領軍にとって不利な報道をいっさい厳禁する方針で臨み、きびしい言論統制を行った。特に、これは原爆関係記事を掲載する上で障害となった。
日鋼広島争議 一九四九年六月、日本製鋼所広島製作所は六二二人の解雇を発表。以後二カ月にわたり労働争議がたたかわれた。製作所が占領軍によって賠償指定工場とされているため占領軍が直接干渉し、会社側も強硬態度をとった。組合側はこれに反対し地域の友誼団体支援のもとに激しく対立した。

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