栗原貞子の反核と憲法擁護思想
栗原貞子(1913〜2005年)が、代表作「生ましめんかな」で世界にその名が知られる詩人であることについてはあらためて説明するまでもない。原爆投下直後に広島貯金支局の地下で重傷の助産師が産気づいた女性の赤子を取りあげた状況を詠った「生ましめんかな」は確かに傑作であるが、私は「<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>」という一節を含む詩、「ヒロシマというとき」が最も優れた作品だと思っている。
実は、昨年5月、栗原が1975年に執筆した「核文明から非核文明」と題した手書の原稿を、原稿を保有していた元広島市長(1991〜99年在職)・平岡敬が公表し、広島女学院大学に設置されている「栗原貞子記念平和文庫」に寄贈した。この原稿は、被爆30周年にあたる75年に、中国新聞が市民から募った懸賞論文「昭和50年代への提言」に応募した論考原稿であった。応募した論文は全部で291編、その中から特選1編と入選・佳作各5編が選ばれたのであるが、栗原論考は選外となった。選考にあたった委員の一人が、当時、中国新聞の編集局長であった平岡だったのである。
この論考を今読み返してみると、敗戦後の占領期から75年までの30年間の日本の政治社会状況の歴史をきわめて簡潔に且つ鋭く深く分析し、その上で75年現在の産業公害と核=原子力公害を徹底的に批判するその分析の明晰さに驚かされる。50年代に被爆者がほとんど批判の声をあげなかった「原子力平和利用」、さらにそれに続く60年代から70年代の原発推進を「戦後の虚妄」として一貫して批評するこの論考を、中国電力から多額の広告依頼を頻繁に受けていた中国新聞がボツにしてしまったのも全く不思議ではない。これもあらためて説明する必要がないことではあるが、栗原がこの論考を執筆した1年前の74年には、田中角栄政権が原発の猛烈な推進を目的に電源三法を成立させ、中国電力が島根原発を稼働させた年でもある。73年には四国電力が愛媛県の伊方で原発建設に着工している。
広島における反核兵器の論客の一人であった平岡自身が、2011年3月11日の福島原発事故まで強力な原発推進派の一人であったことは広島では周知のところである。平岡に限らず、現市長を含むこれまでの広島の歴代市長の中で反原発を掲げた者は一人もいない。「核兵器の究極的廃絶」というお題目だけは唱える一方で、「核抑止力」は容認し、原子力利用についても積極的な態度を表明するか、あるいはなんら異議を唱えというのが彼らに共通してみられる態度である。その中で唯一人、平岡のみが3・11後まもなく、原発推進派であったことの自己反省を公の場で行ったという点で、彼の真摯な人間性が窺える。40年ちかく経った2014年に栗原のこの論考を公表したのも、そのような反省に基づくものであろうことは容易に推測できる。
栗原のこの論考における傑出した論点の一つは、被爆者団体を含む広島のほとんどの反核運動組織や活動家が原発賛成派だった70年代半ばのこの時期に、栗原がその広島で単に反原発思想を展開したことに留まらず、原発稼働と核兵器製造が表裏一体となった不可分な問題であることをいち早く指摘していることである。一方で彼女は、「原発事故によって大量の放射能が漏れた場合局部的に、ヒロシマ・ナガサキの悲惨が現実のものとなるであろう。たとえ放射能事故がない場合でも、原子炉を冷却した温排水に含まれた放射能が魚介類を汚染している……..。 一度封じ込めた死の灰を含む放射性廃棄物は核エネルギーの利用度が高まるにしたがってますます増大し、これを廃棄する場所もなく、地球全体の汚染にまで発展しようと」していると指摘。しかし同時に、「当初いわれていた原子力電力のコスト安が、重なる事故などで逆にコスト高になるにもかかわらずエネルギー源としての経済性をも無視して原発が推進されているのは、原爆の材料であるプルトニウムをつくり出すのが目的とされていることや……産業界内部にある日本核武装の意図…….とも切り離して考えられない」と結論づけている。
1960年代後半から70年代初期にかけて、佐藤栄作内閣の下で秘密裏に日本核武装の可能性が本格的に検討されていたこと、さらには現在も日本政府は核兵器製造潜在能力を維持し続けたいと考えていることは、今となっては明らかであるが、75年当時にこのような先駆的な批判を展開した作家は日本ではほとんどいなかったのではなかろうか。
ところで、栗原がアナーキストであったことはよく知られている。そのアナーキストであったはずの栗原が、憲法擁護を行う発言をこの75年の論考の結論部分に含ませている。つまり、「被爆以来三十年、占領軍を解放軍とした一面的認識、加害原点を温存し、再び戦争犯罪人を政権の座につかせ国民自らの力で戦争責任を追求し得なかった無力さが、三百万の血の中から生まれた戦争放棄の憲法を空洞化させ、戦争中の生命を鴻毛の軽きに比して人的資源とした生命軽視が、戦後は人間無視の公害タレ流しとなってはびこっている」(強調:引用者)と論じている。
彼女の憲法擁護思想は晩年になるほど強まっていったようである。1992年に「第九条の会ヒロシマ」が立ち上げられ、その年の8月6日以来ほとんど毎年この会は新聞に意見広告を出し続けているが、92年の標語、「憲法九条はヒロシマの誓いそのものです。再び、アジアの人々へ銃を向けさせまい」は、栗原が提案したものである。93年、94年の標語も彼女の案によるが、国家憲法などに価値をおかないはずのアナーキストの彼女にとってすら、憲法九条は市民を守る最後の砦とも言えるものと見なされていたのではなかろうか。しかも、それは、戦争加害と被害のどちらも起こさせまいとする強い願いから。
田中利幸
『反改憲 運動通信』No.9 (2015年2月26日発行)掲載予定
1 件のコメント:
田中先生、ブログの立ち上げ、おめでとうございます。投稿第1号をもくろんで、一言、先生の栗原貞子論につなげて、述べさせていただきます。確かに、栗原貞子の先見の明には、ハッとするものがあります。一般の人たちがすべて一方のみを見ていた時に、栗原がなぜ両方を見る見方ができたのか、興味のあるところです。浅井基文先生が、「先覚者」という言葉を使われていますね。(『ヒロシマと広島』)
第一詩集『黒い卵』は若き日の彼女のanarchistの立場と家庭内での夫婦の葛藤が理想と現実の中で揺れ動いているのが感じられます。戦後は女性解放であったはずでした。(「新しき恋愛と結婚への遠景」中国文化創刊号)女性として、政治、天皇、社会、アメリカへ向けて、批判する詩を書く栗原は稀有な詩人です。ドラマに満ちた詩が、インパクトがあるのは、詩語が整理され、共振し、時に、リフレインされているからだと思います。
平岡氏の件は初耳でした。いつも新事実を提供してくださって、ありがとうございます。
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