井戸を掘った先人の思いに馳せる
被団協のノーベル賞平和賞受賞に因んで、広島原爆文学(運動)史の文字通り<生き字引>と私が深く尊敬する畏友、池田正彦さん(広島文学資料保全の会事務局長)による2つのエッセーを、池田さんのご了承を得て、ここに掲載させていただきます。
一つ目のエッセーは「被団協、ノーベル平和賞受賞:井戸を掘った先人の思いに馳せる」と題するもので、藤原書店の月刊誌『機』(2024年11月392号)にすでに掲載されたものからの転載です。二つ目は、「手記集『原爆に生きて』 山代巴の方法」と題されたエッセーです。
現在の被団協が、いったいどのような先人たちの努力から創設されたのか、その歴史的背景を忘却しているのではないかというのが池田さんの指摘です。
(田中利幸 記)
1)被団協、ノーベル平和賞受賞
井戸を掘った先人の思いに馳せる
一〇月一二日、今年のノーベル平和賞決定のニュースが飛び込んできた。つづいて被団協の各氏のコメントがテレビの画面に流れ、良かったなあ、と思いつつ、同時に、あれれ!?と感じた。
というのは、現在の日本被団協結成に先立つ一九五二(昭和二七)年八月一〇日に、日本最初の被爆者組織「原爆被害者の会」が誕生しているのだが、不思議なことに、被団協の前史である「原爆被害者の会」のことに触れる人が誰もいなかったからだ。
黎明期を駆けた川手健さん
作家の山代巴は、『詩集・原子雲の下より』第三版(一九七〇年)の「あとがき」で、次のように書き残している。
詩集編纂を引きうけたのは、一九五二年の春でしたが、(略)実際に詩を集める仕事は、当時の新日本文学会広島支部の、事務担当者であった川手健(かわて たけし)の双肩にかかりました。(略)広島大学仏文科の学生だった川手健および、(略)情熱あふれる学生詩人たちの努力なしには、この詩集は実らなかったと思います。(略)峠三吉死後の川手健は、原爆被害者の初めての組織者として活動しました。第一回原水爆禁止世界平和大会へ向けて、被爆者の声を盛り上げて行く活動の、中心的なにない手でもありました。
自身も被爆者だった川手健さんが事務局長を務めたのが、「原爆被害者の会」である。残された資料(峠三吉資料)「原爆被害者の会会則」(一九五二・八・一〇決定)では、幹事会メンバーとして、吉川清・佐伯晴代・内山正一・植松時惠・峠三吉の名前が記録されている。さらに、東京協力会も準備し、世話人には大田洋子・神近市子・武谷三男・布施辰治・赤松俊子(丸木俊)ら七人が参加している。あえて「原爆被害者の会」という名称にしたのは、長崎・東京を視野に入れ、全国的な拡がりを意識していたと考えられる。
原爆被害者の会会則の冒頭部分
1952.8.10
<会則>
一、この会は原爆被害者の会といい、原爆の被害者によってつくられます。
二、会員には被害者で趣旨に賛成の人なら誰でも入ることが出来ます。
三、会の事務所は広島市細工町原爆ドーム裏吉川記念品店におきます。
四、会は被害者が団結して多くの人々との協力のもとに、治療生活その他の問題を解決し、あはせて再びこの様な惨事のくりかへされないよう平和のために努力することを目的とします。
五、この会は目的実現のために次の事業を行います。
①原爆傷害者の治療援助を当局に要求し、その他種々の便宜をつくり出す。
②原爆による生活困窮者の就職、生活援助を会員相互の協力によって行う。
③各種の方法により平和のための事業を計画する。
④その他の目的実現のため、会の決定したこと。
六、会は、総会、幹事会、協力会を持ち運営していきます。
「事業」の項目では、〈医療〉〈生活〉〈平和運動〉〈その他〉に分け、それぞれ課題と目標をたてながら〈図書室設置〉まで計画していた。
当面、「会」と密接な関係にある「原爆の手記編纂委員会」や文化サークルとの共同を謳い、〈経過〉では、広島でロケ中の映画『原爆の子』への協力、ウィーンで開催される諸国民平和大会への代表派遣、具体的には、被爆者を治療せずモルモット扱いするABCC(アメリカ主導の原爆傷害調査委員会)に対して「一切協力しない」との申し入れ、行政には、治療費の負担などの交渉を行い、活動は既に始まっていたことがわかる。
また、峠三吉、山代巴の戦後の活動と共にあり、丸木位里・俊の「原爆の図」巡回広島展(一九五〇年)を成功に導いたのは、「われらの詩の会」、四國五郎をはじめ、川手健さんたちの奮闘によるものであった。峠三吉の『原爆詩集』や、『詩集・原子雲の下より』『原爆に生きて』などの刊行しかり、広島青年文化連盟、『われらの詩』などの活動は、「原爆被害者の会」の発足の流れに寄り添っているとみるのが自然である。
言論統制にあった占領下、原爆投下糾弾・朝鮮戦争反対の旗を掲げ果敢に闘っ
た先人たちの歴史を消すことはできない。
大同団結を訴えた森瀧市郎さん
日本被団協結成は、森瀧市郎さんを抜きに語れない。森瀧さんは、子どもたちの手記集『原爆の子』が、広がりつつある平和教育の原点だと確信し、原爆孤児の精神養子運動を始動させ、「広島子どもを守る会」を結成し、会長に就いた(顧問・長田新/副会長・山口勇子)。そして、原爆は莫大な家族崩壊を招いたとし、「社会保障的立法から国家補償的立法の制度を」と訴えたことが、「原爆反対」「被爆者救援」活動の発端であったと述懐している(広岩近広『核を葬れ!』藤原書店)。
さらに、一九五四年のビキニ事件を契機に、原水爆反対の署名は国民的規模に広がり、森瀧さんは、原水爆禁止広島県協議会(広島原水協)の事務局長に推され、深く関わっていくことになる。あくまで党派や立場を超えた原水禁運動をめざし、「人類は生きねばならぬ」と訴え続け、非暴力の座り込みによって抗議を重ね「森瀧運動」の原点とした。
第二回原水爆禁止世界大会(一九五六年、長崎で開催)時、第四分科会(原水爆被害者の実相と救援)終了後、原爆被害者の全国的結集が呼びかけられ、これが事実上、日本被団協の結成大会となった。事前の広島・長崎の被爆者たちをはじめとする懸命な活動がやっと実を結んだ。設立された日本被団協は、代表委員として広島から森瀧市郎、藤居平一、鈴川貫一、長崎から小佐々八郎、辻本与一が選出され、藤居平一さんが初代事務局長を務めることになった。
藤居さんは、銘木店社長の任にあったが、家業と私財を投げうって、被害者(被爆者)運動の先頭に立ち、日本被団協結成等に尽力した。その出発点は、原爆被害者の会が編集した『原爆に生きて』(三一書房、一九五三年)との出会いであったと語っている。
しかし、平和運動は常に分裂の危機をはらみ、第九回原水禁世界大会(一九六三年)基調報告で「原水禁運動の統一と団結こそが、平和への勝利の唯一の鍵であります」と森瀧さんは懸命に「統一と団結」を訴えたが、結局「いかなる国の核実験にも反対」という方針を巡り紛糾、「原水協」と「原水禁」に分裂した。
よく、厳しい五〇年代を指し、「空白の十年」といわれるが、そのような「空白」は存在しない。被爆者運動一つとってみても、黎明を切り開いた多くの人たちの苦闘を無視しているだけだ。
現在、広島にはまったく同じ名前の「被団協」が二つある(分裂の後遺症が今でも
続いている)。そんな中で「ノーベル平和賞」だけが一人歩きしている。「統一」に蓋をしたまま─―。
2)手記集「原爆に生きて」
山代巴の方法
山代巴さんの代表作が「荷車の歌」(筑摩書房・一九五六年)というだけでなく、作品の創られ方と内容が、生き方に凝縮された表現になっていると同時に、水脈を手繰れば、原爆被害者手記集「原爆に生きて」(三一書房・一九五三年)の方法に突き当たる。
──「荷車のうた」は、農村の封建性の中で苦しむ女性を民話風に語り口で描いた作品で、平和ふじん新聞に連載され反響を巻き起こし、全国の農村婦人の十円カンパで一九五九年に映画化された。(監督・山本薩夫、キャスト・三國連太郎、望月優子他)さらに、劇団文化座の演劇(佐々木隆演出)によって全国公演が行われ、主人公<セキさん>の一生は多くの人びとに深い感銘を与え、繰り返し上演された。─―
山代はこの作品で、あきらめにも見える暮らしの底に一途な情熱や努力の埋もれている生活がある、と述べているように、沈黙を破り言葉を紡ぐ方法の道筋の大事さを問うている。
さて、敗戦後間もない時から、いちはやく原爆被害者問題にかかわり、先駆的役割を果たした先人の一人として、峠三吉と共に山代の名前があがる。有名なアンソロジー「原子雲の下より」(青木書店・一九五二年)には峠三吉との編者として名前を記しているが、入退院を繰り返す峠にかわり重責は山代の肩にかかり、具体的な原稿集めは、当時・広島大学学生であった川手健をはじめとする青年文化連盟の地域的活動が支えた。
この手法は、原爆被害者の手記集「原爆に生きて」に引き継がれた。川手は次のように述懐している。「再起できず沈黙している被爆者の家を一軒一軒訪ね歩く、文字通り地を這うような活動であった」と。
広島で初めての被爆者組織は、前述の活動等が実り、一九五二年八月に結成される。事務局長の川手健はこのように記録している。「猫屋町の知恩会館で結成式を行った。名称を<原爆被害者の会>とし、会則、事業計画も決定。役員として幹事五名(吉吉川清、佐伯晴代、内山正一、上松時恵、峠三吉)を選出、……まがりなりにもここに発足をみることが出来た」。
山代巴は、川手について次のように回想している。「アメリカの占領政策でものが言いにくい状況下、時代に沈黙している多数の被爆者個々の声に耳を傾け、多様な訴えを汲みあげ、一般に広めるという方法を川手はいつも示唆していた。=これを<川手健方式>と呼んだ」。
一部の人は、この時代を「空白の10年と表現するが、プレス・コード(占領軍による言論統制)下にありながら、三度核兵器を使わせないという闘いの10年が確かに存在したことは明らかである。とても「空白」の論に組みすることはできない。
二〇二四年一〇月、被団協にノーベル平和賞決定のニュースが流れた。私は、このニュースを重ね、「この世界に何が起きたか」その輪郭を描いた先人たちの労苦に思いを馳せた。
私たちは、この人たちのバトンを正しく受け継ぎ継承しているのだろうか、と。
最後に。山代巴文庫(径書房)には、「荷車の歌」「原爆に生きて」をはじめ、「占領下における反原爆の歩み」「原爆被害者の会の背景」など示唆に富んだ小論が収録されている。
特に、「原爆スラム」と呼ばれた基町・相生通りや被差別部落のあった福島町、胎内被爆、沖縄の被爆者等々をとりあげ、見過ごされた被爆者を焦点としたルポルタージュ「この世界の片隅で」(山代巴編・岩波新書・一九六五年)は、「平和都市広島」にあって屹立と輝いている。
― 完 ―