2025年2月14日金曜日

「下田裁判」判決文から日本被団協ノーベル平和賞受賞まで

― 原爆無差別大量殺戮の罪と責任を再考する ―

第3回

米国の「空爆による無差別大量殺戮」の罪と責任を徹底追求してこなかった被団協と日本の反核市民運動団体の責任

 

もくじ

*原爆以外の「空爆による無差別大量殺戮」を視野に含めた岡本尚一弁護士の裁判闘争の展望に学べ!

*アメリカの無差別空爆殺戮で大量の死傷者を出した日本政府と天皇制イデオロギーの責任

*無差別空爆大量虐殺の被害を日本にもたらした日米両政府の責任を同時に追求する必要性!

*ノーベル平和賞授賞式演説の問題点

 

*原爆以外の「空爆による無差別大量殺戮」を視野に含めた岡本尚一弁護士の裁判闘争の展望に学べ!

 

東京裁判では、アジア太平洋(15年)戦争期における日本軍による中国各地の無差別爆撃が戦争犯罪として取り上げられることは一度もなかった。戦時中、米国政府は日本軍による中国民間人に対する空襲を幾度も批難していたにもかかわらずである。法廷にこの問題が持ち込まれなかった理由は明らかである。それは米国自らが、日本全国の393市町村を焼夷弾と原子爆弾を使って広範囲に空襲し、日本人一般市民を大量殺戮し、凄まじい破壊行為を行ったからである。ナチス・ドイツ軍によるヨーロッパ大陸および英国の多くの都市に対する無差別空爆もニュルンベルグ裁判では犯罪捜査の対象とならなかったが、その理由も同じであった。すなわち、米英両軍がハンブルグやドレスデンをはじめドイツ諸都市に対する無差別空爆で無数の市民を殺戮しドイツ国土を徹底的に破壊したその戦争犯罪、それに対する批難が法廷で巻き起こることを避けるためであった。

 

結果的に東京裁判の判事席に着席した11名のなかで、簡潔ながらも原子爆弾について批評をおこなったのはインド代表パル判事だけであった。彼は他の判事たちの判決に反対する意見書のなかで、以下のように述べている。

 

もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争において違法であるならば、太平洋戦争においては、この原子爆弾使用の決定が、第1次世界大戦中におけるドイツ皇帝の指令および第2次世界大戦中におけるナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものであることを示すだけで、本官の現在の目的のためには十分である。

 

興味深いことに、一つだけ例外があった。横浜で開廷されたBC級裁判では、米軍が日本の都市を無差別爆撃したことが法廷内での激しい論争の的となったケースがあったのである。それは岡田資陸軍中将の裁判であった。岡田は名古屋付近で日本軍に撃墜されて捕虜となったB29爆撃機搭乗員のうち27名を、正式な軍法会議(=軍事裁判)にかけずに略式裁判ですませて、彼らを無差別爆撃を行った犯罪人として部下に処刑することを命じた。この裁判で、主席弁護人を務めたアメリカ人弁護団のジョセフ・フェザーストーン(法学博士)は、米軍のB29搭乗員は違法な無差別攻撃に関わり、そのため多くの日本人一般市民が死傷したのであるから、彼らは犯罪人であり、単なる捕虜ではないと論じた。

 

占領軍は、戦犯裁判のために英米法や国際法に精通している米国人法律家を弁護団のために数多く雇ったが、彼らは一旦弁護を引き受けた限り徹底した弁護を展開するというプロフェッショナリズに徹していた。フェザーストーンの弁護はその典型的な例と言えるもので、米軍空爆の市民生存者多数を証言者として法廷に召喚し、かつ多くの関連公文書類を証拠として活用して、米国人搭乗員の処刑は正当であったと主張した。一方、岡田自身は、処刑がもし違法であったとするならば、その責任は命令を出した自分一人にあるのであって、部下には一切責任がないと主張。

 

 米軍監視兵に付き添われ出廷した岡田資

法廷は岡田に「捕虜虐待」で有罪の判決を下し死刑を宣告したものの、弁護人の陳述および提出された証拠は判決に多大な影響を与え、岡田の処刑命令を遂行した部下に対しては比較的寛大な判決が下された。さらに、弁護団はもちろん、米国人検察官やGHQ法務担当官がマッカーサー元帥に嘆願書を提出し、死刑を終身刑に減刑するよう要請したが、それがマッカーサーの考えを変えることはなかった。(この裁判については、大岡昇平が自著『ながい旅』で詳しく論じているし、この書をもとに小泉堯史が『明日への遺言」というすぐれた映画を2007年に制作している。)

 

 判決を受ける岡田資の部下の一人に付き添うフェザーストーン

この裁判の弁護団に日本人弁護士の一人として加わったのが岡本尚一であり、フェザーストーン博士を補佐した人物である。岡本は、フェザーストーンが法廷で展開した、無差別空爆大量虐殺の犯罪性の徹底した論証から多くのことを学んだはずである。それだけではなく、戦時中に米軍が犯した「空爆による無差別大量虐殺」 ― 推定死傷者102万人、その半数以上の56万人が死亡者(その7割が女性と子ども)― という戦争犯罪のうち、最も残虐非道な原爆によるジェノサイド的殺戮、これに焦点を当てる裁判を米国内で展開し、米国政府を訴えようと考えたことは間違いない。そのことは、彼の小冊子『原爆民訟或問』の以下の文章からも明らかである。

 

私は昭和21年6月から2年有半に亘り東京に於ける極東軍事裁判に主任弁護人の一人として参加していました。其間終始私の念頭にありましたことは、戦勝国側の極めて重大な国際法違反が勝てるがゆえに何等その責任を問われない不公正でありました。

 

よって、私たちが原爆無差別大量殺戮を問題にするときに決して忘れてはならないことは、原爆攻撃は米軍が犯した多くの「空爆による無差別大量殺戮」の ― 最悪のケースではあるが ― 数多くの一連のケースの一つであるという事実である。言うまでもないことであるが、空爆として原爆攻撃だけが突然に行われたのではなく、欧州戦域での英米独軍の無差別空爆と、日本軍による中国ならびにアジア各地、米軍による日本各地への無差別空爆が最終的に行きついた最凶の結果であった ― そのことを私たちは忘れてはならない。

 

*アメリカの無差別空爆殺戮で大量の死傷者を出した日本政府と天皇制イデオロギーの責任

 

すでに述べたように、米軍による日本全土にわたる(原爆を含む)無差別空爆大量殺戮による推定死傷者102万人、その半数以上の56万人の死亡者(その7割が女性と子ども)― この犠牲者数から見てそれはまさにジェノサイドと称すべき戦争犯罪であったが ― に対する責任は、実際には米国だけにあるのではない。このような歴史上きわめて稀な無差別空爆大量殺戮の大被害を産んだ責任は、当時の日本政府にもあることを忘れてはならない。そのことをここで、できるだけ簡潔に議論しておこうと思う。

 

1933年8月9日から11日の3日間にわたって、東京を中心とする関東地域で「関東防空大演習」と銘打った大々的な演習を実施したが、その真の目的は「防空」にではなく、国民の非常時意識を高めると同時に日本軍の「防衛力」を誇示することによって、国民の統制・支配を強化することにあったものと推測される。

 

「関東防空大演習」では最新型高射機関銃のデモンストレーションも行われたが、その後の爆撃機の急速な大型化、飛行能力と爆弾搭載能力の発展などに伴い、爆撃機を撃ち落とすための高射砲の開発も進んだ。しかし、米軍が後年に大量に活用するようなる、1万2千メートルまで上昇できる爆撃機B29を撃ち落とすことができるような高射砲の開発を、日本軍は怠った。太平洋戦争開戦直前には、日本全土の防空兵力の合計は、高射砲458門、飛行機133機であったが、南北に長くのびた日本の全国土を守るためには、高射砲の数も飛行機の数も、これでは全く不十分であった。つまり、日本は、国民の生命・財産を守るための「防空戦略」を全く持たないままで、無謀な国家総力戦へと突っ込んでいった。戦争末期になってもほとんど「無防備状態」とも言えるこうした状況は、基本的には変わっていない。

 

日本は1937年に「防空法」を成立させたが、その実体は「防空演習法」と呼ぶべき内容のものであった。つまり、この法律の実際の目的は、国民の生命・財産を敵の空爆から守ることではなく、国民(特に当時の国内人口の大部分を占めていた女性)を防空演習・訓練に総動員することによって統制・支配することにあった。しかも、1941年の法律改正で、「退去の禁止」と「応急消火義務」が加えられることによって、原則として市民が「空襲避難」することは認められなかった。すなわち、焼夷弾が降り注いでも「避難することは許されず、消火作業に奮闘せよ」という命令であった。海外戦闘地域の前線で兵士たちが玉砕を強いられたのと同様に、いわゆる「銃後」の日本国内においても、実は「防空」という名称で、この「玉砕」の思想が、戦闘地域のようにはっきり見えない形ではあるが、国民全員(特に女性)に強いられていたことを明確に認識しておく必要がある。

 

この玉砕の思想は、言うまでもなく天皇制イデオロギーを抜きにして議論することは不可能である。日本のファッショ化過程は、ナチスのようにワイマール体制下のデモクラシーの規範を破壊する形で進んだのではなく、それとは逆に、既存の天皇制支配体制のさらなる強化という形で進んだ。すなわち、イデオロギー的には、家父長制的家族制度を基礎とする郷土=農村共同態への復帰、したがって、そうした共同態のイデオロギー的集合体としての「家族国家」観の異常なまでの強化、つまり天皇を全国民=赤子の神がかり的な「父」と崇める「家族国家」への強烈な「里帰り」という形をとった。日本のファシズムは、この天皇を中心軸とする「幻想の共同性」に支えられて初めて拡大することが可能であった。

 

大政翼賛会の基礎単位であった「隣組制度」(ほぼ10戸の家族を1グループとする)を防空の基礎単位とも位置づけ、空襲時には町内の治安維持のために隣組防空群が警察や警防団に協力する体制を普段から整備しておくことが重視された。隣組の数は、1943年までに全国で120万に達したが、家族国家イデオロギーがこの「隣組」にまで当てはめられ、「隣組は一家」でなくてはならず、これこそが「皇国一家の基礎単位であり、八紘一宇の具体化のための第一歩」であるとされた。こうして隣組は「家族国家」という国家イデオロギーの中に堅固に組み込まれ、隣組メンバーは全て「天皇の赤子」であるとされた。しかし、通常「赤子」を守るのが父母であるのに対し、国民を「赤子」と見なす「天皇」と彼を取り巻く軍指導者や政治家は、実際には「赤子」の命を極端に軽視し、国家権力を掌握している自分たちのためにはいつでも犠牲にすることを厭わなかった。皮肉にも、本来は国民生命・財産を守るために設置されるべき「防空体制」の目的が、実は国家による「国民生命の軽視と犠牲」であった。この事実がまざまざと「防空法」と「隣組制度」に表れている。

 

天皇の「赤子」である国民の生命を軽視する最極端のケースが、敗戦間際になって「防空」の最前線へと送り込まれた「神風特攻隊」の若い6千名を超えるパイロットたちであった。天皇の戦争それ自体が、つまり降伏も捕虜も許さない天皇の軍隊そのものが、とてつもない狂気(非合理)の産物であったわけであり、世界にも稀な残忍な「特攻」自爆と同様に、「本土決戦」という、これまた狂気的な戦略そのものが、天皇の軍隊による戦争の論理の必然的な帰結なのである。

 

しかも、「国体維持」、すなわち天皇制維持(天皇裕仁の命の保障をも意味する)という条件付きでの降伏を米国に受け入れさせるためだけにやたら戦争を長引かせ、結局は 戦略上全く使う必要のなかった原爆を米国に使わせてしまい、21万人以上の生命を失わせた。

 

したがって、天皇制ファシズムにおける日本の総力戦体制確立の努力が、結局は、総力戦にとって最も重要な人的資源である将兵と市民の両方の「玉砕」=自己破壊という極端な矛盾を産み出したのも当然の帰結であった。しかも、そのような総力戦体制の中に植民地であった朝鮮・台湾からの多くの市民が組み込まれて、「日本人の自己破壊への道連れ」を強いられた。

 

日本の戦時中の空爆問題を議論するとき、日本の「防空体制」は、このような狂気(極端な非合理性)を最初から含んでいたということを私たちは忘れてはならない。その狂気の源泉であった天皇制イデオロギーは、戦後も現在まで日本社会の隅々にまでしっかりと生き残って日本人の思考に影響を与え続けている ― それが日本の「民主主義」を強く歪めていることに、政治家だけでなく、ほとんどの国民が気づいていないことが日本の悲劇なのである。

 

*無差別空爆大量虐殺の被害を日本にもたらした日米両政府の責任を同時に追求する必要性!

 

原爆問題に議論を戻そう。原爆を議論するとき、なぜか私たちは他の無差別空爆 ― 米軍による東京や神戸など他の諸都市への焼夷弾による大空襲だけではなく、とりわけ日本軍による重慶や南京などへの空爆による多くの中国人被害者のこと ― はすっかり忘れて、もっぱら「被爆者と核兵器」だけに焦点を当て、「核兵器廃絶」が達成されさえすれば「全てめでたし」と言わんばかりの反核市民運動が進められてきたのではなかろうか。

 

「反核=核兵器廃絶」にのみマトを絞る運動だけを必死でいくら進めても、「核兵器廃絶」という目的を達成することは不可能だというのが私の信念である。反核運動と並行する形で、いかなる種類の爆弾が使われようと、無差別空爆殺戮が由々しい「人道に対する罪」であるという認識が普遍的な考えとして世界各地の人々の意識に強く、深く、広く浸透しない限り、その目的達成はいつまでたってもできないと私は考える。

 

アジア太平洋戦争後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガン・イラク戦争、ウクライナ戦争、ガザ攻撃等々で大規模な無差別空爆殺戮が展開されるたびに、「核兵器使用」の危険性が取り沙汰されるのが常である。この歴史的事実をもう一度真剣に考えてみる必要が、日本市民、とりわけ広島・長崎市民にはあると私は思う。

 

すでに述べたように、ニュルンベルグ裁判でも東京裁判でも、日独両軍が犯した無差別空爆も連合軍側が犯した無差別空爆も、それらの犯罪性を本格的に法廷で審理することは全く行われなかった。それゆえ、第2次世界大戦後に起きた上記のような幾つもの戦争でも、とくに米軍は次々と強力な新型爆弾や枯葉剤、ミサイルなどを使って凄まじい無差別空爆を世界各地で展開し、しかも核兵器使用という脅威をちらつかせる行動 ― それは「平和に対する罪」― を長年にわたって現在まで続けてきた。その上、米国は昨年度だけでも179億ドル(約2.7兆円)という過去最高額の軍事支援で、ガザに対するイスラエルによるジェノサイド空爆という凄惨な戦争犯罪に深く加担し、今も加担し続けている。

 

このように無差別空爆大量殺戮の戦中・戦後史を考えるならば、日本がアジア太平洋戦争末期に体験した米国の無差別空爆の罪と責任を問うということは、戦後から現在に至るまで無差別空爆をさまざまな形で続けている米国の罪 ― その罪には「核抑止力」という「平和に対する罪」も含まれる ― と責任を追求することに直接つながっているのである。言い換えれば、長年にわたるそのような米国の犯罪と加害責任を追求することは、被害者が二度と同じような被害者を世界のどこにも出させないよう加害者に迫る倫理的責任を、自分たちが被害者として負っているということである。

 

戦争責任は、単に加害者だけにあるのではない。被害者もまた、同じような残虐非道な犯罪を誰にも二度と犯させないという、未来に向けての努力を常に行う倫理的責任を、加害者と同じ人間として人類全体に対して負っているのである。このことを広島・長崎市民を含む日本の全市民は、深く自覚すべきである。

 

具体的に言うならば、イスラエルのガザ空爆によってこれまで殺害された4万5千人以上の人々(その多くが子ども)に対する、イスラエル政府の罪と責任 ― さらには米国の加担責任 ― を徹底して追求することは、同じ戦争犯罪の凄まじい被害と加害の両方の体験をもつ私たち日本人が、人間として負うべき倫理的責任であると私は考える。

 

ところが、広島平和公園内の広島平和記念資料館(いわゆる「原爆資料館」)も国立広島原爆死没者追悼平和祈念館のどちらの展示にも、原爆無差別大量虐殺が重大な戦争犯罪であり、その罪を犯した責任は今もアメリカ政府にあるという明々白々の事実については一言も記されてはいない。それどころか、「原爆無差別大量虐殺という犯罪を犯した加害国はアメリカである」という事実に言及する展示物あるいは記念碑は、平和公園内のどこを探しても見つからない!どうりで、アメリカ大統領オバマが平和公園で演説したとき「空から死が降ってきた」と、あたかも原爆が天災であるかのような表現をしたのも不思議ではない。本来ならば、アメリカはこの広島で原爆による無差別空爆大量虐殺を犯したにも関わらず、戦後も世界各地で無差別空爆大量殺戮という大罪を繰り返しているという事実についても、平和公園からのメッセージとして発信すべきなのである。

 

加害国がどこの国なのか、その情報が平和公園のどこにもない ― この摩訶不思議な事実に、広島の被爆者団体や反核市民運動家たちは、一体全体気がついているのだろうか?もし気がついているとしたら、なぜゆえ広島市と日本政府に対して早急に対応を迫る要求運動を行わないのであろうか?

 

この問題については、2023年9月25日のこのブログの記事「核兵器を抱きしめて(3)」でも詳しく書いておいたように、広島市当局がこれまでに米国の責任問題に触れたことはほとんどない。同時に、この同じブログ記事で私は次のようにも書いておいた。

 

しかし、あえて私はここで述べておくが、米国の過去の「平和に対する罪」と「責任」を追求してこなかったのは、市当局をはじめ歴代の広島市長 - 平岡敬のような例外はあるが - や歴代の首相をはじめとする大多数の日本の政治家たちだけではない。多くの被爆者や一部の反核活動家たちもまた、同じ過誤を犯してきた。彼らは、米国の罪も責任も一切問うことなく、「謝罪してもらわなくても良いから、広島(平和公園)を訪れて欲しい」、「憎悪ではなく和解を」などという発言を繰り返し行なってきた。

 

*ノーベル平和賞授賞式演説の問題点

 

同じことが、昨年12月にノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中煕巳代表委員の授賞式演説についても言える。この演説の中で彼は、「(日本政府は)一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい」と、日本政府のこれまでの対応を強く批難した。ところが、アメリカの無差別空爆大量殺戮という「人道に対する罪」とその責任については一言も言及していない。そのアメリカは、原爆で亡くなった死者に対して償いは全くしていないどころか、原爆が戦争を終わらせたと、この80年の間、核ジェノサイドを正当化し続けているにもかかわらず。

 

田中煕巳代表委員の演説の内容は、もっぱら、この80年の間いかに被爆者が苦しい生活を余儀なくされてきたか、しかしそれにも関わらず核兵器廃絶運動にどれほど努力してきたか、という自己の被害の実相描写と核兵器廃絶運動の自己称賛だけに終わっている。

 

しかも、原爆では推定4万人(広島で3万人、長崎で1万人)という多数の犠牲者を出した朝鮮人被害者に対する言及は、海外在住の被爆者の一例として、「日本で被爆して母国に帰った韓国人被爆者」という表現で触れているのみ。当時なぜゆえにこれほど多くの朝鮮人が日本に住んでいたのか、それを世界に向けて知らしめるために「当時植民地であった朝鮮から日本への労働移住を強いられ、日本で被爆した……」という表現すら思いつかなかったようである。さらに、「原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていない」と、これまた被害者は自分たちだけで、東京大空襲をはじめ焼夷弾やその他の通常爆弾で死傷した日本全国の多くの被害者、さらには重慶や南京などの日本軍による空爆の中国人被害者たちに対しても、日本政府からは、同じように償いが一切なされていないことに、彼は全く想いがいかないようである。

 

つまり、アメリカの無差別空爆大量殺戮の被害者は、もっぱら日本人の被爆者である自分たちだけであるという、自己の「戦争被害」については常に強調するのであるが、ではそれほど酷い殺戮を行った加害者は誰なのか ― 原爆を使用した米国だけではなく、「防空」と称して住民に「玉砕」を強い、植民地から朝鮮人を労働移住させて「日本人の自己破壊への道連れ」にした日本政府 ― については全く明示しないのである。その意味では、日本政府の常套文句 ― 「唯一の被爆国、日本」― となんら変わらない。一体なぜこうなるのだろうか?

 

ちなみに、戦後の「平和」は「広島・長崎の犠牲」の基にこそ築かれたという、原爆犠牲の正当化が戦後間もなく日本で主張されはじめた。しかしながら、そのような「犠牲の正当化」は、戦争を非政治化させながら、実際には肯定的に受け入れているのであり、小田実は、敗戦国によるこの種の「犠牲の正当化」を、「戦勝国ナショナリズム」と対比させて「戦敗国ナショナリズム」と称した。もっぱら自分たちだけを極めて特殊な原爆無差別大量殺戮の被害者と看做し、焼夷弾や通常爆弾での無差別空爆大量殺戮の被害者たちを差別化する、しかし加害責任のある加害者が誰であるのかの確認はしない ― このような態度は「被爆者ナショナリズム」と称すべきものではなかろうか。

 

誤解しないでいただきたいが、原爆被害には、被害者一人ひとりにとって心身両面にわたる極めて特殊で困難な、ひじょうに重い健康被害を長年にわたって及ぼす放射線被害という問題があることを私は決して軽視しない。しかし、その特殊性だけを強調してもっぱら自己被害だけを特殊化することによって、核兵器以外の通常爆弾による無差別空爆大量殺戮の被害者を差別化する「核廃絶運動」では、無差別空爆大量殺戮をなくすことは不可能であり、したがって「核廃絶」も不可能である、と私は考える。

 

核兵器が持つ破壊力の恐ろしさを強調しながらも、同時にいかなる形での無差別空爆大量殺戮にも反対する市民運動を ― 過去と現在の両方の加害者の罪と責任を常に追求しながら ― 拡大・強化していく必要がある。なぜなら、過去の「戦争犯罪」と「責任」を追求しないままにしておきながら、現在の同じ「戦争犯罪」と「責任」の追求に成功するはずがないからである。

 

*結論

  

2023年9月25日のブログの記事「核兵器を抱きしめて(3)」に、私は以下のような文章を含めておいた。今回のこの3回にわたる議論の結論として私が言いたいことは、以下の文章ですでに発信済みであるので、それをそのまま引用することでこの連続論考を一旦終了させる次第である。ご笑覧に感謝いたします。

 

「これもあえて言っておくが、被爆者団体、とりわけ広島の被爆者団体や一部の反核運動組織は、もっぱら広島が原爆で受けた被害だけを訴え、日本がアジア太平洋地域で展開した(15年戦争だけではなく日清・日露戦争も含む)侵略戦争、ならびに朝鮮・台湾の植民地支配で犯した様々な残虐行為に対しては、ほとんど目を向けようとしない。そのような被爆者の中にあって、栗原貞子と沼田鈴子は凛然とした、素晴らしい例外的な存在であった。原爆資料館には、この二人の思想と活動を詳しく紹介するコーナーがあるべきなのだ

 

くどいようだが、前回の論考の結論部分で述べておいたことを、再度ここに記しておく。

 

自分たち自身が被害者となった米国の原爆無差別大量殺戮という犯罪の加害責任を厳しく問うことをしてこなかったゆえに、われわれ日本人がアジア太平洋各地の民衆に対して犯したさまざまな残虐な戦争犯罪の加害責任も厳しく追及しない。自分たちの加害責任と真剣に向き合わないため、米国が自分たちに対して犯した由々しい戦争犯罪の加害責任についても追及することができないという、二重に無責任な姿勢の悪循環を産み出し続けてきた。

 

こうした悪循環のゆえにこそ、日本では確固たる「人権意識」がいつまでたっても人々の内面に深く根ざすことがなく、民族差別、性/性的少数者差別、身体障がい者差別、被爆者差別、国籍差別など様々な差別が横行している。つまり、「人権」と「平和」の問題を真剣に考えずに長年蔑ろにしてきたからこそ、戦後80年近く経つ今も、日本の民主主義は形骸化しきっているだけではなく、ますます機能しなくなってきている。つまり、戦争責任問題は、まさに私たちの日々の生活の根幹ともいえる民主主義の本質の問題であることを、私たち一人ひとりが認識しなおす必要があるのだ。」

 

参考論考:

 

核兵器を抱きしめて(3)http://yjtanaka.blogspot.com/2023/09/blog-post.html

 

国家主義を突き破る人道主義 – 栗原貞子の思想と沼田鈴子の実践から学ぶべきもの – http://yjtanaka.blogspot.com/2018/08/blog-post_30.html

 

ノーベル平和賞と核兵器問題についての私見 - 平和賞に観る「反核運動」の政治的虚脱化 – http://yjtanaka.blogspot.com/2018/03/blog-post.html

 

― 完 ―

2025年1月21日火曜日

「下田裁判」判決文から日本被団協ノーベル平和賞受賞まで

 原爆無差別大量殺戮の罪と責任を再考する

 

第2回

「原告の損害賠償請求権は存在しない」という判決支離滅裂の法理論?!

 

 

*被告=日本政府の「個人の損害賠償請求権」に関する判断の問題点

 

さて、今回は「下田裁判」判決文を私が「画期的判決」と見做すことなどは全くできないと主張する第2のそして最も決定的な理由について議論してみたい。

 

「下田裁判」が審理した最も重要な問題は、日本政府が195198日に米国を含む連合国諸国と締結した平和条約通称「サンフランシスコ平和条約」(以下、「平和条約」と略)の第19条の(a)で、以下のように、原告=被爆者たちの米国政府とトルーマン大統領に対する損害賠償請求権を勝手に放棄してしまったという原告側の訴えである。それは明らかに違法行為であり、よって国家賠償法第1条の規定により、被爆者が被った損害を賠償する責任を日本政府は負う、というのが原告側の主張であった。

 

19

 (a) 日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。

 

原告側は、この平和条約第19(a)によって、日本政府は国際法上の請求権のみならず、国内法上の請求権をもあわせて放棄してしまい、その結果、「原告等は米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を法律上全く喪失した」とも主張。

 

この原告側の主張に対して、被告である日本政府はさまざまな反論を展開したが、その中には以下のような主張が含まれていた。

(1)当時、原子爆弾使用を禁止する実定国際法は存在しなかったから、国際法違反とはいえない。

(2)原爆が使用されたことで日本はポツダム宣言を受諾し、日本の無条件降伏の目的が達成されたのであり、よって戦争継続によるさらなる人命殺傷を防止することができた。

(3)戦争は国家間の利益紛争の解決手段であって、よって戦争でとられる行為の適法性はもっぱら国際法によって評価されるものであって、当事国が国内法により直接相手国民に対して損害賠償の責任を負うことはない。つまり、国家免責の法理によって、米国政府の(大統領や閣僚、軍人などの)公務員に対して損害賠償を請求する権利は認められていない

(4)個人は原則として国際法上の主体とはなり得ない。米国に対して損害賠償を請求しうる地位にあるものは、日本国であって、原告等個人ではない。よって、原告等の主張する損害賠償請求権は観念的なものであって、権利として実行される手段も可能性も備えていない。ときとして、個人が国際法上の主体となることがあるとしても、それは条約その他の国際法にその趣旨の規定があるとか、個人に国際司法裁判所に対する出訴権が認められた場合に限られる。

(5)よって、平和条約第19(a)で放棄した「日本国民の権利」は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すもので、個人の請求権まで放棄したものではない。仮に個人の請求権を含む趣旨であると解釈したとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまっており、国民自身の請求権はこれによって消滅しない。

 

以上のように、被告の日本政府は、米国政府にはもちろん日本政府にも、原爆無差別大量殺戮の被害者に対する損害賠償責任は一切ないと主張しているのである。それどころか(2)のように、原爆無差別殺大量殺戮という由々しい戦争犯罪を、米国が正当化した論調を積極的に評価しそのまま応用するすなわち「人道に対する罪」を完全に無視する論調を、破廉恥にも法廷という場で展開したのである。

 

驚くべきことは、被告としての論述を準備した日本政府側のスタッフには、原爆無差別大量殺戮がニュルンベルグ原則で確定された国際的な三大犯罪「平和に対する罪」、「戦争犯罪」、「人道に対する罪」の全てに、とりわけ「人道に対する罪」に該当するという認識が全く欠落していたように思われる。それだけではなく、この「人道に対する罪」が条約化されたものが、1948129日に、第3回国際連合総会決議260A(III)にて全会一致で採択され、1951112日に発効されたジェノサイド条約であり、原爆無差別大量殺戮は、この条約にも違反する犯罪であったということを認知する法学的知識と判断力すら被告側は欠いていたようだ。

 

「下田裁判」が民間訴訟であり刑事裁判ではなかったとはいえ、原爆無差別殺大量殺戮がもたらした残虐極まりない被害に対する損害賠償請求権を審理する裁判であったのであるから、原爆無差別殺大量殺戮が法理論的にいったいどのような犯罪であったのかについては詳しく知っておく必要があったはずだ。

 

ところが、「原告等の主張する損害賠償請求権は観念的なものであって、権利として実行される手段も可能性も備えていない」とか、条約では最初から「放棄できない個人の請求権を放棄したと記載しているにとどまっている」のだなどと、法理論的にもめちゃくちゃな、単なる「言葉の遊び」による誤魔化し、いや詐欺としか言いようのない下劣な主張を、恥ずかしくもなく法廷という場で堂々と展開したのである。「放棄できない個人の請求権を放棄したと記載」しなければならなかったその理由とは、いったい何だったのか!こんな愚鈍な主張は原告を愚弄する行為であることは、法律の専門家でなくても分かるはずである。

 

よって、このような被告=日本政府の主張に対して、原告側が、以下のように怒りの批判を浴びせたのも不思議ではない。

 

被告は、原告等の主張する損害賠償請求権は観念的なものであって、実現手段をもたないものであるから権利ではないと主張する。もし被告の考え方が認められるならば、戦時国際法は全面的に否定されることになるのであって、どれほど使用を禁止されている兵器を用いても、勝てば違法の追求を免れ、国際法を守っていても、敗れれば相手国の違法を追求できないということになり、従って勝つためには使用を禁止された兵器も使用せざるを得ないということを肯定する理論となる。自ら行使の手段を有しない権利は権利でないという被告の理論は、独断以外の何ものでもない。

 

原告等の権利は日本国によって行使されるのであって、民主国家は国民のためにあるのだから、自国の政府がこれを行使することができれば、それで十分であろう。自国の政府が国民のために働かないことを前提として、国際法上の権利を考えねばならないとするのは、あまりにも情けない理論だといわなければならない。

 

*被告の「個人の損害賠償請求権」解釈をそのまま追随した判事たち

 

このような原告側と被告側の議論の応酬を終えて、では判事たちはどのように判決文を書いたのであろうか。前回の論考でも厳しく批判しておいたように、判決文を書くに当たって、判事たちがニュルンベルク原則に注意を払ったことを示すような法理論の展開は、判決文のどこにも、かいもく見当たらない。

 

すでに幾度も私が批判しているように、この裁判が民事訴訟であり刑事訴訟でなかったとはいえ、原告である被害者は、原爆無差別大量殺戮これは「平和に対する罪」(国際条約・協定に違反する戦争の遂行)、「戦争犯罪」(一般住民の殺害、都市の理由なき破壊)と「人道に対する罪」(一般住民の殺害と絶滅)という由々しい犯罪の被害者であった事実を判事たちは深く考慮して判決文を書くべきだったのである。ニュルンベルグ原則の目的は、これら三つの重大犯罪の被害者と生存者を保護するために、加害者がどんな地位の人間であれ、また国内法で処罰されない場合でも、国際法で処罰されるための原則として打ち立てられたものであるそのことに判事たちも、被告側と同様に、なんら注意を払っていないあるいはニュルンベルグ原則について全く無知だったのかもしれない。

 

判決文を読んでみると、判事たちは、このニュルンベルグ原則を全く無視して、あくまでも被爆者を単なる「民事訴訟の原告」としてしか見ていないことがはっきりと分かる。例えば、上記した被告の主張(4)との関連で、個人に国際法上の損害賠償請求権を認めた条約の一例として、第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約その他の講和条約の各経済条項を判決文は取り上げている。このヴェルサイユ条約に基づいて、ドイツ領内にあった同盟及び連合国の国民の財産、権利または利益に関して受けた損害については、個人がドイツ政府を相手に損害賠償請求権を有していたことを判決文は指摘している。ところが、この条約での「損害賠償請求権は同盟及び連合国の国民に限られており敗戦国の国民には出訴権が認められていないから……、これを根拠として個人の国際法上の権利主体が一般的に認められ、国際法上主張する手続きが保証されたというにはまだ不十分」と断定している。かくして、損害賠償請求権を単なる経済的な問題としてしか捉えておらず、「戦争犯罪の被害者・生存者の保護」というニュルンベルグ原則の根本的な法理論的目的の観点が、判事たちの頭からはスッポリと抜け落ちているのである。

 

さらに判決文は、上記した被告の主張(5)をそのまま受け入れるどころか、さらに強く支持して、平和条約に記載されている賠償請求権は、あくまでも日本国の国家としての賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すもので、それは実体的な権利である「日本国民」の「米国・米国民に対する損害賠償請求権」ではないと主張。つまり、国際条約では個人の請求そのものが提出されるわけではなく、国家自身の請求として提出される、と主張。「国家が自らの判断により決定し、しかも自らの名において行使するのであって、国民を代理するわけではない」ので、「個人が国際法上の権利主体であると考える余地はない」と、原告の主張をバッサリとひと蹴りしてしまっている。

 

そして結論では、「対日平和条約以前に、条約の規定をまたず当然に、個人に国際法上損害賠償請求権が認められた例はないから」、平和条約は「日本国民個人の国際法上の損害賠償請求権を認めたものではなく、従ってまた、それを放棄の対象としたわけでもない」と主張。よって平和条約で放棄されたのは、「日本国民の日本国及び連合国における国内法上の請求権である」と述べる。ところが、日本国内法ではもちろんのこと、主権免責の法理を採用している米国で、日本国民が「米国・米国民に対する損害賠償請求権」を主張することは、米国内法の観点からみても不可能であるから、実際には国内法上の「損害賠償請求権」も存在しないのだという判断である。

 

よって、判決文は、原告である被爆者たちは喪失すべき損害賠償請求権利を、条約上も国内法的にも最初からもっていないのだと述べて、被告側の主張を全面的に受け入れ、原告の主張を完全に否定したのである。その結果、最初から原告等が持っていなかった権利を政府が放棄できるはずがないのであるから、「法律上これによる被告の責任を問う由もない」と、政府の無罪を主張したわけである。

 

*結論:憲法「前文」と「主権在民」原則を完全に無視した判事たち

 

要するに、判決文で判事たちは国際法の解釈について法理論的な難解な説明をあれこれともっともらしく述べ、なんとか判決文の体裁を整えようと苦心している。しかし、結局は、結論は被告である政府の主張を全面的に受け入れ、原告である被爆者の訴えを完全に拒否したのである。そして、どう考えても否定しようがない原爆無差別大量殺戮の犯罪性だけは認めそれも1899年採択のハーグ陸戦条約、1925年に署名されたジュネーブ議定書、1923年起草のハーグ空戦規則案など、戦前の国際法の判断だけを基準として、ニュルンベルグ原則を全く無視し、判決文の最後では、原告の被爆者たちのための救済策をたてることは、「もはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国家及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である」と、自己の責任から逃げている。

 

「下田裁判」判決文の決定的な問題は、国民の損害賠償請求権は、「国家が自らの判断により決定し、しかも自らの名において行使するのであって、国民を代理するわけではない」ので、「個人が国際法上の権利主体であると考える余地はない」という文章に明確に表れているように、判事たちの考えは日本国憲法の根本原理である「主権在民」をすっかり蔑ろにしていることである。

 

いまさら述べる必要も本当はないのであるが、「主権在民」の根本原理については、憲法前文で以下のように宣言されていることを指摘しておこう。

 

政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

 

とりわけ憲法111213条は、このことを具体的な形で保障している。よって、憲法で保障されている国民の「侵すことのできない永久の権利」である「基本的人権」(11条)、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(13条)を、国家権力が国際条約締結の際に蔑ろにすることは憲法違反である。国民の損害賠償請求権は国民諸個人の権利であって、国家が勝手に「自らの名において行使」できたり、国際条約の中で「存在しなかったことにしたり」できるものではない。

 

憲法98条(2)では「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定められている。しかし、同時に98条は「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めていることから、国民の権利を侵すような内容の条約を締結することは、条約そのものが効力を有しないのである。よって効力を有しないような条約を締結することは、当然に憲法違反とみなされるべきである。

 

判事ともあろう法律専門家たちが、なぜこのような憲法の基本的な原理を無視してしまったのであろうか?その答えは、当時の判事を含め法律家の多くは、戦前・戦中からすでに法律家として活躍していたということと関連しているのではないかと私は考えている。戦前・戦中の天皇制イデオロギーにどっぷり浸かった法曹界で活躍していた彼・彼女たちは、その法曹界が敗戦後に突然「民主化」され、「民主憲法」尊重主義に変わったとはいえ、その後も長く天皇制イデオロギーの残滓に無意識のうちに影響されており、「国家権力」を「国民の権利」より優先させてしまうという誤謬をしばしば犯している。

 

とりわけ天皇に対する「不敬罪」では、戦後間もなく刑法の「不敬罪」が廃止されたにもかかわらず、判事の中には天皇に対する「不敬罪」という旧刑法の観念を自分の頭から完全に除去することができなかった者が多くいた。たとえば、196912日に天皇裕仁を狙った奥崎健三の「パチンコ玉発射事件」では、東京地方裁判所の1審で「暴行罪」実際には「暴行罪未遂事件」だったという判決ではあったが、判決文の内容は重大な「不敬罪」という取り扱い方で、思い実刑判決の内容であった。2審判決では、奥崎の行動が憲法第1条の「日本国の象徴、日本国民統合の象徴としての地位を有する天皇に対する犯行」であると、まさに戦前・戦中の「不敬罪」を想起させる内容の驚くべき判決文となっている。

 

「国家権力」を「国民/外国人市民の権利」より優先させるという日本裁判所の悪癖は、残念ながら、その後も現在まで長く続いており、日本が犯した戦争犯罪たとえば、日本軍性奴隷制(いわゆる「慰安婦制度」)、徴用工強制労働、捕虜虐待などの被害者がこれまで訴えてきた数多くの損害賠償請求の訴えに対しても、ほとんどのケースで訴えを退け、日本政府には賠償金を払う責任がないという判決を下している。その意味で、「下田裁判」は、「国家権力優先」と「戦争被害者の人権無視」の先駆けとなったとも言える裁判だったのである。

 

このことを忘れて、「原爆投下を犯罪」として認め、判決文の最後では被爆者に対して「十分な救済策を政府が執るべき」だと、たった数行述べたことだけで、「画期的」判決文として称賛することが、いかに判決文の実際の内容を無視した軽薄な言動であるか!そのことを、とりわけ反核・平和市民運動に関わっている法律家や活動家は深く自覚すべきである!

岡本尚一弁護士

原告側の主任弁護士であった岡本尚一が松井康浩弁護士と一緒に、東京地方裁判所に訴訟を提起したのは1955年の4月。岡本は、19481210日に国連総会で採択された「世界人権宣言」と日本国憲法で規定されている「基本的人権」を損害賠償請求の根拠に位置づけ、同時にニュルンベルグ原則を原爆無差別殺戮にも適用させたいと考えていたことは、彼が裁判準備のために書いた『原爆民訴或問』という小冊子からも明瞭である。裁判でも、国民の損害賠償請求権を拒むことは「(財産)没収にも等しく、日本国憲法の基本理念である人権の尊重と相去ること甚だしい」と述べている。この裁判は、196312月の結審までに、なんと8年以上かかった。この間、裁判長は5度も交代し、岡本は19584月にその努力の成果を見ることなく脳卒中で亡くなった。

 

つまり、彼がこの裁判に関わったのは最初の3年ばかりで、その後5年続いた裁判で、もし岡本が存命していたならば、日本国憲法やニュルンベルグ原則をどのように活用して法廷で論述を展開したのか、それを我々が知ることができないのはひじょうに残念である。判決は原告側の完全な敗訴だったが、原爆使用が国際法違反という認定だけをあたかも「一部勝訴」のように華々しく取り扱うメディア報道などを評価して、控訴しなかったため判決は確定してしまった。もし岡本がその時点でも存命であったならば、おそらく彼は控訴して闘い続けたであろうと私は思う。

 

次回に続く