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2023年12月18日月曜日

“Politics of Memory”: Masha Gessen’s Hannah Arendt Prize Postponed for Comparing Gaza to Warsaw Ghetto

「記憶の政治」:ガザとワルシャワ・ゲットー(強制居住区)を比較したため、延期されたマーシャ・ゲッセンの「ハンナ・アレント賞」授賞式

 

1215日のDemocracy Now(今こそ 民主主義を)!」放送の日本語訳です。

https://www.democracynow.org/2023/12/15/politics_of_memory_masha_gessens_hannah

 

今日は、高名なロシア系アメリカ人作家であるマーシャ・ゲッセン氏に、お話を伺います。彼女の『ニューヨーカー』誌への最新寄稿論考は、ヨーロッパにおけるホロコースト記憶の政治性について考察しています。ゲッセン氏は本日1215日に、ドイツでひじょうに権威のある「ハンナ・アレント賞」を受賞する予定でした。ところが、彼女が記事の中でガザをワルシャワ・ゲットーと比較したことをめぐって、賞のスポンサーの一つが支援を取りやめたため、授賞式は延期されてしまいました。そのため、明日の土曜(16日)には小規模の授賞式が予定されています。ゲッセン氏によれば、ナチス政権の犯罪について学び、その罪を償うというドイツの文化は、イスラエルの(パレスチナでの)行為にもかかわらず、それでもイスラエル国家を強固に支持するものへと変質してしまっています。その一方で、反ユダヤ主義を撲滅するためだけという不備な理由で、ほとんどの親パレスチナ連帯運動を禁止しています。このような「記憶の政治」の核心となっているのは、「ホロコーストはいかなるものとも比較できない(「特殊なもの」:訳者付記)」という考えだとゲッセン氏は主張します。彼女いわく、「歴史から学ぶためには、比較しなければならないというのが私の主張です」。

 

エイミー・グッドマン:

こちらは「デモクラシー・ナウ(今こそ 民主主義を)!」です。戦争と平和に関するレポート。エイミー・グッドマンです。

高名なロシア系アメリカ人作家のマーシャ・ゲッセン氏は、ドイツで権威ある「ハンナ・アレント賞」を、本日(1215日)、受賞する予定でした。ところが、ゲッセン氏が『ニューヨーカー』誌に寄稿した「ホロコーストの影で」という表題の論考の中で、ガザをワルシャワ・ゲットーになぞらえたことを問題にして、賞の主たるスポンサー団体である、左派のハインリッヒ・ベール財団が賞への支援を取りやめたため、授賞式は延期されてしまいました。論考の副題は「ヨーロッパにおける記憶の政治が、現在イスラエルとガザで目にするものをいかに曖昧なものにしているか」です。ドイツのブレーメン市も、今日の授賞式が行われる予定だった会場を取りやめてしまいました。

マーシャ・ゲッセン氏は、この論考の中で、「この17年間、ガザは人口が超密集化し、貧困にあえぎ、壁で囲まれ、人口のごく一部が、ごく短時間しか外に出る権利を持たない、つまりゲットー(強制居住区)であった。ベニスのユダヤ人ゲットーやアメリカの都心部のゲットーのようなものではなく、ナチス・ドイツに占領された東欧諸国のユダヤ人ゲットーのようなものだ」と。

さらに、マーシャ・ゲッセン氏は、ガザを表現するのに「ゲットー」という表現があまり使われない理由についても書きました。いわく、「おそらく、このとても適切な表現である『ゲットー』という用語で、包囲されたガザ住民の苦境を、ゲットー化されたユダヤ人の苦境と比較したことで非難を浴びたのであろう。また、この『ゲットー』という言葉が、(本当は)今ガザで起きていることを明白に表現しているからでもあろう。かくして、『ゲットー』という表現は、清算されようとしているである」と。

マーシャ・ゲッセン氏の論考は、ドイツ国内でも怒りを買いました。「ドイツ緑の党」と密接な関係のあるハインリッヒ・ベール財団は、ゲッセン氏への受賞支援を取りやめるという発表の中で、ゲッセン氏の論考を批判し、「イスラエルが、(あたかも)ナチスのゲットーのようにガザを清算することを目的としている」と述べています。同財団はハンナ・アレント賞の授賞式から撤退しましたが、明日土曜日には、別の会場で小規模な授賞式が開催される予定です。

ゲッセン氏にとって、このドイツでの論争は、ウクライナ戦争についての(ロシア軍の残虐行為に関する)彼女の発言で、彼女がロシアの最重要指名手配リストに加えられた、わずか数日後のことでした。

マーシャ・ゲッセン氏に、ドイツのブレーメンから、お話を伺います。マーシャ・ゲッセン氏は、『ニューヨーカー』誌の専属作家で、近著に『Surviving Autocracy (生き延び続ける専制政治)』など多数の著書があります。

マーシャさん、「デモクラシー・ナウ(今こそ 民主主義を)!」へようこそ。まずはこの論争について、あなたが『ニューヨーカー』誌に書いたことを話していただけますか?授与式典が完全にキャンセルされたわけではありませんが、何が起こったのか説明してください。

 

マーシャ・ゲッセン   

マーシャ・ゲッセン:

エイミーさん、番組にお招きいただきありがとう。なにが起きたのか私にもその全容が理解できていないので、よく説明できません。と言うのも、ハインリッヒ・ベール財団がまず授賞式を辞退し、それがブレーメン市にも授賞式から辞退させ、賞の主催者側は最初は私に賞を与えるという決定を支持すると言ったにもかかわらず、授与式の翌日に大学で行われるはずであった討論会が中止されることになりました。これはたいへん興味深いことですが、大学側の説明は、討論を行うことは法律に違反すると考えたからだというのです。法律というのは、ボイコット、投資撤回、制裁運動などを禁止する拘束力のない決議のことで、法的拘束力はありませんが、ドイツでは大きな影響力を持っている法律です。しかも、それが私の論考の主要なテーマだと言うのです。

そこで今度は、賞の主催者側は、別の会場で小規模の授与式を行うと決めました。会場がどこになったのかについて、私は公言しません。なぜなら、ドイツ人が怖いからではなく、ロシアの動きが心配だからです。その後、ハインリッヒ・ベール財団は、ドイツのソーシャルメディアや従来のメディアで大騒ぎになった後、新たな声明を発表して、「受賞を支持するが、会場がキャンセルされたため授賞式は開催できず、延期となった」と述べました。ハインリッヒ・ベール財団が、この点で正直だとは言えませんし、(この説明とは違った)財団の最初の声明は記録に残っています。しかし、それが現在の私の置かれている状況です。

 

エイミー・グッドマン:

それでは、ハインリッヒ・ベール財団が物議を醸している核心についてお話を伺いましょう。あなたが『ニューヨーカー』誌に寄稿した、ガザとワルシャワ・ゲットーとの比較について話してください。

 

マーシャ・ゲッセン:

この論考で議論したことは、かなり広範囲にわたります。私がドイツ、ポーランド、ウクライナを旅し、それぞれの国における記憶の政治について語るという内容になっています。しかし、その大部分は、イスラエルとパレスチナにおける現在の戦争を、ホロコーストの視点を通して、あるいはホロコーストの視点を介して見ることの失敗を通して、どのように見たら良いのかという議論です。論考の大部分は、実際には、ドイツにおける記憶の政治と、イスラエルに批判的な人たちに関するもので、事実、その人たちはユダヤ人であることが多いのですが、そうした人たちを批判の主なターゲットとする、巨大な反・反ユダヤ主義(つまり反ユダヤ主義に反対する)構造に、私の論考は焦点を当てています。これは、私自身にも当てはまることです。私はユダヤ人です。ホロコーストの生存者を含む家族の出身です。私はホロコーストの影に隠れてソ連で育ちました。論考の表題は、こうした私自身の背景を意味していますし、記事の内容そのものからもきています。しかも、私はイスラエルに批判的です。

さて、ハインリッヒ・ベール財団とブレーメン市を、そして一部のドイツ国民を本当に怒らせたのは、あなたが先ほど読み上げた部分です。包囲されたガザ、つまり107日以前のガザと、ナチス占領下のヨーロッパのユダヤ人ゲットーを比較した部分です。私は意図的にそのような比較をしました。彼らが言うような挑発(目的)で書いたわけでは、全くありません。というのも、現在ヨーロッパやアメリカ、特にドイツで機能している記憶の政治では、その礎石となっているのが、ホロコーストは他の何ごととも比較できないものだという解釈です。ホロコーストは歴史の外にある、唯一の(ひじょうに特異な)出来事だと解釈されているのです。

私の主張は、歴史から学ぶためには、比較しなければならないということです。常に比較するということが行わなければならないのです。私たちは、90年前に生きた人々よりも優れた人間でも、より賢い人間でも、より教養のある人間でもありません。私たちが90年前の人々と違うのは、彼らの想像の中ではホロコーストはまだ存在せず、私たちの想像の中ではホロコーストが存在するということだけなのです。つまり、私たちはホロコーストが(現在も)起こりうることを知っているということです。ハンナ・アレントや、ホロコーストを生き延びた他のユダヤ人思想家たちが警戒し、特に第二次世界大戦後の最初の20年間に彼らが議論したのは、(大量虐殺という)暗闇に(人間が)陥る兆候をどのように見分けるかについてでした。

そしてもう一つ私が言いたいことは、国際人道法の枠組みは本質的にホロコーストに基づくものであり、ホロコーストの体験から生まれたもので、ジェノサイドの概念もそうです。そしてその枠組みは、戦争や紛争、暴力を常にホロコーストの視点を通して見ているという前提の上に成り立っていなければならない、と私は主張します。ホロコーストから生まれた定義である「人道に対する罪」が繰り返されているのかどうか、そのことを常に問いかけなければならないのです。そしてイスラエルは、ホロコーストを歴史の外に置くだけでなく、ホロコーストの記憶と政治を武器にすることで、自らを国際人道法の枠外に置くという、信じられないキャンペーンを成功裡に展開させてきたのです。

 

エイミー・グッドマン:

つまり、ホロコーストは別個のものであり、他の何ものとも比較できないという考えを通してホロコーストについて学ぶことと、それに対して、誰も「二度と起こしてはならない」ということをどのように確実にするかについて、もう少し話してください。

 

マーシャ・ゲッセン:

どこにおいても、誰にとっても「二度と起きない」ことを確実にできるかどうかは、分かりません。しかし、それを確実にしようとする唯一の方法は、ホロコーストが可能であることを知り続けること、アレントが「凡庸さ」と呼んだものからホロコーストが生まれる可能性があることを知り続けることだと思います。つまり、これはアレントが自著の『エルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』の中で主張した重要な点なのです。ちなみにこの本は、アレントがユダヤ人評議会*について書いた内容のせいだけではなく、この「悪の凡庸性」という表現のせいで、イスラエルの政治主流派からも、北米のユダヤ人政治主流派からも追放されたのです。なぜなら、ホロコーストを彼女が(「悪の凡庸性」という表現で)矮小化したと誤解されたからです。しかし、彼女が言いたかったのは、人類が証明した最も恐ろしいことは、実は何でもないようなことから芽生え、配慮の無さから芽生え、他人の運命について考えることに失敗したり、それを考えることができなかったりすることから芽生える可能性があるということなのです。私は彼女のこの説明を、イスラエルや北米のユダヤ人コミュニティがイスラエルによるガザへの猛攻撃を支持しているように、他者の運命を見ようとせず、圧倒的な世論を疑わないような状況に対して常に警戒するよう呼びかけているのだ、と解釈しています。今私たちが置かれているのは、最も暗い瞬間につまずくような状況なのです。

(*訳者補充説明:Judenrat「ユダヤ人自治組織」評議会のこと=ナチス・ドイツ占領下の東ヨーロッパに設置されたゲットーで、その運営を任されていたユダヤ人による「自治組織」の評議会)

 

エイミー・グッドマン:

ハンナ・アレントをご存じない人のために説明しておきますが、彼女はユダヤ人の哲学者であり、政治理論家であり、『全体主義の起源』や『人間の条件』、『悪の凡庸さ』の著者であり、マーシャ・ゲッセン氏が今執筆している『ニューヨーカー』誌のためにアイヒマン裁判を取材したこともある人です。

マーシャさん、先週、イスラエルによるガザ市への空爆で、高名なパレスチナの学者で、活動家でもあり詩人でもあったレファアト・アラリア氏が、彼の兄、妹、4人の姪とともに殺害されました。アラリア氏は16年以上にわたって、ガザのイスラム大学で英文学の教授として働き、シェイクスピアなどを教えていました。彼は「We Are Not Numbers(我々は単なる数字ではない)」という団体を共同設立した一人でした。この10月、「デモクラシー・ナウ!」は、ガザをワルシャワ・ゲットーに例えたレファアト・アラレア氏にインタビューしました。(その一部を紹介します。)

 

レファアト・アラレア:

ガザの写真をご観になるなら、大学、学校、モスク、企業、診療所、道路、インフラ、水道管など、完全な荒廃と破壊について私たちが話していることがお分かりになると思います。今朝、私はワルシャワ・ゲットーの写真をグーグルで検索して観てみましたら、(ワルシャワなのかガザなのか)見分けがつかない写真が出てきました。誰かが4枚の写真をツイートして、どれがガザの写真でどれがワルシャワ・ゲットーの写真か教えてほしいと頼んできました。過去のワルシャワ・ゲットーのユダヤ人であれ、ガザ地区のパレスチナ人、イスラム教徒やキリスト教徒であれ、加害者は少数派に対して、抑圧された人々、打ちひしがれた人々、包囲された人々に対して、ほとんど同じ戦術を使っているからです。だから、不気味なほど似ているのです。

 

ワルシャワ蜂起直後のワルシャワ・ゲットー

イスラエル軍の無差別爆撃で破壊されたガザ地区

エイミー・グッドマン:

次にご紹介するのは、『サクセション』で有名なスコットランド人俳優ブライアン・コックス氏が、エミー賞にノミネートされたばかりのビデオで、亡くなったレファアト・アラレア氏の詩 『If I Must Dieもし私が死ななければならないなら)』 を朗読している映像です。

 

(ブライアン・コックス 朗読)

もし私が死ななければならないなら

あなたは生きなければならない

私の物語を語るために

私のものを売るために

一枚の布と

糸を買うために、

(白くて尾の長いものを作り)

ガザのどこかの子供が

自分の目で天を見つめながら

火炎の中を颯爽と去っていったお父さんを待ちながら

誰にも別れを告げずに

自分の肉体にさえにも

自分自身にさえも......

凧を見てください、お父さんが作った私の凧を

凧が上がる、上空に

天使がそこにいると一瞬思うことで

愛を取り戻せる

もし私が死ななければならないなら

希望がもたらされるように

それが物語であるように

 

エイミー・グッドマン

パレスチナ文学祭「パルフェスト」が制作したビデオで、レファアト・アラレア氏の詩「If I Must Die」を朗読するスコットランドの俳優ブライアン・コックスさんでした。マーシャ・ゲッセンさん、レファアトさんとあなたのお二人がワルシャワ・ゲットーについて(同じようなことを)話していること、そして彼が他の多くのパレスチナ人と同じように、この攻撃で死ななければならなかったことの意味について、コメントしていただけますか?私たちがこうして話している間にも(死者は増え)、今やパレスチナ人の死者は19,000人、子どもは7,000人以上、女性は5,000人以上になっています。

 

マーシャ・ゲッセン:

彼がこのような比較をしたことは知りませんでしたが、特に驚きはしません。というのも、この比較は「凡庸」なものですから。私が訊ねたいのは、「なぜこのような比較がこれまでなされなかったのか?」ということです。少なくとも十数年前から、ある種の人権運動家たちの間では「野外刑務所」という比喩表現が使われてきました。しかし、「野外刑務所」は、107日以前のガザを表現するのに適していません。独房はありません。監視員もいません。規則正しい毎日のスケジュールもありません。あるのは隔離だけです。あったのは壁だけです。そこにあったのは、ごくごく少数の人を除いて、外に出られないことでした。そこにあったのは、壁を築いた人々によって、部分的にはハマスによって、秩序を維持し、部分的には壁を築いた人々の必要性に奉仕する、現地の力でした。イスラエルがガザから撤退する際に交わした取引は、ハマスがガザの秩序を維持するというものでした。そして、(その二つのグループには)明らかに大きな違いがありました。私は、それらが11の比較関係にあるとか、11の比較関係が存在するなどと主張しているわけでは決してありません。そんなものは、ありはしません。しかし、私が主張しているのは、(その二つのグループには)類似点が非常に多いということであり、それが実際に今起きていることの理解に役立つということです。

そして今起きていることは ― これはおそらく、部屋中に投げ捨てられた多くの人々のノートパソコンの中に入っている文章のセリフだろうと思いますが ― 「ゲットーが清算されつつある」ということです。それは、単に物事を呼び起こすことが重要だからというだけではなく、可能な限り最善の方法で物事を表現することが重要だからということでもありません。無差別殺戮や、ガザ住民のほとんど全員を避難させ、ホームレスにしてしまう猛攻撃を目の当たりにしている今現在が、ホロコーストのときに見たのと同じような状況だとしたら、世界はそれに対してどうするつもりなのか。「二度と繰り返してはならない」という名のもとに、世界は何をしようとしているのか、ということです。

 

エイミー・グッドマン

マーシャ・ゲッセンさん、親パレスチナ派とみなされる人たちの講演やフェスティバルのキャンセルが増えています。あなたは何年もバード大学で教えています。アメリカ中の教授や学生がどのような圧力にさらされているか、もちろんご存知でしょう。あなたは今ドイツにいます。こうした状況についてコメントいただけますか?これを「新しいマッカーシズム」と呼ぶ人もいます。しかし、興味深いことに、あなたのように抗議者の多くはユダヤ人であり、ユダヤ人学生、ユダヤ人教授です。しかし、この授与式典が最初に中止され、次に延期されたとき、報道陣からどのような反応がありましたか?雪崩を打つような関心増大だったのでしょうか?特にドイツでは、グレタ・トゥンベルクのような若い気候変動活動家が発言しました。若い気候変動活動家であるグレタ・トゥンベルグのような人たちが、ガザのために声を上げ、ドイツのマスコミから非難を浴びました。

 

マーシャ・ゲッセン:

面白いご質問です。というのも、この事態を伝えるEメールで私は目を覚ました後、ブレーメンに向かっており、そのときメディアの報道を目にし始めましたが、多くは不正確なものでした。例えば、受賞が取り消されたなどと報道していましたが、そんなことはありませんでした。審査員の方々はとても毅然としていて、感謝の言葉しかありません。この論争の結果、彼らがどれほどのプレッシャーにさらされているか、にもかかわらず、彼らは私をかばってくれたのだと思います。でも、私は彼らにとてもよく受け入れられ、支えられていると感じています。しかし、メディアはいろんなことを報道していたし、私に関する経歴上の事実に関してもでっち上げていました。

その間、ドイツの記者は一人も私に接触してこなかったし、接触してきたアメリカの記者は、ワシントン・ポスト紙の記者一人でした。だから私はそのことをツイートしました。そして、私たちがすることは、人々に電話をかけ、実際に何が起こったのかを突き止めることだと、ジャーナリストたちに思い出させたのです。だから、私はこの28時間、ノンストップでメディアと話し続けています。ツイートしなければよかったと思うほどですが、こうした会話を有意義なものにすることはとても重要だとも思います。だから、私は主にドイツのメディアに集中して対応しています。私が耳にしたことのあるドイツのメディアは、すべて私に接触してきました。だから、彼らが私に発言権を与えたくなかったわけではないと思います。彼らはニュースを「集める」という習慣に浸りすぎていて、彼らの職業の本質は、実際に人々に電話をかけて尋ねることだということを忘れてしまっているのです。

 

エイミー・グッドマン

本当は静かな場所へ行かれたら良いのでしょうがね。 マーシャ・ゲッセンさん、別の問題についてもお聞きしたいと思います。ロシア警察は最近、ロシア軍に関する虚偽の情報を広めた容疑であなたを刑事犯罪者として立件し、指名手配しました。クレムリンは、昨年3月にブチャ市で起きたロシア軍によるウクライナ市民の虐殺に関するあなたの発言について、虚偽の情報を広めたとしてあなたを告発していますが、これについてコメントいただけますか?

 

マーシャ・ゲッセン:

いやまったく、この1週間はかなり長かったです。自分がニュースになるのをやめたい気分です。でも、私がロシアの指名手配リストに載り、ドイツ当局とトラブルを起こしていることは、私にとってはおかしなことではありません。というのも、ある種の政治 ― これは先の質問の最初の部分であなたが言及したことですが ― ある人たちが「新しいマッカーシズム」と呼ぶ現象が存在するからだと思うからです。

私にとって、ここドイツでもアメリカでも、西欧諸国の国内政治で最も懸念されるのは、右翼が反ユダヤ主義の馬に乗っていることです。ドイツでは、極右の反移民政党であるAfDが、反ユダヤ主義を政治的主流派への切符として、また多くの反イスラエル政策の声(その多くはユダヤ人によるものなのですが)に対抗する棍棒として利用しているのです。アメリカの大学学長たちが連邦議会に呼ばれたことと、よく似ていると思います。これはエリス・ステファニック*が政治的脚光を浴び、政治的主流になるための切符でもあるわけです。しかし、それはまた ― これが本当に重要な部分なのですが ― 深く反ユダヤ主義的な世界観に基づいているのです。エリス・ステファニックは、リベラルな教育機関を攻撃し、アイビーリーグ**の大学を攻撃するために、これらの大学の学長を利用しているのです。そして、彼女の想像の中では ― そして、彼女の想像がそのように働いていることを私たちは十分に分かっているのですが ― これらの教育機関を弱体化させるために、寄付者に資金提供を取り下げさせようとしているのだと思います。そしてもちろん、彼女の想像の中では、ユダヤ人がすべての資金を支配しているので、寄付者はユダヤ人なのです。これは、最も基本的な反ユダヤ主義の典型なのです。

そして、右派が反ユダヤ主義の問題をこれほど効果的に乗っ取ることができるという事実は、実に危険なことです。なぜなら、反ユダヤ主義は本物なのですから。右派の政治家や愚かな政治家が、実際の反ユダヤ主義と偽の反ユダヤ主義 ― 偽の反ユダヤ主義とは、つまりドイツではイスラエル関連の反ユダヤ主義と呼ばれている、基本的にイスラエルの批判なのですが ― 、その二つを混ぜ合わせることで、結局、ユダヤ人が利用され、反ユダヤ主義的な世界観が再確認されるという混濁した図式になり、最終的には、実際の反ユダヤ主義がより大きく危険になるわけです。

 

(訳者補充説明 *:エリス・ステファニックは、共和党員の米連邦議会下院議員、ドナルド・トランプの強力な支持者。今月、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、ペンシルバニア大学の学長たちに対する反ユダヤ主義問題での連邦議会公聴会で、彼女は全く非論理的でメチャクチャな批判的質問を学長たちに浴びせかけて注目を集めた。しかし、あくまで私見であるが、これに対する3大学の学長たちの答弁を聴いていると、あまりにも怯えた調子であることに情けなくなる。なぜ堂々と「イスラエル政府批判は反ユダヤ主義とは全く別物である」と応えられないのか。

**アイビーリーグとは、ハーバード、イエール、コロンビア、プリンストンなど米国の8つの歴史ある私立大学を指す。)

 

エイミー・グッドマン

そして私は、ホロコーストのもうひとつの犠牲者であるLGBTQ+コミュニティに関する質問でで終わりたかったのですが。ロシアの最高裁判所は最近、LGBTQ+の活動を禁止する歴史に残るような判決を下し、アムネスティ・インターナショナルは「恥ずべき不条理」だと非難しました。国際的なLGBTQ+運動は過激派であるとするこの判決は、すでに迫害されているコミュニティをさらに危険にさらす恐れがあります。マーシャさん、そもそもあなたがソビエト連邦を離れ、ロシアを離れた理由のひとつはそれではないのですか?まだ少し時間がありますが、コメントをいただけますか?

 

マーシャ・ゲッセン:

私がロシアを離れなければならなくなって、来週で10年になりますが、10年前のそのとき、ロシアではすでに反同性愛キャンペーンが展開されており、クレムリンが私の家族を狙っていると脅していたからです。

 

エイミー・グッドマン

マーシャ・ゲッセン氏は、『ニューヨーカー誌』の専属作家であり、バード大学の著名なライター・イン・レジデンス、多くの受賞歴のあるロシア系アメリカ人ジャーナリストで、最近の著書に『Surviving Autocracy (生き延び続ける専制政治)』など多数の著作があります。マーシャさんの『ニューヨーカー』誌での最新論考は、「ホロコーストの影で」という見出しがついており、副題は「ヨーロッパにおける記憶の政治が、現在イスラエルとガザで目にするものをいかに曖昧にしているか」です。マーシャ・ゲッセンさんは、ハンナ・アレント賞の授賞式が行われるドイツのブレーメンから取材に応じてくださいました。しかし、授賞式は別の会場で行われるはずで、当初予定されていたほど多くのスポンサーが賞のスポンサーとはなっていません。

 

訳者 後書き

マーシャ・ゲッセンが明言しているように、ユダヤ人であるハンナ・アレントは決してホロコーストを、何ものとも比較できないような特異な事象とは考えておらず、同じような大量虐殺はどこでも起き得るし、起きるときには誰もが加担する可能性を持っていることを、彼女の多くの著作の中で鋭く指摘した。したがって、イスラエル軍が現在ガザで行っているパレスチナ人ジェノサイドをホロコーストと比較することは、ハンナ・アレントの考察方法の応用として当然なされるべきことである。ところが、驚くべきことに、こともあろうか、この「ハンナ・アレント賞」の受賞者であるマーシャ・ゲッセンが、彼女の論考の中でワルシャワ・ゲットーとガザ地区の類似点を指摘したという理由で、賞の一大スポンサーであるハインリッヒ・ベール財団が賞の支援を止めるという行動に出たのである。ハインリッヒ・ベール財団のスタッフの中に、「ハンナ・アレントの著作を読んだ者がいないのか?」と訊きたくなる。「一体、何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか?」と言いたくなる。

  ドイツでは、ナチス軍が行ったホロコーストをはじめ様々な残虐行為の歴史について詳しく教え、ドイツ人の戦争責任に関する教育文化がしっかりと根付いていることは周知のところである。しかし、ホロコーストという歴史のために、イスラエルに対して自責の念が強いためか、イスラエル政府がこれまでパレスチナ人に対して犯してきた様々な非人道的な残虐行為については、ドイツ政府は非難の声を上げないどころか、黙認または支持してきたし、今回はイスラエル政府を強固に支持する姿勢をとっている。ドイツの人たち、とりわけ政治家たちに、「ここでもう一度、ハンナ・アレントやテオドール・アドルノの戦争責任問題に関する秀れた著作を熟読すべきでは?」と言いたくなる。

  私自身も、ハンナ・アレントが自著『責任と判断』(筑摩書房 2007年)で展開した、ホロコーストに対する責任の取り方に関する議論を、原爆無差別殺戮を犯した米国がとるべき責任の取り方に応用する議論を、拙著『検証「戦後民主主義」わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房 2019年)第5章(英語著書 Entwined Atrocities: New Insights into the US-Japan Alliance, 7章)で述べておいた。

  ただし、私が気がかりなことは、イスラエル政府の「ホロコーストはいかなるものとも比較できない特殊なもの」という強固な信念から、人類史上、自分たちほど被害にあった民族はないと信じて疑わない、そのことである。その信念が、自分たち自身が、同じような大量無差別殺戮を他民族に対して犯しているという現実を全く見えなくしてしまっているという、自己盲目化現象 ― これを私は「戦争被害者ナショナリズム」と呼ぶ。(イスラエルの場合には「ホロコースト・ナショナリズム」と呼ぶべきか?)しかし、よく考えてみれば、この「戦争被害者ナショナリズム」は、実は他人事ではないことである。

実は、イスラエルほど強度ではないにしても、同じような傾向が広島にもあると私は以前から考えてきた。「原爆無差別大量殺戮は、人類にとって極めて特殊な残虐行為で、比較できるものがない」という考えが被爆者をはじめとする広島市民のみならず、多くの日本人の共通観念となっている。

確かに、原爆には「きわだった特殊性」がある。しかし、厳密に言えば、特殊性があるのは原爆だけではない。とりわけ被害者一人ひとりにしてみれば、焼夷弾であろうと、枯葉剤、白燐弾、ウラン弾であろうと、それぞれが特殊な爆弾の被害者であるという思いがあることを忘れてはならない。必要なことは、それぞれの特殊性を明確に認識しながらも、誰もが「無差別大量殺戮」の犠牲者であるという共通点に常に視点を当てることの重要性である。「無差別大量殺戮」の普遍性に対して、「これをどうしたら繰り返さないようにできるのか」という問題に、いかに一致団結して運動を展開していくのか ― こうした展望は、自分たちの被害の特殊性だけを強調し、他の被害者を無視しているのでは、決して開けてはこない。

さらに重要なことは、そうした被害を作り出した日本の加害責任にも同時に、広島から視点を当て続けていくことが、「二度と繰り返さない」という展望に向かって運動を推進していくためには必要不可欠なことである。日本軍もまた、上海、北京、南京、重慶など、中国の様々な都市に対して無差別爆撃を数多く行い、子どもや女性を含む無数の市民を殺害した。こうした自他両方の無差別爆撃ケースの「比較」ができないようでは、「二度と繰り返さない」という展望は芽生えてはこない。この自分たちの加害責任の追求という点で、広島は情けないほど無自覚的である。つまり、広島も、さらには日本全体が「戦争被害者ナショナリズム」に浸りきっている、と私はあえて主張しておきたい。日本政府が常に使うプロパガンダ的表現、「唯一の被爆国」も、この「戦争被害者ナショナリズム」の表れである。そのくせ、核廃絶には全く本気で取り組んではいない。

この「戦争被害者ナショナリズム」のゆえに、自分たちの加害責任の追求を真剣に行わない。よって、米国が自分たちに対して犯した「無差別大量殺戮爆撃」の責任も追求できない、という悪循環(=戦争責任追求不能状態)を80年近く繰り返しているのである。

このように、「二度と繰り返さない」という展望を、無力な単なる言葉ではなく、現実に力のある運動にしていくためには、加害と被害の両方に、同時に且つ複合的に視点を合わせ、両方を常に「比較」し続けていくことが必須なのである。このことを、ハンナ・アレントの著作は、私たちに今も問いかけているのだ!



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