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2021年11月9日火曜日

かくも生き難い日本:

 小室夫妻バッシングと「天皇裕仁パチンコ玉狙撃事件」犯人・奥崎謙三との関係?! (上)

 

目次:

本題に入る前に

現在の日本の憎悪に満ちた「この空気 この音」

天皇と皇室メンバーの「人権」を否定する憲法学者

問題は憲法に埋め込まれている決定的矛盾


本題に入る前に

 

詩「骨のうたう」の作者として広く知られている竹内浩三は、1921年5月に現在の伊勢市吹上に生まれ、1940年に日本大学専門部映画科に入学、映画監督になることを夢見る若者でした。学生時代には伊丹万作とも知り合っています。しかし、当時の多くの学生が繰り上げ卒業になって戦地に送られたように、彼も1942年9月に卒業となり、1年間の軍事訓練を受けて、フィリッピンに送られました。戦死公報によれば、1945年4月9日に、ルソン島バギオ北方1052高地という場所で戦死したことになっています(実際には生死不明)。23歳という若さでした。その竹内が残した多くの詩の中の一遍に、「日本が見えない」と題された作品があります。明らかに、自分が戦地で亡くなり、魂だけが日本に戻ってきたが、自分の目の前で「大地がわれ」、日本が崩れ去ったことを幻想して描いた、祖国への深い幻滅が込められたとても哀しい作品です。

 

竹内浩三

 

 

この空気
この音
オレは日本に帰ってきた
帰ってきた
オレの日本に帰ってきた
でも
オレには日本が見えない

空気がサクレツしていた
軍靴がテントウしていた
その時
オレの目の前で大地がわれた
まっ黒なオレの眼漿が空間に
とびちった
オレは光素(エーテル)を失って
テントウした

日本よ
オレの国よ
オレにはお前がみえない
一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
なんにもみえない
オレの日本はなくなった
オレの日本がみえない

 

  コロナ感染症のために2年前から、日本に一時帰国することが私はできないでいます。しかし、2019年の一時帰国の折には、なぜか滞在中に、フトこの「日本が見えない」の詩が繰り返し頭の中に浮かんできてしかたがなかったのです。「空気がサクレツしていた 軍靴がテントウしていた」の部分だけが、「空気が淀み、心が鬱陶していた」という言葉に変わり、「オレにはお前がみえない」という句と同時に、「オレの日本は崩れていく」という音声が静かに耳元で響き続きました。日本の現在の様々な暗澹たる社会現象と、「人間の質」が劣化した顔ぶればかりの今回の衆議員選挙候補者と選挙結果で、またまた「あ〜、日本はますます崩れ、みえなくなりつつある」という暗い想いにさせられるばかり。

  政治家・官僚の知性とモラルのはなはだしい頽廃、世界一の国債発行残高(=膨大な額の国家借金)と止まらない財政悪化、にもかかわらず毎年の軍事費大幅増、巨額の費用を投入し続けても終わりの見えない原発大事故処理、世界一の高齢化と毎年深刻化する(特に女性の)貧困率にもかかわらず劣化する一方の社会保障制度、それとは逆行的に拡大し続けるいちじるしい貧富の差と自殺率、一向に改善しないどころかむしろ悪化する社会的(性、障がい者、民族、難民)差別とヘイト・クライム、米国の「パックス・アメリカーナ(世界軍事支配による平和)」政策への相変わらずの盲目的追従、急速に悪化する地球温暖化とパンデミックに対する無策などなど、私たちをとりまく社会環境は、文字通り「生きる」ことをいたく困難にしています。

  「竹内浩三の魂がこの今の祖国を眼の当たりにしたら、どのように描写するのだろうかしら……」という想いも、しばしば浮かんできます。

 

現在の日本の憎悪に満ちた「この空気 この音」


  小室圭・眞子夫妻(ならびに圭氏の母親)に対する執拗で厭悪に満ちみちたメディアとソーシャル・メディアでの激しいバッシングの、憎悪溢れるおぞましい「この空気 この音」は、明らかに日本社会が精神的に深く病んでいる症状の一つであるように私には思えます。歪んだ社会の中で精神が病み疲れている多くの人間が、押し込められて息苦しくなっている暗闇から抜け出そうともがき喘ぎ、解消し難いその不満を、「小さな幸せを大切に育もうとしている」2人の若者に向けて一斉に吐き出す。メディアがその憎悪不満を掻きたて、かくして憎悪はさらに多くの市民の心を病ませる。憎悪は、憎悪の対象にされた不幸な人たちの心を傷つけるだけではなく、憎悪する人間の心をさらに侵し、人間性を奪っていく。今、小室バッシングだけではなく、事実を憎悪や悪質な虚偽、隠匿などで歪曲させる、似たような多くのケースで作られる「この空気 この音で」、日本社会がいかに深刻に患っているのか、さらには、そのことで日本社会全体が人間性をひどく失った社会へと急速に劣化しているのか - このことに気がついている人たちがあまりにも少ないのではないか、と私には懸念されます。

  小室バッシングの具体的な問題については、あまりにもバカバカしくてコメントしたくもありませんが、2つだけ述べて起きます。

第一に、圭氏の母親の借金問題に関する報道で決定的におかしな点は、圭氏の母親の実名や信憑性の疑われるような個人情報がうんざりするほどメディアで公表されているのに、金を貸したと称する「紳士的な男性」の名前や個人情報は全く明らかにされていません。しかも、この「紳士的な男性」は、圭氏が眞子氏と婚約する予定であるとの報道がなされるや、大衆週刊誌の記者に「関連情報」を提供しています。明らかに、週刊誌報道を狙った行動としか考えられません。借金問題の解決に向けて動き出した小室氏側は弁護士を仲介させているのに対し、「紳士的な男性」側は週刊誌記者を代理人としています。このような事態がもしオーストラリアで起きたならば、実名も明らかにせず、代理人を弁護士ではなく一介の記者にしている「紳士的な男性」は、社会的に厳しい批判を受けることは間違いないでしょう。ところが日本では、二者間のこのあまりにも不均衡性を指摘する報道がほとんどなく、一方的に小室側を槍玉にあげています。

第二に、借金の問題は圭氏の母親と「紳士的な男性」との間の問題であり、厳密には、つまり法的には、圭氏とは関係がありません。「母親に借金があるから息子は結婚してはならない」と批判する権利が、赤の他人には勿論、結婚しようとしている二人以外の誰にもないことは、憲法24条に言及するまでもなく、明らかです。そうした批判の行為は、明らかにプライバシーの侵害です。

プライバシーの甚だしい侵害である、惨憺たるバッシングが3年間も続き、しかも直接会うことができない過酷な状況を、小室圭・眞子の2人はよく耐え抜いたと私は心から同情すると同時に、感心します。10月26日の記者会見での2人の発言も極めて明確で、それぞれがしっかりと自己の考えと決意を述べた内容のものだと私には思えました。とくに眞子氏の言葉は、皇室を離れた自分は一私人であるという決意に裏打ちされた凛然としたものであり、一個の人間として自分を扱ってもらいたいという強い思いが私には感じられました。長い期間、過酷なバッシングに耐え抜くことで2人の絆が、他人には想像できないほど強められ、おそらく精神的にも大きく成長したのであろうと想像されます。

ところが、この会見発言後、またまたメディアやソーシャル・メディアの大半が、「謝罪の気持ちが不十分」、「軽々しく<愛している>などと言うのは軽薄」、「<愛している>という言葉の使い方がおかしい」、「愛という名の執着で己のエゴを貫いただけ」、「皇族の暴走、国民主権・民主主義の危機」などなど、理不尽極まりない罵詈雑言を浴びせています。結婚前にはバッシングの対象が小室側に集中しており、いまだ皇室のメンバーであった眞子氏への批判はほとんどなかったのが、結婚し「庶民」になるやいなや、今度は眞子氏もまた「同じ穴の狢」のようにバッシングの対象にされています。

一体全体、この2人が結婚したという極めて私的なことで、国民の誰がどんな迷惑を被ったと言うのでしょうか、なぜゆえに国民に謝罪しなければならないのでしょうか。「愛している」という表現も極めて個人的な感情の問題であり、当人が「愛」をどのように理解していようと、他人がとやかく言う権限は全くありません。そもそも、極めてプライベートな問題で、本来なら、記者会見をする必要すらないことなのです。結婚後に明らかになった圭氏のニューヨーク州司法試験不合格についても、メディアは、「これではニューヨークでどうやって生活していけるのか」と批難していますが、これも、どこでどうやって2人が生活しようが国民にはなんの関わりもないことであり、批難する権限や資格もありません。これほど簡単明瞭で基本的なことをあらためて言わなければならないこと自体が、本当に情けないことです。

要するに、問題は、なぜゆえに皇室メンバーの一人である女性の結婚 - 本来は極めて私的なこと - がこれほどまでに国民のバッシングの対象となるのか。なぜゆえに彼女とその婚約者には、「すべての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利」、あるいは「人間が人間らしく生きる権利で、生まれながらに持っている権利」という「人権」が、認められないのか。このことを私たちは熟考してみる必要があります。

 

天皇と皇室メンバーの「人権」を否定する憲法学者

 

皇室メンバー、特に女性のメンバーがバッシングの対象になる例は、今回の眞子氏に限られたことではありません。現在の上皇后美智子も、皇后雅子もバッシングを受け、ストレスから美智子氏は失声症を、雅子氏が適応障害を患ったことは周知のところです。彼女たちのプライバシーが侵害され、個人的な人権が尊重されないという事態から発生した問題です。皇室メンバーの女性たちの人権が、なぜゆえにかくもなおざりにされるのでしょうか?

近頃メディアで売れっ子の憲法学者である木村草太氏はAERA11月1日号)で、大学時代の自分の先生である長谷部恭男氏の説を引用して、次のように述べて、自分も同意見であることを示唆しています。

 

「一般的な見解では、天皇・皇族は憲法上の権利の保障対象ではありません。長谷部恭男先生は『身分制の飛び地』と表現します。憲法自身が、平等権をはじめとした近代的な人権保障規定を適用しない例外的な身分制を定めているということですね。

………

皇族の婚姻には、憲法24条は適用されません。だから、男性皇族の婚姻に皇室会議の議を要求した皇室典範は違憲ではないのです。現状、女性皇族には婚姻の自由がありますが、それは憲法上の権利ではなく、皇室典範がそう定めているからです。女性に皇位継承資格を認めれば、婚姻の自由が制約されるかもしれませんが、それは憲法24条違反ではないでしょう。」(強調:引用者)

 

つまり、東京大学名誉教授の長谷部氏と彼の弟子格の首都大学東京准教授・木村草太氏の2人は、天皇ならびに皇室メンバーには、国民なら誰であろうと持っている権利=基本的人権が与えられていない、というのが「一般的見解」だと主張しています。このような解釈を一体誰が「一般的見解」と決めたのか、「一般的」とは憲法学者の間での大多数意見という意味なのか、私は木村氏に訊いてみたいです。憲法学者の中でも、樋口陽一氏のように、天皇にも国民同様に普通に権利はあるという見解をとっている人もいますから。

周知のように、憲法1条で天皇は「日本国民統合の象徴」となっています。私は憲法学者ではありませんが、誰にも侵されてはならない基本的人権を有している国民一人一人の「統合の象徴」である天皇が、その人権を有していないなどという主張は論理的に全くおかしいと考えます。「国民統合の象徴」である天皇が国民の姿を反映していないならば、「象徴」とされる資格を全面的に欠いていることになります。しかも、当たり前のことですが、天皇は日本で生まれ育った一人の人間です。皇室メンバーも全員が日本人と称される人間です。その人間の人権が否定されているなどという主張は、日本国憲法11条、13条、14条で保障されている基本的人権を否定するものです。念のためにこの3箇条を下に記しておきます。

 

11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」

13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(強調:引用者)

 

さらに、この「基本的人権」は「世界人権宣言」第1条で、人類普遍の原理であることが明確に確認されています。いわく、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」

  ということは、日本を代表する(?)憲法学者の大先生である長谷部氏や木村氏は、天皇と皇室メンバーを「国民ともみなさないし、人間としても認めていない」という、摩訶不思議なことになります。この2人の先生は、 「天皇・皇族は憲法上の権利の保障対象ではない」その理由については、天皇・皇族の存在だけが「身分制の飛び地」になっているからだと説明します。では、なぜそこだけが「身分制の飛び地」になっているのかについては何ら説明がありません。憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とはっきり規定しています。

  木村氏は「皇族の婚姻には、憲法24条は適用されません。・・・・女性皇族には婚姻の自由がありますが、それは憲法上の権利ではなく、皇室典範がそう定めているからです」と述べています。皇室典範の規定が憲法24条に反しているならば、その規定が違憲なのですから、規定を修正すべきであって、「身分制の飛び地」であるから憲法が適用されないという説明も、私に言わせればメチャクチャです。「身分制の飛び地」など、憲法はもちろん皇室典範にも、どこにも一言も説明はありません。したがって、なんの説明にもなっていないです。皇室典範が憲法を無視してよいという法的根拠があるとするなら、それをはっきりと説明するのが憲法学者の社会的義務です。

ところが長谷部氏などは、「現実にこの憲法解釈でうまく機能しているのだから、それでよい、何も問題はない」と、答えにもならない説明をしているようです。何も問題はないどころか、すでに説明しましたように、皇室の女性たちは人権を無視されて大変な精神的苦痛を負わされています。この現実に憲法学者である彼らは、同じ人間としてどう応えるのでしょうか?

 

問題は憲法に埋め込まれている決定的矛盾


  本当に問題なのは、実は、憲法そのものに解決し難い矛盾が成立当初から埋め込まれていることなのです。その決定的矛盾の発生源に憲法学者である彼らが全く気がついておらず、その矛盾をそのままにしたまま、自分も他人も誤魔化す憲法解釈で、「うまく機能している」かの如く見せかけているのです。

  その矛盾とは、簡潔に言えば次のようなことです。1945年の敗戦で、日本は民主主義的な立憲君主制国家へと改革され、基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理に基づく「民主憲法」を成立させたことになっています。ところが、「人間宣言」をして神から人間になったはずの天皇、ならびにその神の親族である皇室メンバーたちが、完璧に「人間化」することに失敗した、という矛盾です。(ちなみに、いわゆる「人間宣言」の中で、自分が「人間になった」とは天皇裕仁は一言も言っていません。)完全に人間化されなかった天皇が「日本国と日本国民統合の象徴」となり、皇室メンバーは皇室典範でそのまま「神の親族」の如く取り扱われ続けられていること、これが憲法に埋め込まれている決定的矛盾なのです。結論を先取りして言えば、それは天皇制自体が持つ矛盾です。

この矛盾を、ジョン・ダワーは、「象徴」としての天皇は「天から途中まで降りてきた」ことだと描写しています。この矛盾ゆえに、天皇や皇室メンバーにも憲法で保障されているはずの人権が、十分に機能しなくなっているのです。憲法が天皇や皇室メンバーに権利を保障していないという長谷部論は、したがって、私に言わせれば決定的に間違っています。憲法学者が、人権保障が与えられない人間(天皇や皇室メンバーという特殊の地位にあるにせよ)の存在を平気で認めるということ自体が、私に言わせれば憲法学者として失格です。上に述べたように、日本国憲法だけではなく、人類普遍の原理に明らかに反しています。

  この矛盾については、ここで詳しく説明している時間的余裕がありません。詳しくは、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の第3章<「平和憲法」に埋め込まれた「戦争責任隠蔽」の内在的矛盾>と4章<象徴天皇の隠された政治的影響力と「天皇人間化」を目指した闘い>を読んでいただければ光栄です。

今は、拙著の4章の中の関連した一節だけを下に抜き出しておきます。私は次のように書きました。

 

憲法第1章1条で、天皇が権力を持たない単なる「象徴」になったことで、天皇と天皇制が「人間化」したなどとは決して言えない。憲法6条、7条で規定されているように、「象徴」として天皇の機能は、内閣総理大臣、国務大臣や最高裁判所の裁判官の任命、国会召集、法律・政令・条約の公布などの「国事行為」であるが、天皇はこれらをあくまでも機械的、儀式的に執り行うのみで、これらの決定に関して私心を表明することはできないし、ましてや拒否するなどということは絶対にできない。この点で、3つの権利(大臣から相談を受ける権利、大臣を激励する権利、大臣に警告する権利)を君主が持つ、英国型立憲君主制とは決定的に違っている。しかも、自分が「任命」した人間がどのような間違いを犯そうと、「発布」した法律・政令などが国民にとっていかに不都合なものであろうと、あるいは違憲の疑いがあろうと、その「責任」は全くとらないという、はなはだしく奇妙な状態に置かれているのが「象徴天皇」なのである。その意味で、天皇の「あらゆる世俗的責任からの自由」、すなわち「無責任」は、明らかに明治憲法3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」を継承している。

 

次回に続く

 

次回、小室夫妻バッシングと「天皇裕仁パチンコ玉狙撃事件」犯人・奥崎謙三との関係?! (下)の目次

日本全体が人権軽視の「身分制の飛び地」!

人権を無視されている天皇からの距離で「人権の尊重度」が測られるという矛盾

身体を張って憲法の矛盾と闘った奥崎健三

 

 

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