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2021年11月20日土曜日

かくも生き難い日本

小室夫妻バッシングと「天皇裕仁パチンコ玉狙撃事件」犯人・奥崎謙三との関係?! (下)

 

目次:

人権を否定されながらも「神聖」とみなされる天皇と皇族

日本全体が人権侵害の「身分制の飛び地」!

身体を張って憲法の矛盾と闘った奥崎健三

 

 

人権を否定されながらも「神聖」とみなされる天皇と皇族

 

前回、メディアで売れっ子の憲法学者・木村草太氏が、東大名誉教授・長谷部恭男氏の説を引用して、

「一般的な見解では、天皇・皇族は憲法上の権利の保障対象ではありません。長谷部恭男先生は『身分制の飛び地』と表現します。憲法自身が、平等権をはじめとした近代的な人権保障規定を適用しない例外的な身分制を定めているということですね。」

と述べていることを説明しておきました。「憲法自身が、平等権をはじめとした近代的な人権保障規定を適用しない例外的な身分制を定めている」などという主張の根拠は、憲法の一体どこに書いてあるのでしょうか?これは、私に言わせれば全くのデタラメです。「人権保障規定を適用しない例外的な身分制」、すなわちこの大先生たちが「身分制の飛び地」と称するものを「憲法自身が定めている」というのは、憲法自身の解釈ではなく、長谷部・木村両大先生の個人的な、つまり勝手な解釈以外の何ものでもありません。

  憲法学者が、なぜこんなめちゃくちゃな憲法解釈を主張して、少しも自己矛盾を感じないのでしょうか?前回も書きましたように、この論理でいくと、基本的人権を保障されていない天皇と皇族は日本国民でも、いや人間でもない、ということになります。つまり、人間でない天皇と皇族の国籍は、「高天原」、すなわち天津神(=多くの神々)が住む天上界にあるということになりますね。天皇と皇族がパスポートを持っているのかどうか私は知りません。(持っているとは思いますが)持っているとしたら、日本国籍を持たないはずの彼/彼女たちは、国籍の欄に「高天原」と記してあるのでしょうかね(笑)。

畢竟、この2人の大先生が主張していることは、憲法1条で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされている天皇を、いまだに明治憲法3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」を継承しているものと、無意識のうちに捉えているのだろうと想われます。しかし、よく考えてみると、天皇と皇族のメンバーが、理由は分からないが何かしら「ありがたい」、「神聖」な存在だと考えている日本国民は大勢います。天皇や皇族がことあるごとに伊勢神宮に祀られている先祖の神々に会いにいくことで、その「神聖」さを国民に知らしめ、メディアもまたそれを喜んで報じるのですから、不思議ではありません。つまり、「象徴」としての天皇は「天から途中まで降りてきた」とジョン・ダワーが描写したように、2人の大先生にとっても、また多くの日本国民にとっても、象徴天皇はいまだ地上に足をおろしてはいないのです。

この点が、日本の天皇制の場合、他国の君主制と決定的に異なっているところです。例えば、英国女王もしばしば英国国教会のウエストミンスター寺院やカンタベリー大聖堂などに出かけ、礼拝に参加します。しかし、女王はあくまでも一人の「人間」として「神を礼拝」するために出かけるのであって、女王の先祖が「神」であるなどという不遜な考えは、女王自身はもちろん、国民の誰一人として思いつもつかないことです。

小室バッシングも、その根の深いところに、国民の多くが(ほとんど無意識のレベルにせよ)持っている「なんとなく皇族を神聖視」する感情があるからだろうと思われます。「借金のあるシングル・マザー」という汚点のある女性を母親に持つ息子=一庶民が、神聖で高貴な皇族のお姫さまと結ばれるなどということがあってはならないのです。よって、結婚するまでは、あくまでも悪者は「下層民」の小室母子であって、そのためこの母子2人に理不尽極まりない罵詈雑言が浴びせ続けられ、眞子氏への批判はほとんどありませんでした。前回も述べておいたように、ところが、結婚し「庶民」になるやいなや、今度は眞子氏もまた「同じ穴の狢」のようにバッシングの対象にされています。

因みに、日本に限らずどこの国でも、お姫様が身分の低い、下層民の男と結婚するのは受け入れ難い話ですが、シンデレラの話のように、王子様が身分は卑しいが美しい、心やさしい女性を妻に選ぶという話は多くの人たちに喜ばれる話なのです。この背景には、男は女を支配する立場にあるべきで、一方、お姫様であれ女は男=夫を支配してはならないという家父長制的イデオロギーが、今も、無意識のレベルにせよ、多くの人たちの思考の中に残っているからだと思われます。

 


 

それはともかく、眞子氏の場合、結婚する前から、皇室典範の規定によってもともと否定されていた人権が、憲法によって保障されている基本的人権にも関わらず、庶民になっても甚だしいプライバシーの侵害で自分の人権を否定され続けているのが現状です。変わったのは、彼女から「神聖さ」や「高貴さ」が剥がされただけです。結婚するや、「眞子さま」が「眞子さん」となったことは、彼女の人権はあくまでも無視しながら、「下界に降りて高貴さを失った女」として彼女を見下すという、多くの国民とメディアの意思表示の表れなのです。シンデレラとは逆に、下層民の男と結婚したお姫様は、もはや「お姫様」と敬われる資格がないのです。

  では、皇室典範を憲法に沿った規定に修正し、とりわけ皇族女性の人権を明確に保障するような内容に変更すれば問題は解決するのでしょうか?そうした変更は、当然、女性に天皇の皇位継承権が与えられることにもなります。女性が天皇になることで、果たして日本は真に民主主義的な立憲君主制になれるのでしょうか?長い日本の天皇制の歴史の中では、8人の女帝が存在したことになっています。では、女性の天皇が在位中に、日本に男女平等がもたらされたでしょうか?答えは言うまでもなく、もちろん、否です!8人のうち4人が生涯配偶者を持つことはなく(あるいは持つことを許されず)、あとの4人は天皇である夫が亡くなった後、息子が成長するまでの「つなぎ」として一時的に天皇の座についただけです。

  つまり、問題は天皇の皇位継承という制度を変更しても、天皇制の本質は変わらない、というところにあります。なぜなら、天皇制、とくに天皇制イデオロギーは、女性差別を含む様々な差別の元凶だからです。小室夫妻バッシングが、そのことを如実に表明しています。例えば、女性の天皇が、自分の配偶者に、小室圭氏のように、母親が借金のあるシングル・マザーを持つ庶民男性を選んだら、国民はどう反応するでしょうか?あるいは、外国人 - 韓国人のごく普通のサラリーマン男性や、(英国皇室家族のように)離婚歴のある黒人男性 - を選んだらどう反応するでしょうか?小室バッシングどころの騒ぎではない、国をあげての大騒動になることは間違いないでしょう。(私としては、そんなショッキングな状況に陥った日本をぜひ見てみたいという夢<叶わぬ夢でしょうが>は大いにありますが<笑>。)

 

日本全体が人権侵害の「身分制の飛び地」!

 

  長谷部氏や木村氏が、「身分制の飛び地」と呼んでいる状態は、前回も述べておいたように、本来は、天皇であれ誰であれ、人間誰しもに保障されているはずの人権が「機能しなくなっている空間」なのです。「人権が機能しなくなっている空間」は、皇室に限らず、日本全国いたるところにあることはあらためて言うまでもないでしょう。違いは、天皇と皇族の場合の「身分制の飛び地」は、宗教的な神聖さに強固に覆われており、健康管理や生活の物理的条件では、庶民には与えられていない贅沢さが常に保障されていることです。基本的人権である自由は極端に制限されていても、物理的な生活条件ではなんの心配もありません。

庶民が暮らす「人権が機能しなくなっている空間」は、それとは対照的に、多くの場合が、生活に必要な最低限の物理的条件の点でも、健康維持の点でも、生きていけるかどうかのギリギリの状態になっている危機的空間です。例えば、性差別から派遣切りで職を失い、小さな子供を抱えたシングル・マザーの中には、自分の毎日の食事は抜かしてでも、子供たちにはなんとか十分食べさせたいと困窮している女性が多くいます。凄まじい家庭内暴力の犠牲者であるシングルマザーたちの生活状況も、同じように過酷です。介護保険料を滞納して預貯金や不動産などを差し押さえられ、生活に行き詰まって「平和的生存権」を失っている高齢者の数は2万人以上にのぼっています。そうした高齢者の中には、餓死しても誰も気がつかない孤独死に追いやられている人たちのケースがしばしばニュースになっています。

少数民族差別による人権侵害の点でも、日本は全国が「身分制の飛び地」です。アイヌや沖縄、被差別部落の人たちへのいつまでも繰返される差別、在日と称される韓国人/朝鮮人へのヘイト・スピーチなど、様々な市民レベルでの差別。それに加えて、日本政府が朝鮮学校をコロナの政府支援から排除し、一部の幼稚園や大学の生徒には在日韓国人であることを理由にマスクを配布しなかったり、授業料免除の対象から外すという、あからさまな差別と人権侵害を政府が率先してやっています。政府は、少数民族への差別を禁止する法律を設置しようとは考えもしません。そのような法律は、政府自身が法律違反の対象となるからです。

  「表現の自由」という国民の権利も、日本ではしばしば侵されています。最近の一例は、2019年8月に名古屋で開かれた「表現の不自由展」です。展示内容に不満な右翼の暴力的な展示妨害、それに続く「政治的プロパガンダだ」と批判する自民党議員たちからの声、それに同調する河村たかし名古屋市長の展示中止要請などの政治的圧力で、結局、展示会は閉鎖に追いやられました。周知のように日本全国には様々な「9条の会」が活動を続けていますが、近年は公共の施設での「会場使用」の中止や拒否があちこちで見られます。これも明らかに「表現の自由」の侵害です。「表現の自由」とも関わりのある選択的夫婦別姓の問題でも、日本は夫婦別姓制度を許さない世界でも稀にみる国家で、この点でも日本は、世界的な観点から見て「飛び地」と称すべき「天皇を祀る不思議な空間」です。

天皇や皇族と同じように「日本国民」とみなされない外国人労働者は、172万人いるといわれています。しかし、外国人の中長期在留者の総数は、2017年末には256万人を超えたといわれていますので、実際には172万人をはるかに超える数の外国人労働者が日本で働いているはずです。その人たちの多くが悪質な企業や仲介業者から課される借金に苦しみ身動きがとれず、そのため劣悪な職場から転職できないという状況におかれています。名目上は「日本で学んだ職業の技術を母国に持ち帰る」ことになっている「技能実習生」と「留学生」が、そうした外国人労働者の4割以上を占め、建設業や飲食業などで長時間・低賃金の労働を負わされています。結局のところ、「使い捨て労働者」とみなされているのが現実なのです。

「技能実習生」と同様に「留学生」の相当数もまた、来日するために多額の借金があり、その返済や学費の捻出などのために、本来の学業に加えて長時間労働を余儀なくされています。週28時間以内の就労を超えた場合は、「資格外活動」とみなされて在留資格を失います。こうして、外国人労働者や留学生たちは、最低賃金法違反、セクシュアルハラスメント、強制帰国等の様々な人権侵害に苦しめられています。

その最も典型的な例が、名古屋出入国在留管理局で収容中に亡くなったスリランカ女性性ウィシュマ・サンダマリさんでしょう。ウィシュマさんは交際相手から激しいDVを受けており、その暴力に耐えられなくなって警察に助けを求めました。ところが、在留資格が切れていることを知った警察が、出入国在留管理局にこのことを知らせ、その結果、彼女は収容施設に入れられてしまいました。入管当局はウィシュマさんがDV被害者であることを無視し、彼女が出した仮放免申請も受け入れず、結局、彼女が収容施設で健康を害して餓死するまで、文字通り強制収容を続けるという重大な人権侵害を犯したのです。これは「虐待死」、権力による暴力行為の結果の死亡だったと言うべきものです。

  2021年11月3日の東京新聞(ネット版)の記事「コロナ禍 仮放免の外国人増加も生活支援は皆無 移民・難民の生活医療相談会に140人 東京・千代田区の教会」によると、次のように書かれています。

「相談会に訪れたのは、カメルーンやナイジェリア、ベトナム、ミャンマー、スリランカなど出身の外国人。多くが難民申請中だが、許可が下りないため、仕事もできず、健康保険証も持てないため、病院にも行けず、日々の食事含め、生活に困窮する状態だという。

 医療相談で最も多いのがうつ病で、他に心疾患や末期がんなどの患者もいるが、治療する場合、正規の2、3倍の高額な治療費を大学病院などから求められるという。」

「(NPO法人<北関東医療相談会アミーゴス>の事務局長)長沢氏は『出入国在留管理庁は、コロナ禍で仮放免者をたくさん出しているが、医療や生活支援は皆無。寄付での支援には限界がある。外国人の命と健康を守るためにも、厚労省とともに健康保険証の発給を検討してほしい』と強調した。」

因みに、これまでに国連人権理事会や自由権規約委員会からのたび重なる日本政府への勧告にも関わらず、日本政府は人権救済を目的とする国内人権機関(NHRI)を設置しようとしていません。国内人権機関とは、裁判所とは別に人権を推進する目的を持つ国家機関のことですが、政府から独立した、「政府、議会及び権限を有する全ての機関に対し、人権の促進及び擁護に対するすべての事項について、助言、意見、提案、勧告を行う機関」のことです。世界ではすでに、110カ国が国内人権機関を設置しています。

また、国連で1966年に採択され76年から発効した「市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書(第1選択議定書)」という国際条約があります。この条約では、締約国によって人権を侵害されたと国民である個人が人権委員会に報告する権利が保障されています。ところが、この議定書を日本政府は認めていません。よって、日本人は人権侵害を公式に訴えられない状態になっています。この条約の締約国は116カ国にのぼっています。

  つまり、日本全体が、日本国籍を持たない外国人の人権はもちろん、日本国民の人権も基本的には保障しようという国家的決意が全くない国であることが、このことからはっきりと分かります。つまり、「人権低開発国」です。したがって、再度強調しておきますが、長谷部・木村ご両人の憲法学の大先生が主張される、憲法で保障されている人権規定が適用されない「身分制の飛び地」なるものは、実は、皇居という空間だけではなく、日本全体の空間のことを指しているのです。そのことに大先生たちはお気づきにならないようです。

  しかも、ひじょうに興味深いことには、人権を保障されていない「神がかり的」な天皇から、距離が離れていればいるほど、その人の人権が侵害される危険性が高いという摩訶不思議な現象が起きるのです。つまり、同じ国民であっても、天皇に距離的に近い政治家や高級官僚、経済界重鎮、富裕層などの人権は尊重されますが、天皇から遠い空間に暮らす下層民、貧困者(とくに女性や高齢の貧困者)、障がい者、女性たちの人権は軽視されます。天皇に象徴される「日本人」と、その象徴ワクから外されている「外国人」との境界線におかれている、アイヌ、沖縄住民、在日韓国人/朝鮮人、被差別部落民などの少数民族的国民の住む空間は、さらに天皇のいる空間から離れた「人権を尊重しなくてもよい空間」とみなされ、最も離れた空間にいる他民族の外国人労働者や難民の人権に至っては完全に無視されています。

かくして、「身分制の飛び地」なる空間は、実は深い「身分制差別構造」によって作られているのです。「飛び地の空間」の中は「差別だらけ」であり、その差別の元凶が天皇と皇族を取り囲んでいる「身分制の飛び地」であるということについても、長谷部・木村の両大先生はお気づきになっていないようです。こうした憲法学者を「進歩的学者」と尊敬する日本人が多くいる間は、天皇家は御安泰にちがいありません。

 

身体を張って憲法の矛盾と闘った奥崎健三

 

  それでは、前回(上)の最後で少し議論した<問題は憲法に埋め込まれている決定的矛盾>に再度立ち戻ってみたいと思います。

これまでみてきたように、天皇や皇室メンバーにも憲法で保障されているはずの人権が十分に機能しなくなっているだけではなく、天皇と皇族の空間である「身分制の飛び地」が、実は日本全体を覆っている「身分制差別構造の飛び地」という空間と重層的になっていることは上で見た通りです。それでは、一体全体、憲法のどこに決定的な矛盾があって、日本はこんな厄介な状態になっているのでしょうか。

  私が知る限り、これまでに、現行憲法に埋め込まれているこの決定的矛盾を明確に指摘した人物はただ一人で、しかも憲法学者でないどころか、法学者でもありません。さらには、矛盾を指摘しただけではなく、その矛盾を「違憲」であると主張して法廷の場で闘おうとした、日本で唯一の人物です。その人物とは、奥崎謙三でした。ところが、憲法学者や法学者の中で、この奥崎謙三が抉り出した憲法の矛盾を真剣に議論する人はほとんど皆無です。不思議というよりは、そんな日本の状況を私は正直情けなく思っています。

  奥崎謙三の背景と彼の「憲法1章は違憲である」という主張の詳細については、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の282〜293ページで説明しておきましたが、最も重要な部分だけ下に抜書きしておきます。

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戦地に送り込まれた16万人近い兵員の9割以上が餓死と熱帯病で死を遂げたニューギニア戦線での数少ない生き残り兵の一人、奥崎謙三は、1969年1月2日朝の新年一般参賀で、皇居長和殿東庭側ベランダに立った裕仁を狙って、25・6メートルの距離から、パチンコ玉3発をまとめて発射、続いてもう1発を「おい、ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と大声で叫びながら投射した。裕仁には1発も当たらなかった(因みに、奥崎はピストルなど実際には所持していなかった。当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったのであるが、この事件以降から入れるようになったとのこと)。なぜ「ヤマザキ」なのか?その「ヤマザキ」は、ニューギニアでほとんどが餓死した独立工兵第36連隊の自分の仲間の一人であった。・・・・・・奥崎はその場で即座に逮捕された。というよりは、逮捕してくれるように警官に頼んだのである。奥崎は、最初から法廷で裕仁の戦争責任を徹底的に追求する目的でこの事件を犯したのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・(奥崎は裁判の一審、二審ともに天皇に対する暴行罪で有罪になっていますが、詳しくは省略します)

ひじょうに興味深いのは、この二審判決を受けて奥崎が最高裁への上告のために準備した趣意書の内容である。それは、「極めて悪質であり、社会的影響も甚大な」、天皇に対する「犯罪」という二審判決に真っ向から挑戦した、見事な論理性をもった格調高い主張となっている。その主張の趣旨は、憲法第1章天皇の規定憲法前文の人類普遍の原理からして違憲無効の存在であるというものである。実は、同じ主張を、奥崎は二審の裁判中から唱えていたのであるが、その主張を最高裁への上告の折にも繰り返したのである。「人類普遍の原理」に言及する憲法前文の部分は、第1段落の以下のような文章である。

 

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理でありこの憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(強調:引用者)

  憲法前文のこの「人類普遍の原理」に照らして、憲法第1章「天皇」は違憲であるという主張を、奥崎は次のように展開した。

 

一、二審の判決と求刑をした裁判官、検察官は、本件の被害者と称する人物を『天皇』であると認めているが、現行の日本国憲法の前文によると、「人類普遍の原理に反する憲法は無効である」と規定しており、『天皇』なる存在は「人類普遍の原理に反する存在であることは自明の常識であり、『天皇』の権威価値正当性生命は一時的部分的相対的主観的にすぎないものであり、したがってその本質は絶対的、客観的、全体的、永久的に『悪』であるゆえに、『天皇』の存在を是認する現行の日本国憲法第一条及至第八条の規定は完全に無効であり、正常なる判断力と精神を持った人間にとっては、ナンセンス、陳腐愚劣きわまるものである。……(強調:原文)

 

  この奥崎の見事な喝破に反論するのは、ほとんど不可能のように思える。したがって、最高裁の上告棄却の反論が、全く反論の体をなしておらず、なんの論理性もない誤魔化しに終わっていることも全く不思議ではない。上告棄却は下記のようなごく短いものである。

 

被告人本人の上告趣意のうち、憲法一条違反をいう点は、被告人の本件所為が暴行罪にあたるとした第一審判決を是認した原判決の結論に影響がないことの明らかな違憲の主張であり、同法十四条、三七条違反をいう点は、実質は単なる法令違反事実誤認の主張であり、その余は、同法一条ないし八条の無効をいうものであって、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

 

つまり、憲法第1条と暴行罪は無関係であり、14条違反やその他の点に関する主張も、単なる「事実誤認」だと述べ、なぜ事実誤認なのかについての説明も一切しない。こうして、奥崎が見事に指摘した、憲法前文と1条の決定的な矛盾については、最初から議論することを避けているのである。ちなみに、二審判決では、天皇の地位は「主権の在する日本国民の総意に基づく」とされているので、「民定憲法であることの表現と何ら矛盾、抵触するものではない」と述べて、1条は憲法違反にはあたらないと断定した。ここでも、奥崎が主張する前文と第1章の関係についてはまったく触れないで、意図的に議論を避けているのである。しかも、1条で規定されている天皇の地位が実際に「国民の総意に基づく」ものであるのかどうか、国民投票で問われたことは一度もないことはあらためて説明するまでもない。

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かくして、最高裁判事たちは、奥崎の「憲法1章は憲法前文に違反する違憲である」という明解極まりない主張に反論することができなかったため、この問題を議論するのをあくまでも避けて、誤魔化してしまったのです。私が憶測するに、日本の憲法学者たちは、この問題を取り上げて議論するとなると、憲法学者仲間からだけではなく、多くの国民からバッシングを受けることを恐れて、議論するのを今も避けているのだろうと思います。

では、なぜ憲法前文とこれほどまで決定的に矛盾する憲法1章「天皇」が、前文のすぐ後に、そして前文と「戦争放棄」を謳う2章9条との間に入れられたのでしょうか?これについては、今、私の持論をここで詳しく述べている余裕がありません。この問題に興味がある方は、ぜひ拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(とくに第3章)にお目通し願います。

 

      完 

 


2021年11月13日土曜日

「夢幻能」に関する質問に応えて

10月1日にこのブログに載せた藤沢周著『世阿弥の花』の書評の結論部分で、私は以下のように記しておきました。

 

「夢幻能」によって、苦悩しながら亡くなった「人の心の痛み」を知り、そのことを通して自己の人間性を深めることが「幽玄の美」の追求なのであるというのが、世阿弥の能楽の思想の重要な要素の一つであると私は思っています。能楽の専門家でもない私の、世阿弥のそのような「夢幻能」の解釈が果たして正しいかどうかはわかりません。

 

これを読んだある友人から、個人メールで、「夢幻能」がなぜ人間性を深めると考えるのか、もう少し丁寧に説明すべきだというご批評をいただきました。それに対して、私も個人メールで、その説明は拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の最終章の最後の部分に書いてあるので、それを読んでください、と返答しておこうかと思いました。しかし、同じような疑問を持たれた方が多くおられるのかもしれないと思い直し、その拙著の関連部分をここで抜書きしておくことにしました。これを読んでいただければ、分かっていただけるのではないかとは思うのですが……

 

下に抜書きした関連部分は、拙著第5章の(7)<日本独自の「文化的記憶」による「歴史克服」を目指して>の一部分です。抜書きの後に、少し追加情報も加えておきました。お役に立てば光栄です。

 

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先にも述べたように、「文化的記憶」は、悲惨な歴史的事実の「本質」を単純明晰に、しかし強烈なシンボリズム表現することができ、「記憶」そのものが、時間と場所にかかわらず存続する「普遍性」を内包しているようなものでなければならない。この点で、日本の伝統芸術である能楽は、「文化的記憶」の傑出した手段となる可能性をおおいに秘めている。

 

  周知のように、能は今から650年ほど前の室町時代に、観阿弥、世阿弥の父子によって大成された芸能と言われており、2008年には、日本初のユネスコの「無形文化遺産」に登録された。 能には、大まかには、夢幻能と現在能の2つの分野に分けられるものがある。現在能には生きている人間だけが登場するが、夢幻能の主人公は霊的存在、多くの場合が幽霊である。夢幻能の構成はどれもほぼ同じで、ワキ役と呼ばれる旅の僧がある名所旧跡を訪れると、前シテと呼ばれる謎の人物がその僧の前に現れる。しかしその人物は、仮の姿として人間、通常は女性とか老人といった姿をとっているが、本当は霊的存在である。この謎の人物は、その土地にまつわる話をしてから、自分が何者であるかをほのめかすと、舞台から一旦消え去る。同じ場所に僧がそのままとどまっていると、消えた謎の人物が、今度は本来の霊的姿である幽霊(あるいは、神や草木の精霊の場合もある)となって再び現れ(後シテと呼ばれる)、自分の本来の姿を隠すことなく表示し、舞を舞ってから再び消える、というパターンである。「夢幻能」という名称は、霊がワキの夢の中に現れることからつけられたと言われている。

 

  シテの霊は「異形の人」とも呼ばれるが、その人物が舞台の橋掛りの暗がりから時空を超えてこちらの世界(舞台正面)にやってくる。そして自分の体験した凄まじい出来事と苦悩を、ワキである僧に物語り、その一部始終を語り終えて、舞を舞った後で再び橋掛りの向こうにある「異界」へと戻っていく。凄まじい体験には、愛する子を失い狂気する母の苦悩、嫉妬に狂った女性の苦悩、戦いで殺された武将の死んでなお残る恨みと悲しみといった、言語に絶するような深い悲哀や怒りを伴うものが多い。つまりシテの亡霊は、ワキの僧に弔われ成仏することを願って、この世に姿を現してくるわけである。能の面白さの一つは、異界の話を異界からやってきた霊的存在から直接聞くことかできることであろう。

 

  ここで注目すべきことは、ワキである僧が亡霊を救うために何か具体的な行動を始めるというわけではないことである。僧はただ静かに座したまま、亡霊の恨みや苦しみにじっと耳を傾け、その苦しみを自分の苦しみとして内面化するだけである。しかし、そのことで幽霊は救われて成仏するのである。僧のその幽霊との出会いに立ち会い、幽霊の声を僧と一緒に聞くことで、観客である現生の我々の内面もまた変わる。観客として皆が一緒にその内面的変化を体験することで、観客という「共同体」が救いを経験するわけである。ちなみに、ワキは「脇役」という意味ではなく、「分ける」が語源で、「この世とあの世の分け目、境界にいる人物」という意味である。だからこそ、幽霊の苦しみに深く耳を傾けることができる人物なのである。

 

  これはまさに、暴力の被害者の心の最良の癒しは、その人の体験に静かに耳を傾け、その苦しみを自己のものとして内面化し、被害者とその痛みの体験を共有する聞き手の態度であることを、謡と舞という形で具現化したと言えるのであろう。例えば、平治の乱で傷つき、落ち延びた青墓の宿で父や弟と一緒に自刃して果てる少年・源朝長と、その朝長の最後を看取った女性についての能『朝長』などは、その典型であろう。このように、夢幻能には、人の苦悩という「見えないもの」を「見せる」機能が備わっているのである。

 

能『朝長』の一シーン

 

 

  能劇は、幽霊を主役とするという点で、世界に類例をみない極めてユニークな演劇である。幽霊は、通常の演劇では、見えるか見えないか分からないくらいの「脇役」しか与えられていない。ところが夢幻能では、幽霊が時空を超えて我々の眼前に姿を現わし、もろに語りかけてくるので、その話は当然に時間的限定性を超越した「歴史超越的」な「普遍的」なメッセージとなる。しかもその物語の内容が、ある特定の歴史的時期における具体的な「出来事」を基にしてはいるのであるが、「語り」の内容が「謡」という濃縮された「詩的な表象的表現」をとり、顔を含めた「身体的動き」は、ごく限られた数の「能面」や抑制された型に沿った手足の動きによる凝縮表現で、人間の苦悩・恐れ・怒りなどを徹底的に洗練し、純化し、高度にシンボリックな表現にまで簡潔化、凝結化させているため、これまた世界中のあらゆる人間に深い共感を呼ぶような「普遍性」を強くそなえているのである。したがって、惨たらしい殺戮の場面などを具体的に再現しなくとも、いや再現しないからこそ、その惨状の実相は、強烈なシンボリズムの形で観覧者である我々の魂を震わせるのである。

 

  したがって、能楽は異常で激烈な出来事の「場」、特定の「場」での設定でありながら、同時に普遍性をもった「場」に置かれた人間の、精神的葛藤の時空を超えた普遍的な形での超シンボリックな表現なのである。14世紀という昔に、なぜこのような、「霊魂だけが持つ普遍的、形而上的世界を描く」能劇という驚くべき芸術が日本で生まれたのか。鎌倉時代後期から室町時代初期は戦乱が続く世の中であったため、人々が「心の癒し」を求め、「平和」を求め、戦乱の犠牲者の苦悩と悲哀への共感を多くの人々に呼び起こす演劇を作り出したのも、したがって不思議ではないのかもしれない。その意味では、同じく人類への普遍的メッセージを内包しているギリシャ悲劇が産み出された歴史的背景と似ているのかもしれない。

 

  能楽は古典だけではなく、新作能と呼ばれる現代になって作られたものも多数あるが、そんな新作能の夢幻能のなかにも、「文化的記憶」として活用できるすばらしい作品がある。その点で最も注目できる新作能は、多田富雄(1934〜2010)の作品であろう。なぜなら、多田は、被爆の残虐性、非人道性を見事にシンボル表現化した「原爆忌」と「長崎の聖母」、沖縄戦の地獄を描いた「沖縄残月記」、若い時代に強制連行で夫を失った韓国人老婆の痛恨の悲しみを描いた「望恨歌」などで、日本の戦争加害と被害の両面を取り扱い、能という芸術作品で「過去の克服」を見事に成功させていると考えられるからである。「過去の克服」は、歴史学の知識上の学習だけでできるものではない。多田の新作能は、まさに、この「文化的記憶」の日本のモデルとも言えるものの一つと称してよいであろう

 

(以下、多田富雄の紹介と「原爆忌」に関する説明は省略)

 

実は、「原爆忌」や「長崎の聖母」は海外でもすでに何回も上演され、大変好評で、観客たちも観劇後の印象として「癒し」を感じたという意見が多い。例えば、2015年、「長崎の聖母」がニューヨークで上演されたことを伝えるニュースでは、このときの観客へのインタヴューでも、原爆殺戮に9・11テロ事件を重ね見たという興味深い意見が出されていた。なお、『多田富雄新作能全集』には、「原爆忌」や「望恨歌」など6作の英語訳も含まれている。

 

  原爆をテーマにした新作能には、多田富雄の上記の能劇の他に、京都の能楽師で能面作家でもある宇高通成の作による「原子雲」といったものもある。これまた観客の心を震わせる傑作である。この「原子雲は、母親が原爆で失った幼子を探し歩いてたどり着いた黄泉の国で、ヤナギの若木に生まれわったわが子と再会するが、失われた多くの命を忘れずに祈れば、再び生まれわることができると聞き、母親がその言葉に安堵して俗界にるという筋書きである。宇高は、2001月11日のテロ事件をきっかけに、平和を祈願するためにこの「原子雲」を書き上げたとのこと。2007年には、1945年2月に米英軍による猛烈な爆撃で崩壊したドレスデンで、またベルリンとパリでもこの原子雲」を上演し、好評を博した。

 

  たいへん興味深いことは、日本人だけではなく、最近は外国人のなかにも新作能を作る人が出てきたことである。例えば、オーストラリアのシドニー大学の音楽学の名誉教授アラン・マレットは『Oppenheimer(オッペンハイマー)』という新作能を、2015年に作っている。マレットは日本音楽の専門家ではなく、アボリジニ伝統音楽の研究を専門にしてきたが、日本文化、とくに禅仏教に深い関心をもち、禅宗の僧の資格までもつユニークな人物である。マレットは、武蔵野大学文学部教授で能楽専門家であるアメリカ人、リチャード・エマートの協力をえて、この新作能を創作した。オッペンハイマーが、晩年に、核兵器開発に主導的な役割を果たしたことを後悔して、1945年7月16日の史上初の核実験「トリニティー」を回顧しながら、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節「私は死神なり、世界の破壊者なり」を暗唱したことはよく知られている。これを新作能の創作に応用。原子爆弾という大量破壊兵器を産み出し、無差別大量殺戮を犯してしまったことへの救い難い罪意識にとらわれ、成仏できないオッペンハイマーの苦悩を見事に描き出した内容となっている。おもしろいことに、シテやワキの謡も地謡も、すべてが日本語ではなく英語で行われている。

 

  このように、いまや能楽は、その演劇が内包している「象徴性と普遍性」という固有の優れた特徴から、日本という国土を超えて、世界的な芸術になりつつある。このことを日本人、とくに広島市民はもっとよく知り、自覚し、その活用について広く議論すべきであろう。原爆関連の新作能と同時に、それとセットにした形で「望恨歌」や「沖縄残月記」を上演すべきだし、そのことによってこそ、広島が、そして日本が真の意味での「普遍的な平和メッセージ」を世界に発信できるようになる。

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以上が抜書きしたものです。

 

追加情報です:

*抜書き中で触れている、「長崎の聖母」がニューヨークで上演されたことを伝えるニュースは、以下のYoutubeで観れます。

https://www.youtube.com/watch?v=LmJinbMKI8Y

 

*新作能「原子雲」を作られ上演された宇高通成氏は、非常に残念ながら、昨年3月に亡くなられました。72歳でした。まだまだご活躍いただけると期待していたので、残念でなりません。2010年7月9日の広島のアステールプラザ能楽堂での「原子雲」の素晴らしく感動的な宇高さんの公演を、私は今も忘れることができません。宇高さんによる「能の精神」の(日本語による)説明のYoutube (字幕は外国人向けですが)は、能楽、とくに「夢幻能」とは何かの簡潔な解説になっています。宇高さんも説明されているように、能楽師で能面も自分で作っていた人は、宇高さんが日本で(したがって世界でも)最後の人でした。

https://www.youtube.com/watch?v=108d4KnZPxo

 

*シドニー大学の音楽学の名誉教授アラン・マレット教授の新作能『Oppenheimer(オッペンハイマー)』(英語)の全編を下記のYoutubeで観ることができます。1時間28分と長いですが、最後の10分ほどの、不動明王の前でのオッペンハイマーの舞はなかなかの見ものです。

https://www.youtube.com/watch?v=lqfdoPAxiVk

 


2021年11月9日火曜日

かくも生き難い日本:

 小室夫妻バッシングと「天皇裕仁パチンコ玉狙撃事件」犯人・奥崎謙三との関係?! (上)

 

目次:

本題に入る前に

現在の日本の憎悪に満ちた「この空気 この音」

天皇と皇室メンバーの「人権」を否定する憲法学者

問題は憲法に埋め込まれている決定的矛盾


本題に入る前に

 

詩「骨のうたう」の作者として広く知られている竹内浩三は、1921年5月に現在の伊勢市吹上に生まれ、1940年に日本大学専門部映画科に入学、映画監督になることを夢見る若者でした。学生時代には伊丹万作とも知り合っています。しかし、当時の多くの学生が繰り上げ卒業になって戦地に送られたように、彼も1942年9月に卒業となり、1年間の軍事訓練を受けて、フィリッピンに送られました。戦死公報によれば、1945年4月9日に、ルソン島バギオ北方1052高地という場所で戦死したことになっています(実際には生死不明)。23歳という若さでした。その竹内が残した多くの詩の中の一遍に、「日本が見えない」と題された作品があります。明らかに、自分が戦地で亡くなり、魂だけが日本に戻ってきたが、自分の目の前で「大地がわれ」、日本が崩れ去ったことを幻想して描いた、祖国への深い幻滅が込められたとても哀しい作品です。

 

竹内浩三

 

 

この空気
この音
オレは日本に帰ってきた
帰ってきた
オレの日本に帰ってきた
でも
オレには日本が見えない

空気がサクレツしていた
軍靴がテントウしていた
その時
オレの目の前で大地がわれた
まっ黒なオレの眼漿が空間に
とびちった
オレは光素(エーテル)を失って
テントウした

日本よ
オレの国よ
オレにはお前がみえない
一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
なんにもみえない
オレの日本はなくなった
オレの日本がみえない

 

  コロナ感染症のために2年前から、日本に一時帰国することが私はできないでいます。しかし、2019年の一時帰国の折には、なぜか滞在中に、フトこの「日本が見えない」の詩が繰り返し頭の中に浮かんできてしかたがなかったのです。「空気がサクレツしていた 軍靴がテントウしていた」の部分だけが、「空気が淀み、心が鬱陶していた」という言葉に変わり、「オレにはお前がみえない」という句と同時に、「オレの日本は崩れていく」という音声が静かに耳元で響き続きました。日本の現在の様々な暗澹たる社会現象と、「人間の質」が劣化した顔ぶればかりの今回の衆議員選挙候補者と選挙結果で、またまた「あ〜、日本はますます崩れ、みえなくなりつつある」という暗い想いにさせられるばかり。

  政治家・官僚の知性とモラルのはなはだしい頽廃、世界一の国債発行残高(=膨大な額の国家借金)と止まらない財政悪化、にもかかわらず毎年の軍事費大幅増、巨額の費用を投入し続けても終わりの見えない原発大事故処理、世界一の高齢化と毎年深刻化する(特に女性の)貧困率にもかかわらず劣化する一方の社会保障制度、それとは逆行的に拡大し続けるいちじるしい貧富の差と自殺率、一向に改善しないどころかむしろ悪化する社会的(性、障がい者、民族、難民)差別とヘイト・クライム、米国の「パックス・アメリカーナ(世界軍事支配による平和)」政策への相変わらずの盲目的追従、急速に悪化する地球温暖化とパンデミックに対する無策などなど、私たちをとりまく社会環境は、文字通り「生きる」ことをいたく困難にしています。

  「竹内浩三の魂がこの今の祖国を眼の当たりにしたら、どのように描写するのだろうかしら……」という想いも、しばしば浮かんできます。

 

現在の日本の憎悪に満ちた「この空気 この音」


  小室圭・眞子夫妻(ならびに圭氏の母親)に対する執拗で厭悪に満ちみちたメディアとソーシャル・メディアでの激しいバッシングの、憎悪溢れるおぞましい「この空気 この音」は、明らかに日本社会が精神的に深く病んでいる症状の一つであるように私には思えます。歪んだ社会の中で精神が病み疲れている多くの人間が、押し込められて息苦しくなっている暗闇から抜け出そうともがき喘ぎ、解消し難いその不満を、「小さな幸せを大切に育もうとしている」2人の若者に向けて一斉に吐き出す。メディアがその憎悪不満を掻きたて、かくして憎悪はさらに多くの市民の心を病ませる。憎悪は、憎悪の対象にされた不幸な人たちの心を傷つけるだけではなく、憎悪する人間の心をさらに侵し、人間性を奪っていく。今、小室バッシングだけではなく、事実を憎悪や悪質な虚偽、隠匿などで歪曲させる、似たような多くのケースで作られる「この空気 この音で」、日本社会がいかに深刻に患っているのか、さらには、そのことで日本社会全体が人間性をひどく失った社会へと急速に劣化しているのか - このことに気がついている人たちがあまりにも少ないのではないか、と私には懸念されます。

  小室バッシングの具体的な問題については、あまりにもバカバカしくてコメントしたくもありませんが、2つだけ述べて起きます。

第一に、圭氏の母親の借金問題に関する報道で決定的におかしな点は、圭氏の母親の実名や信憑性の疑われるような個人情報がうんざりするほどメディアで公表されているのに、金を貸したと称する「紳士的な男性」の名前や個人情報は全く明らかにされていません。しかも、この「紳士的な男性」は、圭氏が眞子氏と婚約する予定であるとの報道がなされるや、大衆週刊誌の記者に「関連情報」を提供しています。明らかに、週刊誌報道を狙った行動としか考えられません。借金問題の解決に向けて動き出した小室氏側は弁護士を仲介させているのに対し、「紳士的な男性」側は週刊誌記者を代理人としています。このような事態がもしオーストラリアで起きたならば、実名も明らかにせず、代理人を弁護士ではなく一介の記者にしている「紳士的な男性」は、社会的に厳しい批判を受けることは間違いないでしょう。ところが日本では、二者間のこのあまりにも不均衡性を指摘する報道がほとんどなく、一方的に小室側を槍玉にあげています。

第二に、借金の問題は圭氏の母親と「紳士的な男性」との間の問題であり、厳密には、つまり法的には、圭氏とは関係がありません。「母親に借金があるから息子は結婚してはならない」と批判する権利が、赤の他人には勿論、結婚しようとしている二人以外の誰にもないことは、憲法24条に言及するまでもなく、明らかです。そうした批判の行為は、明らかにプライバシーの侵害です。

プライバシーの甚だしい侵害である、惨憺たるバッシングが3年間も続き、しかも直接会うことができない過酷な状況を、小室圭・眞子の2人はよく耐え抜いたと私は心から同情すると同時に、感心します。10月26日の記者会見での2人の発言も極めて明確で、それぞれがしっかりと自己の考えと決意を述べた内容のものだと私には思えました。とくに眞子氏の言葉は、皇室を離れた自分は一私人であるという決意に裏打ちされた凛然としたものであり、一個の人間として自分を扱ってもらいたいという強い思いが私には感じられました。長い期間、過酷なバッシングに耐え抜くことで2人の絆が、他人には想像できないほど強められ、おそらく精神的にも大きく成長したのであろうと想像されます。

ところが、この会見発言後、またまたメディアやソーシャル・メディアの大半が、「謝罪の気持ちが不十分」、「軽々しく<愛している>などと言うのは軽薄」、「<愛している>という言葉の使い方がおかしい」、「愛という名の執着で己のエゴを貫いただけ」、「皇族の暴走、国民主権・民主主義の危機」などなど、理不尽極まりない罵詈雑言を浴びせています。結婚前にはバッシングの対象が小室側に集中しており、いまだ皇室のメンバーであった眞子氏への批判はほとんどなかったのが、結婚し「庶民」になるやいなや、今度は眞子氏もまた「同じ穴の狢」のようにバッシングの対象にされています。

一体全体、この2人が結婚したという極めて私的なことで、国民の誰がどんな迷惑を被ったと言うのでしょうか、なぜゆえに国民に謝罪しなければならないのでしょうか。「愛している」という表現も極めて個人的な感情の問題であり、当人が「愛」をどのように理解していようと、他人がとやかく言う権限は全くありません。そもそも、極めてプライベートな問題で、本来なら、記者会見をする必要すらないことなのです。結婚後に明らかになった圭氏のニューヨーク州司法試験不合格についても、メディアは、「これではニューヨークでどうやって生活していけるのか」と批難していますが、これも、どこでどうやって2人が生活しようが国民にはなんの関わりもないことであり、批難する権限や資格もありません。これほど簡単明瞭で基本的なことをあらためて言わなければならないこと自体が、本当に情けないことです。

要するに、問題は、なぜゆえに皇室メンバーの一人である女性の結婚 - 本来は極めて私的なこと - がこれほどまでに国民のバッシングの対象となるのか。なぜゆえに彼女とその婚約者には、「すべての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利」、あるいは「人間が人間らしく生きる権利で、生まれながらに持っている権利」という「人権」が、認められないのか。このことを私たちは熟考してみる必要があります。

 

天皇と皇室メンバーの「人権」を否定する憲法学者

 

皇室メンバー、特に女性のメンバーがバッシングの対象になる例は、今回の眞子氏に限られたことではありません。現在の上皇后美智子も、皇后雅子もバッシングを受け、ストレスから美智子氏は失声症を、雅子氏が適応障害を患ったことは周知のところです。彼女たちのプライバシーが侵害され、個人的な人権が尊重されないという事態から発生した問題です。皇室メンバーの女性たちの人権が、なぜゆえにかくもなおざりにされるのでしょうか?

近頃メディアで売れっ子の憲法学者である木村草太氏はAERA11月1日号)で、大学時代の自分の先生である長谷部恭男氏の説を引用して、次のように述べて、自分も同意見であることを示唆しています。

 

「一般的な見解では、天皇・皇族は憲法上の権利の保障対象ではありません。長谷部恭男先生は『身分制の飛び地』と表現します。憲法自身が、平等権をはじめとした近代的な人権保障規定を適用しない例外的な身分制を定めているということですね。

………

皇族の婚姻には、憲法24条は適用されません。だから、男性皇族の婚姻に皇室会議の議を要求した皇室典範は違憲ではないのです。現状、女性皇族には婚姻の自由がありますが、それは憲法上の権利ではなく、皇室典範がそう定めているからです。女性に皇位継承資格を認めれば、婚姻の自由が制約されるかもしれませんが、それは憲法24条違反ではないでしょう。」(強調:引用者)

 

つまり、東京大学名誉教授の長谷部氏と彼の弟子格の首都大学東京准教授・木村草太氏の2人は、天皇ならびに皇室メンバーには、国民なら誰であろうと持っている権利=基本的人権が与えられていない、というのが「一般的見解」だと主張しています。このような解釈を一体誰が「一般的見解」と決めたのか、「一般的」とは憲法学者の間での大多数意見という意味なのか、私は木村氏に訊いてみたいです。憲法学者の中でも、樋口陽一氏のように、天皇にも国民同様に普通に権利はあるという見解をとっている人もいますから。

周知のように、憲法1条で天皇は「日本国民統合の象徴」となっています。私は憲法学者ではありませんが、誰にも侵されてはならない基本的人権を有している国民一人一人の「統合の象徴」である天皇が、その人権を有していないなどという主張は論理的に全くおかしいと考えます。「国民統合の象徴」である天皇が国民の姿を反映していないならば、「象徴」とされる資格を全面的に欠いていることになります。しかも、当たり前のことですが、天皇は日本で生まれ育った一人の人間です。皇室メンバーも全員が日本人と称される人間です。その人間の人権が否定されているなどという主張は、日本国憲法11条、13条、14条で保障されている基本的人権を否定するものです。念のためにこの3箇条を下に記しておきます。

 

11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」

13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(強調:引用者)

 

さらに、この「基本的人権」は「世界人権宣言」第1条で、人類普遍の原理であることが明確に確認されています。いわく、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」

  ということは、日本を代表する(?)憲法学者の大先生である長谷部氏や木村氏は、天皇と皇室メンバーを「国民ともみなさないし、人間としても認めていない」という、摩訶不思議なことになります。この2人の先生は、 「天皇・皇族は憲法上の権利の保障対象ではない」その理由については、天皇・皇族の存在だけが「身分制の飛び地」になっているからだと説明します。では、なぜそこだけが「身分制の飛び地」になっているのかについては何ら説明がありません。憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とはっきり規定しています。

  木村氏は「皇族の婚姻には、憲法24条は適用されません。・・・・女性皇族には婚姻の自由がありますが、それは憲法上の権利ではなく、皇室典範がそう定めているからです」と述べています。皇室典範の規定が憲法24条に反しているならば、その規定が違憲なのですから、規定を修正すべきであって、「身分制の飛び地」であるから憲法が適用されないという説明も、私に言わせればメチャクチャです。「身分制の飛び地」など、憲法はもちろん皇室典範にも、どこにも一言も説明はありません。したがって、なんの説明にもなっていないです。皇室典範が憲法を無視してよいという法的根拠があるとするなら、それをはっきりと説明するのが憲法学者の社会的義務です。

ところが長谷部氏などは、「現実にこの憲法解釈でうまく機能しているのだから、それでよい、何も問題はない」と、答えにもならない説明をしているようです。何も問題はないどころか、すでに説明しましたように、皇室の女性たちは人権を無視されて大変な精神的苦痛を負わされています。この現実に憲法学者である彼らは、同じ人間としてどう応えるのでしょうか?

 

問題は憲法に埋め込まれている決定的矛盾


  本当に問題なのは、実は、憲法そのものに解決し難い矛盾が成立当初から埋め込まれていることなのです。その決定的矛盾の発生源に憲法学者である彼らが全く気がついておらず、その矛盾をそのままにしたまま、自分も他人も誤魔化す憲法解釈で、「うまく機能している」かの如く見せかけているのです。

  その矛盾とは、簡潔に言えば次のようなことです。1945年の敗戦で、日本は民主主義的な立憲君主制国家へと改革され、基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理に基づく「民主憲法」を成立させたことになっています。ところが、「人間宣言」をして神から人間になったはずの天皇、ならびにその神の親族である皇室メンバーたちが、完璧に「人間化」することに失敗した、という矛盾です。(ちなみに、いわゆる「人間宣言」の中で、自分が「人間になった」とは天皇裕仁は一言も言っていません。)完全に人間化されなかった天皇が「日本国と日本国民統合の象徴」となり、皇室メンバーは皇室典範でそのまま「神の親族」の如く取り扱われ続けられていること、これが憲法に埋め込まれている決定的矛盾なのです。結論を先取りして言えば、それは天皇制自体が持つ矛盾です。

この矛盾を、ジョン・ダワーは、「象徴」としての天皇は「天から途中まで降りてきた」ことだと描写しています。この矛盾ゆえに、天皇や皇室メンバーにも憲法で保障されているはずの人権が、十分に機能しなくなっているのです。憲法が天皇や皇室メンバーに権利を保障していないという長谷部論は、したがって、私に言わせれば決定的に間違っています。憲法学者が、人権保障が与えられない人間(天皇や皇室メンバーという特殊の地位にあるにせよ)の存在を平気で認めるということ自体が、私に言わせれば憲法学者として失格です。上に述べたように、日本国憲法だけではなく、人類普遍の原理に明らかに反しています。

  この矛盾については、ここで詳しく説明している時間的余裕がありません。詳しくは、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の第3章<「平和憲法」に埋め込まれた「戦争責任隠蔽」の内在的矛盾>と4章<象徴天皇の隠された政治的影響力と「天皇人間化」を目指した闘い>を読んでいただければ光栄です。

今は、拙著の4章の中の関連した一節だけを下に抜き出しておきます。私は次のように書きました。

 

憲法第1章1条で、天皇が権力を持たない単なる「象徴」になったことで、天皇と天皇制が「人間化」したなどとは決して言えない。憲法6条、7条で規定されているように、「象徴」として天皇の機能は、内閣総理大臣、国務大臣や最高裁判所の裁判官の任命、国会召集、法律・政令・条約の公布などの「国事行為」であるが、天皇はこれらをあくまでも機械的、儀式的に執り行うのみで、これらの決定に関して私心を表明することはできないし、ましてや拒否するなどということは絶対にできない。この点で、3つの権利(大臣から相談を受ける権利、大臣を激励する権利、大臣に警告する権利)を君主が持つ、英国型立憲君主制とは決定的に違っている。しかも、自分が「任命」した人間がどのような間違いを犯そうと、「発布」した法律・政令などが国民にとっていかに不都合なものであろうと、あるいは違憲の疑いがあろうと、その「責任」は全くとらないという、はなはだしく奇妙な状態に置かれているのが「象徴天皇」なのである。その意味で、天皇の「あらゆる世俗的責任からの自由」、すなわち「無責任」は、明らかに明治憲法3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」を継承している。

 

次回に続く

 

次回、小室夫妻バッシングと「天皇裕仁パチンコ玉狙撃事件」犯人・奥崎謙三との関係?! (下)の目次

日本全体が人権軽視の「身分制の飛び地」!

人権を無視されている天皇からの距離で「人権の尊重度」が測られるという矛盾

身体を張って憲法の矛盾と闘った奥崎健三