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2021年9月7日火曜日

私見 広島「被服支厰」の活用について(2)

「記憶の継承」に芸術をどのように活用したらよいのか

 

1)本題に入る前に: ケーテ・コルヴィッツと私の義母について


ドイツの版画家・彫刻家として有名なケーテ・コルヴィッツ(1867−1945)の作品については、数回このブログでも触れました。2019年12月のブログ記事、「ドイツ旅行記」の中でも、最も代表的な彼女の作品であるブロンズ彫刻「ピエタ」に関する私自身の考えを記しておきました。この「ピエタ」(下の左の写真)は、1937〜39年にかけて制作されたものです。右下の写真は、死者を前に悲しみにうちひしがれている女性の姿を描写した、彼女の1924年作のデッサンです。

 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下の写真は、私の義母(私の連れ合いの母)、インゲ・キング(1915−2016)が1943〜45年にかけて制作した「ワルシャワ」という題の彫刻で、現在は、キャンベラのオーストラリア国立美術館の所蔵作品です。これは、1939年9月にポーランドに侵攻したドイツ軍が、同年11月に、ワルシャワ市内に住む全てのユダヤ人を特別居住区に閉じ込めるために作った「ワルシャワ・ゲットー」、そのゲットーで(強制収容所への住民移送が始まった)1942年7月までに飢餓、栄養失調、伝染病などで亡くなった8万3千人という大勢の市民を悼み、さらには1943年初めのユダヤ人戦闘組織による抵抗運動「ワルシャワ・ゲットー蜂起」で犠牲になった多くの市民をも悼む目的で、インゲが亡命先のスコットランドのグラスゴーで作った作品です。


 

 

ナチス政権下、コルヴィッツは作品展示を禁止されていましたので、「ワルシャワ」を制作したインゲは、まだベルリンに住んでいたときに「ピエタ」を見ていません。しかし、上の「ピエタ」や版画作品から、インゲがコルヴィッツから強く影響を受けていたことは一目瞭然だと思います。

インゲ(本名はインゲボルグ・ノイフェルト)は1915年にベルリンで生まれたユダヤ系ドイツ人でした。ヒットラーが政権を握った1933年には17歳でしたが、父親は1930年に病死しており、歳のかなり離れた三人の姉の援助で彼女は学校教育を終えることができました。しかし、間もなく、三人の姉のうち一番目と二番目の姉は、それぞれ米国とパレスチナに移住(母親も姉と一緒にパレスチナに。三番目の姉はまだドイツにいましたが、後年、逃げ遅れてホロコーストの犠牲になっています)。インゲは、シオニズム文化運動を推進しながら共同生活をする若者たちのグループの支援を受けながら、ベルリンでの生活を続け、美術に興味を持ち始めました。とりわけ、コルヴィッツの親友で、彫刻家・画家であり劇作家でもあったエルンスト・バルラハ(18701938)とコルヴィッツの作品に感銘を受けて、彫刻家になりたいと強く希望するようになりました。

1937年、21歳で彼女はベルリン芸術大学に入学しますが、この時に芸大に在学していたユダヤ系学生は3人のみで、全員が女性だったとのこと(そのうちの一人が、シャルロッテ・サルモンという、最終的にアウシュヴィッツで亡くなった画家です。ベルリン在住の私の友人・梶村太一郎さんによると、サルモンは、コンクールで主席になったにも関わらず授賞拒否の差別にあったため、37年の秋に自主退学しているそうです。なぜか最近、ヨーロッパで彼女のことがとても注目されています)。しかし、インゲは、翌年11月にドイツ各地で発生したクリスタル・ナハト(水晶の夜)暴動事件=ユダヤ人迫害事件の直前に、退学させられています。

実は、インゲはベルリン芸術大学に入学する前に、コルヴィッツに実際に会っています。コルヴィッツはベルリン芸術大学の教授を務めた人でもありましたが、反ナチスの社会主義者という理由から、ナチスが政権を握るや解雇されました。作品展示も禁止されましたが、作品を作る活動は続けることができました。梶村太一郎さんによると、コルヴィッツは、1934年以降は、ベルリン中心部の市役所に近い場所に設置された芸術家たちのための共同アトリエの一室を自分のアトリエとしていたそうですから、おそらくインゲは、そのアトリエにコルヴィッツを訪ねていったものと思われます。

インゲがコルヴィッツから受けた印象は、彫刻家にしては「指がとても綺麗で繊細」であり、目が「鋭いけれど他人を見下すような冷たさは全くなく、やさしくて同時にとても高貴な感じ」のする光を持っていたそうです。いろいろとコルヴィッツから助言をもらったそうですが、結局、「女性が芸術家になるためには、並大抵の苦労ではすまない。余程の覚悟がない限りやめておいたほうがよい」と幾度も言われたそうです。インゲはそれに対して、「いいえ、私はどんなに辛くても彫刻家になります。あなただってなったではないですか」と反論したそうです。義母の「精神的な強靭さ」と「遠慮のなさ」は痛いほど知っている私ですので(笑)全く驚きませんが、コルヴィッツは生意気なこの若い女性をどう思ったでしょうか。私は、コルヴィッツがインゲに暗に国外に逃げることをすすめようとしていたのではないかと思うのですが。

1938年末に退学させられたインゲは、39年5月にロンドンに亡命しました。もう少し長くベルリンに留まっていたら、三番目の姉のようにホロコーストの犠牲になっていたことは間違いないでしょう。ロンドンでは、英国王立芸大に奨学金をもらって入学しました。しかしドイツ軍による空爆を繰り返し受けるようになり、王立芸大も閉鎖となったため、41年にグラスゴーに移り、グラスゴー芸術学校に奨学生として入校し、44年に卒業しています。上記の「ワルシャワ」は、芸術学校在学中から制作にとりかかり、2年かけて完成させています。45年5月に戦争が終わるや、彼女はロンドンに戻ります。

詳しく書いている余裕がないので、その後の彼女の経歴についてはできるだけ簡単に書いておきますが、グラスゴー滞在中から彼女は、具象的彫刻から徐々に抽象的スタイルの彫刻制作に変わっていきます。とくに、戦争が終結して再びロンドンに戻り、英国内外からロンドンに集まってきた若い芸術家たちとの交流から刺激を受け、急速に抽象彫刻への傾向を強めて行きました。しかし、彼女本人からすれば「自分の作品を抽象的とは呼びたくない。なぜなら自分の頭の中の考えでは<抽象>をイメージしているのではなくて、あくまでもそれは自分の表現方法に過ぎないから」と、その時代から言っていたようです。

  その後、ロンドンで創作活動を続けながら他の芸術家たちとの共同展示を繰り返し(この時期に将来の夫、豪州人のグラハム・キングと知り合っています)、1949年3月に初めての個展を「ロンドン・ギャラリー」という現代美術専門の画廊で開き、これが大成功。思いがけない収益があったので、次の半年をパリで過ごし、さらにもう半年をアメリカに遊学。ニューヨークでは、当時、すでに注目を集めていた抽象画家のマーク・ロスコウやバーネット・ニューマンとも親しくなり、ジャクソン・ポロックの絵画にも衝撃的な感銘を受けています。当時ハーバード大学で教えていたモダニズムを代表するドイツの近代建築家、ヴァルター・グロピウスにも会い、自分の作品の写真を見せたところ、ぜひアメリカに移住してくるようにと勧められました。しかも、ドイツのバウハウスをモデルにシカゴに創設された大学院大学ILTデザイン研究院への奨学金をすぐに用意してくれたそうです。

  しかし、その時すでにロンドンでは、オーストラリアのメルボルンから遊学していた版画家であるボーイ・フレンド、グラハムが彼女の帰りを待っていました。その後、いろいろな経緯があって、インゲは米国移住をあきらめ、グラハムと結婚して1951年2月にメルボルンに移住しました。

その後の10年、彼女はなかなか新しい彫刻作品を作れないまま、主にモダンなイアリング、ネックレスや指輪などをデザインして作る仕事をしています。彫刻が作れなかった決定的な理由は、彫刻を置く「自然環境の違い」にありました。ヨーロッパの柔らかくてやさしい緑色の森林に代表される自然環境とは全く異なった、オーストラリアの荒っぽいユーカリの木の森林、赤色の土と灌木の砂漠地帯という自然環境、この違いです。

彼女に言わせれば、長年の熟考といろいろな試作の繰り返しの結果、「(オーストラリアの)この特殊な荒っぽい自然に打ち勝って作品が立ち続けるには、彫刻の形が極めて簡素でありながら、しかし内面に強い力を秘めているものでないと、<美>としてなりたたない」という結論に達したそうです。「彫刻の大きさが問題ではなく、たとえ20メートルという巨大な彫刻を作っても、単純な形の、内に力が秘められた作品でないと、作品の存在が自然環境に負けて消されてしまう」と彼女は言っています。こうした作品を作るためには、その特殊な自然環境を十分理解することが必要で、それには10年かかったそうです。1950年代半ばに2人の子供を産んだことも、作品制作に専念できなかったもう一つの理由でした。

  しかし、1960年代から本格的に彼女が創作し始めた作品も、ほぼ10年ごとにその表現形式に変化がみられます。詳しくその変化について今説明している余裕がないので、ごく簡単にいくつかの作品を紹介するだけにとどめておきます。

  下の写真は1976年にデザインしたForward Surge (前進するウネリ) と呼ばれる作品で、メルボルン市内の美術館やコンサートホールの建物が並んでいるアート・センターの中心部に設置されています。大きな波を想像させる極めて単純な形ですが、自然と対峙して闘っている力強さをまざまざと表現しているように私には思えます。 



 

  

  下の2つの作品、上のShearwater (ミズナギドリ) と下のGrand Arch(壮大な門)は1990年代初期から半ばにかけての作品です。「ミズナギドリ」はメルボルン市内中心部を流れるヤラ河沿いの、レストラン街の河を見渡す歩道に据えられています。「壮大な門」はメルボルンから車で1時間半ほどかかる田舎の、海を臨むとても美しい場所にあるポイント・リオ野外彫刻園の入り口に設置されています。この2つの作品からは「自然と対峙して闘っている」という印象はもはや受けず、オーストラリアの自然の中に凛として独立して立っているという印象を私は受けます。つまり、「闘う」という姿勢はあまり見えなくなり、彫刻が持っている潜在的な強い力がごく自然にそのまま表れているという印象を受けます。

 


 

 

 

 

そして、下の作品は Ring of Saturn(土星の輪 <縦横ともに4.5メートル>)と題された2005〜06年に制作された作品で、メルボルン郊外のハイディ現代美術館の建物の横の芝生の上に設置されています。この作品を制作したときインゲは90歳になっていますが、この段階になると、作品は自然環境を完全に超越して、どんな自然環境にも調和することができ、力強く且つ美しい自己の存在を謳歌しているという印象を私は受けます。さらに、作品それ自体で、一つの世界=宇宙を成しているようにも私には思えます。


 


 

 

インゲは2016年に百歳で亡くなりましたが、目がほとんど見えなくなる97歳まで作品のデザイン考案を続けました。私が特に記憶に残っている想い出の一つは、1990年代後半、つまり彼女が80歳代初期になると、しばしば「私はいまとても自由を楽しんでいるのよ」とにっこり笑いながら、繰り返し言っていたことです。80歳代になってなぜ「自由」なのか、私にはそのときはよく分かりませんでした。しかし、「土星の輪」や同じ頃作られた他の作品をいま見直してみると、全て、実によく「精神的自由を謳歌」しているような印象を受けます。

人生のいろいろなシガラミ、とりわけ若い時代に「ナチスの抑圧で自分の存在がいつ消されるか分からない」という恐るべき体験を強いられた人間にしてみれば、その後の人生は「自己の存在を確認し続けるための闘い」であり、その「闘い」をどう表現するかに打ち込まなければいられなかった芸術家のインゲ。そんな彼女は80歳になってようやく、「もう無理して闘う必要はないし、<力>を表現する必要もない」、「あるがままの自然な形、全てを超越した自由な表現、それを楽しめばよい」という、いわば「悟り」のような境地に達したのではないかと私は考えています。

 

アトリエで彫刻の模型を制作中のインゲ・キング
         
 

ケーテ・コルヴィッツの作品から受けた感銘から出発し、そこから自分なりの表現方法を創り出し、ところが全く違った環境に置かれて作品の創作に行き詰まり、しかしそれでもなんとか自分なりの表現方法をあみ出して闘い抜き、最終的に芸術作品の創作を通して「自由」をしっかりと我が物とした女性。そんな素晴らしく逞しい女性を義母に持ったことを、私はとても幸運と感じると同時に誇りに思っています。

しかし同時に、妻であるインゲを生涯あたたかく支え続け、インゲと互いに刺激し合いながら自分も素晴らしい版画を作り続け、2008年に95歳で亡くなった義父、グラハム・キングも私は心から尊敬しています。

 

(2)芸術運動は常に新しい文化創造でなければ力を失うのではないでしょうか

 

前置きがずいぶん長くなってしまいした。ようやく本題に入ります。ケーテ・コルヴィッツの作品、とりわけ版画作品は日本の画家たちにも大きな影響を与えました。丸木俊、岩崎ちひろ、四國五郎や、あまり知られていない版画家・上野誠などがコルビッツの作品から大いに刺激を受けていたことは、彼/彼女たちの初期の作品を見てみれば明らかです(なお、上野誠については、当ブログの「戦争と美術:絵画と版画から考える戦争と平和」<2016年8月23日>を参照してください)。そして、コルヴィッツから受けた感銘を自己の作品創作に活かし、それぞれが独自の芸術スタイルを発展させて、素晴らしい作品を創り出しています。ご承知のように、丸木位里・俊夫妻、四國五郎も上野誠も被爆者をテーマにした作品を数多く残しましたし、岩崎ちひろは日本人の子どもだけではなくベトナムの子どもたちの戦争被害を描いています。

 「原爆の図」や「命どぅ宝 沖縄戦の図」、「南京大虐殺の図」という戦争被害と加害の両方に焦点を当てた作品を所蔵している丸木美術館は、本来ならば、広島に存在すべきものだと思います。丸木美術館を「被服支厰」の一棟に移転させ、同じ場所に四國五郎、上野誠、岩崎ちひろなどの作品を展示する新しい美術館を創設できれば、理想的だと私は思います。

しかし、原爆をテーマにした絵画や彫刻は日本だけに見られるものではありません。例えば、1950年代に英国がオーストラリアの砂漠地帯マラリンガで行った核実験では、先住民アボリジニの人たちが死の灰をかぶって被爆していますが、先住民の芸術家たちも原爆をテーマにした独特の絵画や彫刻を創作しています。「新美術館」がこうした核実験を行った国々の被害者、あるいは反核芸術家によって創作された芸術作品を収集し展示することで、核被害が広島・長崎だけの問題ではなく、世界的な問題であることを美術館の訪問者に知ってもらうことができます。

 


 

 

その新しい美術館には、原爆関連の作品だけではなく、日本の戦争加害行為をテーマにした作品も展示されるべきです。私が現在注目している若手の画家に、弓指寛治という画家がいます。彼は「死者への鎮魂」や「自死」をテーマにした作品創作を精力的に行っていますが、彼の祖父が満蒙開拓青少年義勇軍兵であったことから、満蒙開拓をテーマにした衝撃的な作品「鍬の戦士と鉄の巨人」という下のような作品も発表しています。満蒙開発のシンボルであった機関車・特急「あじあ号」が暴走して、多くの人間を轢き殺し、跳ね飛ばしており、侵略した地域の住民のみならず、侵略していった自分たちもその「開発」によって、暴走機関車(=帝国主義軍事国家のシンボル)に殺戮されるという、加害と被害の重層性を、強烈なシンボリック表現で描写している傑作だと私は思います。


 

私が考えている「新美術館」は、弓指寛治の作品のような「戦争の加害と被害の重層性」のテーマの下に、日本国内だけではなく海外、とりわけ韓国、中国をはじめ東南アジアの様々な地域15年戦争で日本軍の残虐行為によって多くの被害を被った国々 - の若い芸術家を広島に招き、丸木位里・俊夫妻、四國五郎、上野誠、岩崎ちひろ、弓指寛治などの作品を研究し、そこから学びとったものを活かして、現代の国際社会環境にマッチした新しい独自の芸術作品を創造してもらうための、いわば「創造的美術館」です。したがって、ここには、国内外からの複数の画家や彫刻家が長期滞在し、創作活動ができるようなアトリエも設置されているような美術館です。

芸術運動は、過去の貴重な作品を保存し展示するだけでは十分な運動とはいえず、それを活かしていかに新しい芸術作品を産みだし、多くの人々に更なる感動を与え続けることができるのか、そのことがとても重要だと私は思います。そのような「戦争の加害と被害の重層性」の複合的アートの創造を支援する運動を通してこそ、広島の被害の「痛み」についても海外の人たちに深く知ってもらえるようになるはずだと私は信じます。

招かれる若手の芸術家は、英語では Artists in Residence と呼ばれる存在で、旅費はもちろん、1年ないし2年間ほどの滞在費と創作活動費を全額提供するというプログラムです。複数の芸術家に広島にこのプログラムで来てもらい、芸術家同士で刺激し合うだけではなく、市民との議論や交流を通しても新しい作品のアイデアを発展させ、滞在の最後には完成品を展示してもらい、芸術家も市民も「芸術文化活動」を通して、国際交流による平和構築活動に貢献する、そんな企画です。予算は、自衛隊のための高額なオモチャ、F35戦闘機1機の価格に相当する100億円があれば、この企画を永続的に継続することが十分可能です。

 したがって、要は費用の問題ではありません。広島市、広島県、日本政府がどこまで真に広島を「平和文化都市」の名称に恥じない、世界に通用する、世界から常に注目を浴びる「文化都市」に育てあげるための想像力と創造力を持ち、それを実現させる決断力があるかどうかです。その覚悟さえあれば、費用は簡単に捻出できます。

 こうした企画は、絵画・彫刻に限ったものではなく、文学、演劇、音楽、映画制作などにも応用されるべきものだと私は思います。

周知のように、広島には「広島文学資料保全の会」という市民組織があり、広島で被爆した広島出身の文学者、とくに栗原貞子・原民喜・峠三吉の今も残っている貴重な手書きの創作ノート、被爆記録ノート、最終原稿などをユネスコの「世界記録」に国際登録し、それらの資料を収める資料館の設置を目指す運動を粘り強く行っています。「被服支厰」には、この3人の文学者の原資料と著書だけではなく、大田洋子、林京子、小田実、大江健三郎、堀田善衛、佐田稲子、竹西寛子、つかこうへい、等々、原爆をテーマにした文学作品を残した作家たちの著書もできるだけ多く所蔵し、いつでも誰でも読めるような文学資料館が設置されるべきです。

 しかし同時に、私は、この文学資料館は「原爆・戦争文学資料館」とし、国内外で出版されている戦争関連のあらゆる文学作品を所蔵する図書館にすべきだとも思います。同時に、この図書館を、市民の様々な読書会や議論の場として活用し、市民が核兵器や戦争問題、戦争責任問題に関する考えを深める場所としてもらいたいと思います。

そして、この図書館でも、国内外から若手の作家をWriters in Residence として招き、長期滞在してもらい、被爆の実相を学びながら、「加害と被害の重層性」を視野にとりこんだ全く新しい文学作品の創作に専念してもらうという企画が実行されればと願います。作者が執筆中の作品を市民の前で読み上げ、参加者全員で内容について作者と意見を交わしながら、最終作品へと作家が仕上げていくという形での交流によって、海外から招かれた作家と市民が相互に、「異なった歴史文化的背景を持った人間同士の関係」がどうあるべきかについて、理解を深める機会を作れたらと願います。

  演劇、音楽、映画についても述べたいですが、長くなるのでまたの機会にさせてもらいます。ただ、演劇の中では、私がひじょうに高く評価しているのは日本の古典演劇である能楽です。能楽は「痛みの共有」と「記憶の継承」という点で素晴らしい機能を持っていることを強調しておきたいと思います。能楽の中の「夢幻能」はとくに、「痛みの共有」と「記憶の継承」という点で観覧者の心を深く震わせ、感動させる機能を持っています。この古典芸能を現代的なテーマで演じる新作能が、「戦争犠牲者の慰霊」という点でもつ芸術的役割の重要性に、日本人はもっとよく知るべきだと私は常に思っています。拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』の最終章で、この点について詳しく述べましたが、その中で私は次のように述べました。

 

その点で最も注目できる新作能は、多田富雄(1934〜2010)の作品であろう。なぜなら、多田は、被爆の残虐性、非人道性を見事にシンボル表現化した「原爆忌」と「長崎の聖母」、沖縄戦の地獄を描いた「沖縄残月記」、若い時代に強制連行で夫を失った韓国人老婆の痛恨の悲しみを描いた「望恨歌」などで、日本の戦争加害と被害の両面を取り扱い、能という芸術作品で「過去の克服」を見事に成功させていると考えられるからである。「過去の克服」は、歴史学の知識上の学習だけでできるものではない。多田の新作能は、まさに、この「文化的記憶」の日本のモデルとも言えるものの一つと称してよいであろう。

 

  私は「記憶の継承」は、最終的に芸術というシンボリックな表象的表現でしかできないと考えています。なぜなら、人の記憶は時間が経てば必ず薄らいでいき、忘れ去られていくものですから、ある特定の事象を人の記憶にとどめるためには、その事象を、言葉だけではなく、なにかシンボリックな表象に置き換える必要があるからです。「思考」や「知識」だけでは人の心にどうしても訴えにくいですから、人の心に深い感銘、感動を与える芸術的な表現態を使う必要があります。つまり、記憶の核となるメッセージを、単に言葉や文字だけではなく、芸術表現で人の心に奥深く刻み込むという方法、これが「記憶の継承」にとっては必要不可欠ではないか、というのが私の考えです。

 したがって、「記憶の継承」のためには、そのような芸術的な表現態が常に時代的環境に則した形で、新しい創造形式に変化していく必要があると思います。どんなに素晴らしい芸術作品であっても、次々と変化する新しい時代環境に向かってメッセージを送ることに役立たなければ、人に感動を与えることは難しくなります。芸術運動は、常に新しい文化的創造性を育むものでないと芸術運動としての力を失います。よって、広島が「平和文化都市」であり続けるためには、広島での芸術活動が、常に新しい表現態を求める創造性豊な運動でなければならないと私は思います。古い芸術作品であっても秀れたものは、新しい作品を産み出すための刺激と想像力を掻き立てます。そうした古い作品と若い作者の間の対話による芸術運動を持続させていくためには、上に述べたような、外からの若い芸術家による文化的刺激を、広島がどんどん吸収して、自己のものとしていく必要があります。

私が、義母のインゲが長い一生で作った多くの作品に、表現態の様々な変化を見て喜びを感じるのは、変化するたびに新しい創造力を彼女が産み出していたことを教えられるからです。

3)結論に変えて

私は、2010年9月20日に、あるインターネット・サイトに、「広島オリンピック代替案 - 国際平和芸術文化際の定期的開催を!」という記事を寄稿しました。みなさんご存知のように、2009〜10年に、当時の広島市長・秋葉忠利氏が2020年の「平和の祭典 オリンピック」を広島に誘致しようという開催誘致政策を打ち出し、市民の大反対を受けました。その折には、私は幾つか反対のための論考を発表しましたが、下に書き出したものは、そうした反対論の一つである「オリンピック代替案」として書いた論考からの抜書きです。この私の国際平和芸術祭の「夢」は、基本的に今も変わりはありません。「被服支厰」の芸術運動のための活用と同時に、このような国際平和芸術祭が定期的に広島で開催されれば、広島は国際的に最も秀れた「平和文化都市」として世界の注目を浴び続けるだろうと私は確信します。現在の日本の状況を考えると、夢のまた夢かもしれませんが………。しかし夢のない人間も、夢のない社会も、なんと寂しいことか………

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平和を創造するということは、広い意味では、楽しい「芸術活動」であるべきだというのが私の個人的な考えである。そこで、私たちの同じ貴重な税金を使うのであれば、平和創造につながるようなエキサイティングな文化活動のために使うことを私は提唱したい。

 具体的には、国際平和芸術祭の定期的、持続的開催である。2年に一度、夏の終わり、あるいは秋の初めという気候が良い時期の34週間ほどにわたり、広島で、オペラ、音楽、演劇、映画、ダンス、絵画・彫刻、文学など芸術の多面にわたる総合芸術祭を広島で開催し、国内・国外から一流のアーティストを毎回招待して、パフォーマンスあるいは作品を披露してもらうという企画である。毎回、各分野での最高賞を市民の投票で決め、分野ごとに「ヒロシマ賞」を授与するということを考えてもよいであろう。作品は「広義の意味での平和」に関連するものなら、古典作品であろうと現代作品、あるいは新作であろうと、世界のどの国や地域のものであろうと、いかなるものも公演あるいは展示の対象とするという文化的寛容さを示す多文化的芸術祭であって欲しい。文学の分野では、「writers week (作家週間)」という期間をもうけ、世界トップの作家を複数招待し、聴衆の前で自分の作品(一部分でもよい)を読み上げてもらい、聴衆との意見交換を行うというような企画も可能であろう。

 こうした様々な深みのある芸術活動を通して、多くの聴衆や観覧者に平和について考えてもらい、創造的芸術活動を通して平和のメッセージを持続的に広島から発信し続けることができるのが芸術祭の特徴である。プロの芸術家だけではなく、市民や子どもたちが、それぞれの想像力を活かした作品を、一流のプロの前で紹介できるような企画も必要である。そのことによって、市民や子どもが仲間たちと共同でなにかを創造する楽しさを知ることは、平和的な人間関係の構築にとっては根本的に重要なことである。また、この芸術祭開催の時期を利用して、原爆写真展や核問題に関する講演会を開くことも、もちろん考慮すべきであろう。

 この種の持続的な、しかも世界に注目されるような芸術祭を定期的に開催するためには、常設の企画準備組織とスタッフ、とくに世界的に活躍している芸術ディレクターを、例えば4年契約で高額の年俸で雇うということが必要かもしれない。一人のディレクターによるマンネリ化を防ぐために、こうした柔軟な運営方式が理想的である。また、そうした芸術祭を定期的に行うには、それに見合った施設 -- オペラ・ハウス、コンサート・ホール、演劇場、野外音楽堂/劇場 -- といったものを整える必要がある。これらの施設の建設には、もちろん多額の予算が必要であるが、オリンピック必要経費と比較すれば格段に少ない額の予算ですむし、しかも、オリンピックのような一過性ではなく、芸術祭の時期以外にも、継続して使える性質の施設である。芸術祭が回を重ねるごとに、広島市は、招待された芸術家の名声と共に、「平和芸術文化都市」として世界に知られるようになるであろう。観客も国内、海外の様々な国々からこの芸術際を目的に、観光をかねて広島を訪れるようになり、彼らを通して、反核・反戦・平和のメッセージが世界に、静かにではあるが着実に浸透していくであろう。

 実は、人口100万人ほどの地方都市がこの種の芸術祭で大成功をおさめている具体的な例として、南オーストラリア州の州都アデレード市を挙げることができる。2年に1度開かれるアデレード芸術祭は50年近く続いているが、開催期間中は国内外から、世界トップの芸術家のパフォーマンスを見るために、あるいは作家の話をじかに聞くために、観光客がおしかける。

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