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2021年8月9日月曜日

インドネシア人労務者を使った人体実験?

NHK BS1番組「感染症に斃れた日本軍兵士~追跡・防疫給水部2万5千人」の放送にあたって

 

8月22日午後10時からNHK BS1 「感染症に斃れた日本軍兵士~追跡・防疫給水部2万5千人」と題するドキュメンタリーが放送される予定になっています。今年の3月初旬、この番組の制作チームのスタッフの一人から私に連絡があり、私の著書 Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II の第5章 Japanese Biological Warfare Plans and Experiments on POWs (日本軍生物兵器戦計画と捕虜人体実験)で私が使っている資料について質問したいので ZOOM で相談させて欲しいという要請がありました。この章では、私は主に、日本軍が豪州軍捕虜を使って「栄養失調症」や「マラリア」に関連する人体実験を行い死亡させた戦争犯罪ケースについて、戦後、豪州軍が調査した記録資料を分析して、その事実について解説しました。NHKの制作スタッフは、この豪州軍資料について詳しく知りたかったのです。

ZOOM での相談に応じましたが、その折、戦時中にインドネシアの日本陸軍が運営する「防疫研究所」が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを、インドネシアの900人ほどの労務者に注射して全員を死亡させた事件を詳しく分析した、ケビン・ベアードのことも話題になりました。と言うのも、ケビンのこの貴重な研究については、私は2014年に、カナダの友人、乗松聡子さんのブログで紹介しておいたからです (その時は、私はまだ自分のブログを設置していませんでした)NHKのスタッフはこの拙論にも目を通したようで、ケビンともすでに連絡をとり、この事件についても番組で取り上げる予定だと教えてくれました。

ケビンのこの研究結果は2015年にWar Crimes in Japan-Occupied Indonesia: A Case of Murder by Medicine (University of Nebraska Press)として出版されています。出版にあたって私は短い推薦文を書くように頼まれましたが、その推薦文が本の裏表紙に印刷されています。また、この本の内容の要旨を彼自身が論文にしたWar Crimes in Japan-Occupied Indonesia: Unraveling the Persecution of Achmad Mochtar を2016年1月に、The Asia-Pacific Journal/Japan Focus に掲載してもらいました。

日本では全く知られていなかったこの戦犯冤罪ケースが、今回、NHKで取り上げられるならば、ひじょうに有意義だと思います。ちなみに、8月号の『世界』には、インドネシア史専門の倉沢愛子さんが、「それは日本軍の人体実験だったのか? - インドネシア破傷風ワクチン謀略事件の謎」という論考を寄稿しておられるようです。私はまだ読んでいませんが、おそらくケビンの研究成果を紹介されているのではないかと推察しています。

  そこで、今日は、2014年8月にすでに乗松聡子さんのブログ「ピース・フィロソフィー」に掲載していただいた、ケビン・ベアードによる研究の内容を紹介した私の論考を、乗松さんの許可をいただいて下に転載させていただきます。テレビ番組を観るための参考にしていただければ光栄です。

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日本軍が犯した様々な残虐行為については、すでに私はいろいろなところで発表していますので、ここでは繰返しません。しかし、7月上旬に突然インドネシアから送られてきた興味深い関連メールについて紹介させていただきます。

メールは、ジャカルタにある熱帯病研究所「エイクマン研究所」の一研究員からでした。送信人は、この研究所と共同研究を行っているオックスフォード大学の研究プロジェクトに携わっているアメリカ人ケビン・ベアードという人で、マラリア病専門研究家です。彼と「エイクマン研究所」所長のサコット・マズキ(インドネシア人でオーストラリアのモナシュ大学医学部教授を兼任)という2人の熱帯病専門家が、太平洋戦争時代にインドネシアで日本軍が犯したある重大な人体実験=戦争犯罪行為について共著の本の原稿執筆を終えたところだという知らせでした。来年アメリカで出版される予定になっており、ついては私に原稿を読んで推薦文を書いて欲しいとの要請でした*。8月中旬までは忙しくて原稿を読んでいる時間がないが、その後でもよいならと引き受け、全原稿と数多くの関連写真をメール添付で送ってもらいました。(*J. Kevin Baird and Sangkot Marzuki, The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942 – 1945 2015年出版予定とのことですが、出版社名は知らされていません。)

340ページほどある大著で、しかも医学的解説を多く含んでいるので、熱帯病予防ワクチンについて全く知識のない私には決して読みやすいとはいえない難解な著作ですが、今日なんとか全部読み終えました。その内容をごく簡潔にまとめて紹介すると次のようになります。 

「エイクマン研究所」は、オランダ人医師クリスチャン・エイクマンが1888年にバタビア(現在のジャカルタ)に設置した熱帯病研究ラボが基盤となり、1938年に「エイクマン研究所」と改名され拡大発展しています。エイクマンは当時オランダ植民地であったインドネシア(当時は「オランダ領東インド」)に滞在中に脚気の原因を発見し、1929年にはノーベル生理医学賞を授与されている傑出した医学者で、インドネシア医学校設置にも尽力した人物です。このインドネシア医学校からは優秀なインドネシア人医師が生まれ、その中にはアムステル大学にまで留学して医学者になった者も少なくありません。植民地支配下でこのように現地住民が医学者となって育っていたことを、恥ずかしながらこの原稿を読むまで私は全く知りませんでした。オランダ植民地下のインドネシアでは、「エイクマン研究所」の他に、「パスツール研究所」もオランダ政府の資金で設置され、熱帯病予防研究と熱帯病予防ワクチン生産が行われていました。

19421月から2月にかけて日本軍がオランダ領東インドに侵攻し、3月初めにはバタビアを攻略して、インドネシア全土が日本軍支配下に入りました。インドネシア医学校、隣接するエイクマン研究所からもオランダ人医師や医学者は排除され、彼らは収容所に送られました。医学校と研究所は日本軍支配下に入り、インドネシア人スタッフだけが引き続き仕事に従事することを許されました。医学校の事実上の校長とエイクマン研究所・所長の両ポストに任命されたのは、当時、黄熱病研究などで世界的な功績をあげていたアクマド・モクターというインドネシア人医学者でした。パスツール研究所も日本軍に接収され、「防疫研究所」と改名されました。ここでは、当初はオランダ人研究者も研究を続けることを許されましたが、間もなく彼らも収容所に送られ、「防疫研究所」は完全に日本陸軍によって運営されるようになりました。パスツール研究所では、戦争が開始される前には、「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを大量生産しており、日本陸軍がこれを引きついでいます。同時にパスツール研究所は破傷風予防のための新ワクチンを開発中でしたが、日本軍が侵攻してきたため、この研究は中断されています。当時は、破傷風は負傷した多くの兵がかかる致命的な病気で、そのため兵力維持のためにはこのワクチン開発が極めて重要な課題でした。

一方、日本軍は数多くのインドネシアの若者や農民(1540歳ぐらいまで)を強制労働に駆り出し、ジャワ島のみならず、マレー半島やビルマなどにまで連行して建設工事や道路工事などの重労働に従事させました。連合軍捕虜を酷使した悪名高い泰緬鉄道建設にも、多くのインドネシア人たちが使われました。彼らは「労務者」と呼ばれましたが、「ロームシャ」はインドネシア語にもなり、英語圏でも日本軍のインドネシア人酷使を表現する用語として知られるようになりました。正確な人数は分かりませんが、400万人以上いたと推定されています。その内、28万人あまりがタイ・ビルマ(その多くが泰緬鉄道建設工事のため)に送り込まれましたが、戦後、インドネシアに帰国したのはわずか52千人ほどだったと言われています。連合軍捕虜同様、彼らロームシャも、わずかな食糧と乏しい医薬品のもとで重労働を強制され、次々と亡くなっていったことは、生き延びた連合軍捕虜たちの証言からも知ることができます。

戦後、スカルノ政権は死亡した労務者400万人に対する戦後賠償金として日本政府に100億ドルの支払いを要求しましたが、日本政府は「証拠無し」と主張して支払いを拒否しています。実は、スカルノ自身が戦時中に日本軍に協力して、「ロームシャ」を駆り出すことに加担した人物でした。「慰安婦」問題では「河野談話」で、一応、日本政府からの謝罪が出されていますが、「ロームシャ」問題では、これまで日本政府からの謝罪は一切ありません。ちなみに、ロームシャを集めるにあたっては、「高い賃金支払い、十分な食糧提供」などという嘘の条件で騙すという方法がしばしばとられたとのこと。日本軍性奴隷を集める手口と類似していたことが分かります。

19447月下旬、バタビアの郊外のクレンダーという所に設置されていたロームシャの集合施設、つまりロームシャとして集められた人たちを一旦この場所に集合させ、ここから東南アジア各地に分散して送り込むまでの仮の居住施設にいた900人あまりのインドネシア人全員に、防疫研究所が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンの注射が行われました。ところが、それから1週間ほど経った8月初旬、次々と彼らには破傷風の症状があらわれ、七転八倒の苦しみの中でバタバタと死んでいくというたいへんな事態となりました。最初は患者を医学校病院に送り込んでいた日本陸軍は、すぐにクレンダー集合所を立入り禁止として、部外者を入れないようにして、900人あまり全員を集合所内で死亡させてしまいました。防疫研究所の陸軍医療スタッフが「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンにさらに未完成の破傷風予防の新ワクチンを加えたものを作り、それを注射したものとしか考えられないと、この本の著者2人は詳しい医学的分析によって結論づけています。通常は、この種の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常であるとのこと。陸軍医療スタッフはこうした基本的手順を抜いて、最初からインドネシア人にワクチン注射を行ったわけですから、パスツール研究所から受け継いで開発した新ワクチンにそうとう自信があったものと思われます。日本兵に新ワクチンを投与する前に、インドネシア人ロームシャでまずは試してみようと考えたものと思われますが、このような重大な事態になるとは予想していなかったものと思われます。

防疫研究所はこの大失態の責任を逃れるために、憲兵隊と共同画策して大嘘をつくことを考え出しました。それは、エイクマン研究所・所長のアクマド・モクター教授が、日本軍占領支配に打撃を与えるために、破傷風菌毒素でワクチンを汚染し、ロームシャを大量殺戮して日本軍の信用を崩壊させる目的で行った破壊工作であったということにしてしまうというものでした。エイクマン研究所にも医学校にも破傷風菌毒素などは保管されておらず、そのような破壊工作はどう考えても不可能でした。しかし、憲兵隊は10月初旬にモクター教授をはじめエイクマン研究所や医学校のインドネシア人スタッフ19名を逮捕し、やってもいない犯罪を白状するよう、様々な拷問を彼らに加えました。間もなく、そのうちの1名が拷問の結果なくなりました。モクター教授は同僚の命を救うために、憲兵隊が用意した全く虚偽の告白状に署名し、自分一人で行った犯罪であると主張したのです。その結果、同僚たちは全員釈放されました。もしかすると、そのような交換条件がモクター教授と憲兵隊の間で取り交わされた可能性もあります。

しかし、不思議なことにその後もモクター教授は監禁され続け、ようやく翌1945年の73日になって処刑されています。もはや日本の敗戦が明白となった1ヶ月少々前になって処刑が行われた理由は、敗戦になり、連合軍が日本軍の戦争犯罪行為を調べ出して、このでっち上げ事件が明らかになることを日本軍が恐れたためではないかということです。つまり、「主犯」である人物を処刑してしまい、この事件は解決済みということにしてしまったわけです。日本軍の思惑通り、この「モクター事件」は、連合軍による日本軍戦争犯罪調査には全く含まれませんでした。熱帯病に関する相当の医学的知識をそなえた検察官でないと、当時はこの事件の真相について疑いをもつことはできなかったと思われます。

この本の共著者であるケビン・ベアードとサコット・マズキは、モクター教授がワクチンを破傷風菌毒素で汚染することが不可能であったこと、ロームシャに注射したワクチンを生産した防疫研究所による全くの準備不足による結果以外に死亡事件が起きるはずがなかったことを、医学的分析を駆使して裏付け、さらには関連生存者がのこした様々な回想記や、今も存命中のただ一人の関係者への聴き取り調査などでその裏付けを補足するという方法をとっています。

私のように、医学に無知な単なる歴史家ではとうてい果たせない実証方法です。なぜこのような重大事件がこれまで歴史家によって明らかにされてこなかったのでしょうか。それは、この戦争犯罪ケースの分析には、通常の歴史家が持ち合わせていない、医学的分析力が欠かせなかったからに他ならないと思います。ケビン・ベアードとサコット・マズキという熱帯病専門家の知識と、モクター教授ならびにエイクマン研究所の名誉挽回への彼らの強い熱望があったからこそ、「モクター事件」の真相がようやく明らかにされたのです。

処刑されたモクター教授には妻と2人の息子がいました。息子の一人はオランダに渡り父親同様に医者になっており、オランダ人女性と結婚しています。彼らの悔しさ、苦しみはいかほどのものであったろうかと想像せずにはいられません。この著書が世に出ることで、戦後70年目にしてようやくモクター家の名誉が回復されます。どう少なく見積もっても数十万というインドネシアの若者たちがロームシャとして故郷を遠く離れた場所で重労働に喘ぎながら亡くなっていきました。息子や夫、父親を強制労働で失った多くのインドネシアの人たちの悲しみと、一家の働き手を失ったその後の生活苦難はいかほどであったろうかと考えずにはいられません。

この紹介文が、現在のあまりにも独善的な日本の一方的戦争被害観に対して疑問を投げかける一機会となれば幸いです。

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「ピース・フィロソフィー」に掲載しただいた拙論の全文は下記のアドレスで読めます。

http://peacephilosophy.blogspot.com/2014/08/1942-45-mochtar-affair-murder-by.html

 

 


1 件のコメント:

  1. 田中先生の、地道な戦争犯罪調査研究、そして文化、芸術的観点からの論考、尊敬しております。
    今回、ご紹介いただいたNHK.BSの番組、オンデマンドで視聴しました。
    南方戦線の悲惨さ、日本軍の悪行は目を覆いたくなりますが、過ちを繰り返さないためにも、しっかりと目を見開き、事実を知らなければならないと思いました。

    ところで、私には以前からわからないことがあります。
    人体実験と治験の境目はどこだろうか、ということです。
    10年くらい前、友人に誘われ治験ボランティアに登録しました。
    登録はしたものの、健康体の私には治験参加要請はありませんでしたが、考えるきっかけとなりました。

    インドネシアの労務者が破傷風ワクチンで亡くなったのは痛ましいことですが、もし、ワクチンが成功して効いていたとすれば、それでも、人体実験と言えるのでしょうか。
    翻って現在、世界中でコロナワクチンが接種されていますが、ファイザー社もモデルナ社もアストラゼネカ社も治験は終わっていません。
    緊急事態だということで、治験の終わっていないワクチンを世界中で接種しています。
    戦時中のインドネシアでの破傷風ワクチン接種を人体実験と言うなら、現在のコロナワクチン接種も人体実験です。
    コロナは非常事態だから問題ないと言うなら、戦時中も非常事態であり問題ないという事になります。
    ちなみに、現在日本では、コロナワクチン接種後の死亡者数は2週間ごとに発表されています。7月末で919人。8月25日で1000人を越えているようです。戦時中のインドネシアと比較すると圧倒的に少ない割合ですが、従来のインフルエンザワクチンと比較すると悲鳴をあげたくなるほど多くの死者がでています。
    とんでもない薬害が起きているのではないかと危惧していますが、マスコミ報道は一切ありません。気持ち悪いほどに。

    長々とコメントしてすみません。
    田中先生のお考えを知りたく、コメントさせていただきました。

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