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2020年6月1日月曜日

小説『コリーニ事件』と「旧・被服支廠」保存問題


(1)小説『コリーニ事件』を読む
(2)再び「旧・被服支廠」保存問題について

(1)小説『コリーニ事件』を読む

  私は昨晩、ドイツの作家、フェルディナント・フォン・シーラッハが2011年に出版した小説『コリーニ事件』(邦訳2013年出版)を一挙に読みました。それほど長くない小説ですので数時間で読めましたが、内容はひじょうに重厚です。(5年ほど前から、私は、小説はほとんどベッドで、重い本を抱えなくてもすむように、タブレットのkindleで読んでいますのでとても楽です。ベッド・サイド・テーブルに冷酒があればもっと嬉しいのですが、連れ合いが許さないです<笑>)作者は1964年生まれで、1994年からベルリンで刑事事件専門の弁護士を務めているとのこと。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫という、ユニークな背景をもった人物です。
  この小説は、弁護士になったばかりの若いライネンが国選弁護士として引き受けさせられた初めての事件についてです。それは、イタリア出身の自動車組立工、コリーニが、奇しくもライネンを幼少時代から可愛がってくれていたマイヤー機械工業の元社長であるハンス・マイヤーを、ひじょうに惨たらしいやり方で殺害した事件でした。黙秘権を使って何も言おうとしないコリーニの殺人動機を、ライネンが苦心して探し出すと、ナチの戦争犯罪の問題に行き着く、という筋書きです。
  ひじょうに興味深いのは、法廷での「戦争犯罪」をめぐっての議論の展開です。現職の弁護士らしい、とてもドイツの関連法に詳しい議論の展開です。しかし、そうした議論にもかかわらず、結局、法とは関係なく、「戦争犯罪に対する責任とは何か」を深く考えさせられる小説になっています。
  日本では、残念ながら、自分たちの父や祖父の世代が犯した戦争犯罪をテーマにした小説で、「人間としての責任」を深く考えさせる感動的な作品にはほとんど行き当たりません。自分たちがいかにひどい被害者にさせられたかという話で、お涙頂戴というものがほとんどです。例えば、2018年に刊行された伊藤潤『真実の航跡』は、最近にはめずらしい、戦犯問題を取り扱っていますが、戦犯追求をなんとか逃れようとする話で、「責任問題」などほとんど考えてもいない、私に言わせれば駄作です。
  しかし、私は常に思うのですが、戦争責任問題を考えるには、歴史教育も大切ですが、やはり人々の心深くに沁み入るような、被害者の「痛み」と加害者の「罪の苦しみ」を象徴的に表現する人物を通して、私たち自身の「人間としての責任」について考えさせるような芸術作品(文学、演劇、能楽、彫刻・絵画など)をできるだけ活用することが必要だと思います。『コリーニ事件』を読んで、改めてこの考えを再確認したところです。
  

(2)再び「旧・被服支廠」保存問題について池田正彦さんのエッセイ紹介

  広島の「旧・被服支廠」保存問題については、今年1月5日のブログでも私見を述べ、池田さんたちの保存運動についても紹介しておきました。池田さんの「旧・被服支廠」に関する最新のエッセイをご本人の許可をいただき、ここに掲載させていただきます。


旧・被服支廠・皆実町界隈を歩く
赤れんがよみがえれ
広島文学資料保全の会・池田正彦


一九一三年建立された赤れんがの巨大な倉庫四棟が残る「旧・被服支廠」は、軍都・広島の歴史をもつ数少ない建造物である。同時に爆心地から約2・7キロで焼失・倒壊を免れ被爆直後から臨時救護所となったことから、被爆の歴史を語り継ぐ場所として存在してきた。
しかし広島県は、昨年(二〇一九年)一二月、劣化を理由に「2棟解体、1棟の外観保存」(保存といっても、立ち入り禁止の、あくまで外観( ・ ・)保存( ・ ・)なのである)案を公表した。多くの市民は4棟の保存・活用を求め「広島県案」に「ノー」の声をあげ、各マス・メディアも行政の理不尽さを大きくとりあげた。

詩人・峠三吉は、臨時救護所(被服支廠)の惨状を「倉庫の記録」(原爆詩集)につづり日記等にも詳細を記録している。さらに、「黒い雨」(井伏鱒二)、「管弦祭」(竹西寛子)など文学作品などにも被服支廠として登場するなど、広島の歴史と深くむすびつき、市民の描いた「原爆の絵」においても、体験者は一四枚の絵として記録を残した。

横道に逸れるが、私はこの地域で小学校時代を過ごし、とりわけ感慨深い。
私が暮らしたのは、進徳女子高校のすぐ西側で、建物は旧・陸軍電信隊の兵舎を改造した長屋(この地域は焼失をまぬがれ残った)であり、近くの比治山、翠町の蓮畑、黄金山、旧・被服支廠などは悪童たちの恰好の遊び場で、すぐ隣の旧・電信隊の将校集会所は「青年会館」(そう呼んでいた)はそのまま残り、こんもりした杜に囲まれており、特に印象深い。
「青年会館」は、その頃珍しく、合宿・宿泊できる施設でもあり、ホールでは講演会、映画会、青年団の芝居の稽古、ダンスの講習会、コンサートなどが行われ、子どもの目にはなかなかハイカラな空間であった。前進座の河原崎長十郎との懇談会が行われたことも峠三吉は日記に記している。(昭和二四年二月二二日)「……会には知事も出ており、ひとわたり自己紹介と余興の中で余は<バイカル湖>を歌う。……長十郎氏と杯を交しながら彼らの芸術観を聴いてみて共感する処多し」
多少の時差はあるが、小田実のはなしをこの青年会館で聞いたとの証言などもあり、広島県青年団連合会(県青連)の事務所を中心に多くの青年たちの活動拠点となっていた。いわば、広島のカルチェ・ラタン(一九六〇年代、フランス反体制・学生運動の中心)であった。
近くの皆実小学校の界隈には、広島の演劇運動をリードする多くの人も居住していた。峠三吉と共に活動した増岡敏和は、次のように述べている。「遠い日の中川秋一氏は、皆実町(皆実小学校正門近く)に住んでおられて、そのまわりには演劇人がとりかこんでいた。演出家の大月洋、俳優の杉田俊也、カチューシャの長谷川清、新制作座の谷美子……各氏らである。その論理的支柱であった中川秋一氏は文化分野における最大の指導者であった。峠三吉も自分の文学的進路を決めるにあたって中川氏に相談している」
比治山橋たもとでロンド書房(ロンド:エスペラント語でサークルの意味)を開いていた大月洋は次のように記している。「峠三吉も近くに住み反戦平和集会のガサ予測の時など大風呂敷の文献をかくしてくれと持ち込んだロンド。惜しくもそのロンドが消えた」(『ロンドの青春』民劇の会・編)

   中川秋一:日本プロレタリア演劇同盟に参加。戦後、美学者・中井正一とともに労働者文化協会をつくり、民主主義を大衆の中に根づかせることに渾身の努力を傾けた。
  大月洋:広島民衆劇場、広島小劇場などを指導。移動演劇さくら隊殉難碑の建立に奔走。広島労演(現・広島市民劇場)創設に尽力。

前後する。峠三吉は8月6日、翠町(長姉・三戸嘉子の自宅:旧制広島高校<現・広大附属高校>南、爆心から約3キロ)にて被爆。額に傷を受けるが、直後、友人・知人・親戚の安否を気遣い市内を訪ね歩き、(この衝撃的体験が『原爆詩集』の骨格となった)被服支廠に収容されたK夫人(「倉庫の記録」のモデル)を見舞っている。
峠三吉は、直後の惨状を日記やメモとしてたくさん記録したが、作品化するまでには一九五〇年(昭二五年)まで待たなければならなかった。おそらく、彼の優しい叙情の質では原爆の悲惨をとらえることができなかったと考える。
あまり知られていないが、直後の一九四五年八月には「絵本」という作品を書き、もっとも優しく愛おしいものとしての母と子を描き、『原爆詩集』への片鱗を提示している。

絵本

   たたかいの手に 傷つけられた
  瀕死の母親にみせる その子の絵本

   たかい格子窓から 一筋の夕日が
  負傷者収容所の 冷い床に落ちてとどまる
  
   火ぶくれの貌のうえに ひろげ持ち
  ゆっくりと操ってやる 赤や青の幼い絵
  古いなじみの お伽噺ばなし
 
   カチカチ山の狸のやけどに 眼をむけた
  隣のおとこの呻きも いつか絶え
  ぼんやりと凝視めていた 母親のめに
  ものどおい 瞼がたれ

   苦痛も怨みも 子につながる希いさえ
  訴えぬまま 糞尿の異臭のなかに
  死んでゆく
  しんでゆく

被服支廠に収容されたK夫人の枕元に置かれた絵本を介して、このむごたらしいさまを告発している。(『原爆詩集』には収録されていないが、原爆の惨状を記した最初の作品として、記念碑的意味をもっている)

 彼ははじめから「原爆詩人」ではありえなかった。一般的な「軍国青年」であり、八月一五日(敗戦)の日記には「ただ情けなく口惜しき思いに堪えず」「かくなる上はすべての財を捨て山に籠り命をもいずれ捨つる覚悟」と記している。苦悩し発展のバネに変えたのは、青年文化連盟に加入し社会的活動への参加が大きなきっかけとなっている。事実、翠町(移転後は昭和町の平和アパート)の自宅は、多くの青年・学生の溜まり場となり、戦後広島の文化運動を牽引した。近く(県病院そばの宇品)にはシベリアから帰還した生涯の盟友・四國五郎が住み、主宰した「われらの詩」はこの地で誕生したといっていい。(特に言論統制下、辻詩と呼ばれ、詩と絵を組合わせた反戦・反核のポスターで街頭に貼り出した作品は四國・峠の協働作業で一五〇~二〇〇枚作成されたが、現存するのはわずか八枚。『原爆詩集』ガリ刷の初版表紙・挿絵は四國五郎によるものである)
   昭和町(当時は平野町)の平和アパート:市営住宅として初の鉄筋コンクリート化がはかられ、一九四九年(昭二四)完成。京橋川沿い(比治山橋のたもと)に三棟が建てられ、当時とすればモダンな住まいであり、入居できる人は羨望の的であった。現在も使われているが、広島市は解体の計画。(峠三吉住所:平野町昭和第三アパート一五号:「われらの詩の会」の事務局でもあった)
   四國五郎:画家・詩人としてヒロシマをテーマに活躍。絵本『おこりじぞう』(金の星社)は多くの人に親しまれている。峠三吉との交友は有名で、翠町・昭和町の平和アパート(峠の自宅)は二人の創作活動の原点といっていい。なお、戦前の被服支廠に就職し、この地から戦場に向った。

短期間であったが、峠三吉は広島県庁社会課に勤務し、憲法普及運動にたずさわったことがある。当時県庁は、旧・兵器支廠(現在の広島大学医学部)を使用。いかめしい赤れんがの建物群に圧倒されたのを覚えている。(広島県関連だけでなく、国の出先機関もあり活況を呈していた)
当時、国鉄宇品線は通勤・陳情の足として、もよりの駅「上大河」(かみおうこう)付近は繁華街でもあった。(一杯飲み屋はもちろん、代書屋:書類や申請書の代筆を行う、写真館、食堂などありとあらゆる店が軒を並べていた)
この駅は県庁関係者はもとより、旧・被服支廠に隣接している県立皆実高、県立工業高、進徳女子高、女子商業高、比治山女子高、市立工業高、広大東雲中など多くの生徒も利用し、ちょっとしたスクールゾーンでもあった。
同時に、被服支廠に通う職工相手に拓けた皆実町商店街(電停:専売局を基点として、被服支廠正門につながっていた)は、そのまま県庁への道として繁栄した。(現在、さびれた一本の道として残っているが)
蛇足になるが、峠三吉はこの商店街の入り口で、生活のため(日記にはそう記している)露店の「みどり洋花店」を開いたが失敗(一九四五年一〇月)。同じように、一九四六年、猿猴町で貸本屋「白楊書房」を開き、妻となる原田和子と知り合うことになる。
あまり記憶されていないが、被服支廠正門近く(進徳女子高校南)にはシュモーハウスが建てられた。米国のフロイド・シュモー氏は原爆投下に心を痛め、住まいを失った広島の人々のために家を建てる活動をすすめ、皆実町、江波町、牛田町に一九棟を学生などの協力を得て建設シュモー住宅とよばれた。(現在、江波二本松に一棟残り、平和記念資料館附属施設として使われている)

峠三吉の活動を中心にしたきらいがあるものの、旧・被服支廠を中心に、翠町、県庁(旧・兵器支廠)、青年会館(旧・電信隊将校集会所)などを切り結ぶと、ささやかながらあの時代の息吹が伝わってくる。
 愛惜を込めあの時代をなぞったつもりである。
 旧・被服支廠は戦後、師範学校の授業、寮、図書館、運輸会社の倉庫などとして使われ、いわば復興の一翼を担ってきた。その建物を充分な議論のないまま取り壊すことを許してはならない。(被服支廠同様、峠三吉が住んだ「平和アパート」も危機に瀕している)今こそ有効活用の道を!




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