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2017年3月17日金曜日

空爆と天皇制



皇室をいまだに敬畏する東京大空襲犠牲者遺族たちの心理批判も込めて

今月10日は、周知のように、23万7千個という数にのぼる焼夷弾攻撃で引き起こされた猛烈な火の海のなかで、10万人以上の市民が焼き殺された東京大空襲の72周年目にあたる日でした。当日午前中、多くの無名犠牲者の遺骨を安置している東京都慰霊堂(墨田区)で、例年のごとく、春季慰霊大法要が営まれました。その報道記事を見て私が驚いたのは、この慰霊大法要に秋篠宮夫婦が参列していたことです。ネットで調べてみたところ、いつから皇室メンバーが東京大空襲慰霊法要に参列するようになったのか知りませんが、この数年はなぜか秋篠宮の家族が出席しているようです。

この慰霊法要に裕仁の孫夫婦を招く空襲犠牲者の遺族の(私にとっては驚くべき)心理状態を想像するとき、思い浮かぶのは、作家・堀田善衛が大空襲当日から8日後の3月18日、偶然に目にした天皇・裕仁の「被害視察」の様子です。屍体がきれいに片付けられていた「被害視察地域」を歩く裕仁とその現場の様子を、堀田は以下のように紹介しています。

九時過ぎかと思われる頃に、おどろいたことに自動車、ほとんどが外車である乗用車の列が永大橋の方向からあらわれ、なかに小豆色の自動車がまじっていた。それは焼け跡とは、まったく、なんとも言えずなじまない光景であって、現実とはとても信じ難いものであった。これ以上に不調和な景色はないと言い切ってよいほどに、生理的に不愉快なほどにも不調和な光景であった。…… 小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光りを浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章までつけていた。…… (焼け跡を片付けていた)人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざ焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。…… 責任は、原因を作った方にではなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった方にあることになる!そんな法外なことがどこにある!こういう奇怪な逆転がどうしていったい起り得るのか!
(堀田善衛『方丈記私記』)

東京大空襲の責任がいったい誰にあったのかについて深く考えもせずに、祖父・裕仁の責任については全く考えてもいないであろう彼の孫を慰霊法要に招いて、ありがたがってしまう被害者遺族のこの心理。堀田と同じように、私は「こういう奇怪なことがどうしていったい起り得るのか!」と叫びたくなります。

この慰霊第法要が行われた前日の3月9日には、全国空襲被害者連絡協議会(空襲連)が、衆議院第二議員会館で集会を開きました。この協議会は、空襲で負傷しながら、長崎・広島での被爆者に対するような援護制度が全くない戦災傷害者に対し、救済法制定を求める運動を長年続けています。しかし、72年たち、生存されている被害者の数が急速に減ってきている今も、政府は全くその声に耳をかそうとはしません。戦争被害者に対するこの差別処置の原因は、いったいどこからきているのでしょうか。『原爆と天皇制』で論じましたように、これも究極的には、「原爆被害」を最初から日本が政治的に利用したこと、すなわち裕仁と日本政府の戦争責任を隠蔽するために「原爆被害」を利用したこと、その政治利用が今も続いていることに原因している、というのが私の持論です。この問題を根本的に解決するためには、原爆無差別殺戮と焼夷弾無差別殺戮を政治的に差別することなく、あらゆる無差別空爆の犯罪行為に対する批判の声を強くあげ、その責任を徹底的に追及していくことが必要だと思います。いかなる戦争被害をも、政治利用させてはなりません。

もう一つ私が怒りを覚えるのは、秋篠宮の妻の紀子が、犠牲者を供養する仏教行事である法要で読経が行われている間も、帽子をかぶったままであったことです。これは私の極めて個人的な感情かもしれませんが、慰霊をおこなうときに帽子をかぶったままであることに私はひじょうに不快感をおぼえます。(ベールで顔を覆うというのなら理解できます。ちなみに、尺八を吹く普化宗の僧である虚無僧が編笠をかぶって顔を隠すのは、ベールや帽子とは全く違った意味があり、一旦出家したからには、自分が世俗からは完全に離れた存在であることを意識し、親兄弟姉妹や知人に会っても挨拶せず、仏につかえることに専念するという目的からです。)皇后・美智子をはじめ、皇室の女性たちはみな「帽子好き」ですが、慰霊の場でも帽子をかぶっているのは、私に言わせれば「mad as a hatter」です(これ、ブラック・ユーモアのつもりです。<hatter> は<帽子製造人>のことですが、<mad as a hatter>の意味をご存じない方は、グーグルでこの意味をお調べください。実は、これは水俣病とも関連していることです。)

裕仁に、米国による原爆無差別殺戮を誘引した重大な責任があったことを、私は、前号の『広島ジャーナリスト』27号掲載の拙論で詳しく述べておきました。しかし、原爆無差別殺戮責任問題を徹底的に追及していくと、それ以前に日本全国で米軍が展開した無差別空爆、とりわけ焼夷弾を使っての無差別殺戮を問題にしなければなりません。そこで、今回は、『空爆と天皇制』というテーマで、裕仁ならびに天皇制が米軍による日本の諸市町村に対する空爆無差別殺戮に、どれほど重大な責任をもっていたのかを詳しく論じてみました(『広島ジャーナリスト』28号掲載論考)。ご笑覧いただければ光栄です。下記アドレスからダウンロードできます。

東京大空襲で無数の人たちが火焔のなかで叫び苦しみ逃げ回っていたとき、裕仁はどこで何をしていたのか、拙論を読んで考えてみていただければと願います。

あらためて言うまでもないことですが、空爆による市民無差別大量殺傷は、第2次世界大戦で終わったわけではありません。それ以後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、コソボ、アフガン、イラク戦争の他に、イスラエルによるパレスチナへの無数の空爆など、数えあげればキリがありません。そして今も毎日のようにシリアでは多くの子供を含む市民が空爆(とりわけロシア軍による空爆)の犠牲になっています。英国のNGOであるシリアでの空爆犠牲者調査団体「Airwars」の調査統計によると、2014年8月8日から2017年3月15日までにシリアとイラクへの空爆(すなわちアメリカやロシアが主張する<精密爆撃>のことですが)で殺害された市民の犠牲者数は、少なく見積もって3756人おり、そのうちの651人が子供、351人が女性とのこと。どのような統計方法をとっているのか分かりませんが、私にはこの数字は極めて過小評価のように思えます。実際には、もっともっと多いのではないかと私は考えています。統計数字の正確さはともかく、今も空爆による市民殺害は続いているというこの事実を、72年前に全国を無差別空爆で破壊され102万人という被害者を出し、その半数以上の56万人が死亡したという歴史を持つ私たちは、忘れてはならないと思います。

- 合掌

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