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2022年8月14日日曜日

国葬は民主主義を破壊する

民主主義を破壊した張本人、安倍晋三

7月8日、安倍晋三が殺害されるや、どの政党の党首も、そろって「民主主義を破壊する卑劣な暴力行為は決して許せない」という内容の声明を出した。これは当然の発言で、誰も異存は全くないはずである。

しかし、民主主義を破壊するのは、目に見える物理的な形の暴力だけではない。ノルウェーの平和学研究者であるヨハン・ガルトゥングは、暴力行為の主体が見えない暴力、とりわけ貧困、飢餓、抑圧、差別、愚民政策などを「構造的暴力」と呼んだ。顧みてみれば、安倍晋三は、ヘビー・スモーカーが汚い煙をパクパクといつも吐いているが如く、嘘と誤魔化しの発言を絶えず吐きながら、この「構造的暴力」をフルに活用して「民主主義を破壊」した張本人であった。

「経済再生政策」と称するアベノミクスでは物価上昇・賃銀格差を急増させながら、その一方で毎年の防衛予算の巨額の増大。その重い負担が国民一人一人に課せられ、多くの一般市民、とりわけ日々の生活費高騰に苦しんでいる母子家庭や高齢者、ホームレスの人々の生活を逼迫させた。その人たちの困窮化は、今もさらに進行中である。多くの国民は生活を「再生」するどころか、どうしたら生きていけるかと艱難辛苦の毎日である。

森友学園、加計学園、桜を観る会では、国民の税金を自分のポケット・マネーのように、文字通り湯水のごとく使った。その事実が露呈されそうになるや、自分にへつらう支配下の官僚たちに証拠の隠蔽、改竄、廃棄をさせて自分の罪を逃れた。夫婦そろって最も責任のある「森友学園問題」では、その最終的責任を押しつけられた財務省の職員の一人を自死に追い込んだ。これが「暴力」でないとしたら、何と呼べばよいのか!

破廉恥にも、ガルトゥングの「積極的平和」という概念を全く逆の意味に用いて、明らかに違憲である集団的自衛権を認める戦争法制定、特定秘密保護法制定、や共謀罪創設を、彼の典型的な虚妄の主張のゴリ押しで次々と実現させた。(安倍のスピーチ・ライターの中には、ガルトゥングの「積極的平和」概念を意図的に誤用することを思いつくような、悪意に満ちた狡猾な知識人がいたようである。)

フクシマ事故の忘却を狙った東京オリンピック誘致の演説では、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」と世界に向けて大嘘をついて、その厚顔無恥のほどを曝け出した。放射能汚染水は今も大量に流れ込んで、完全に「制御不能」である。

外交では、彼の国家(=人種)差別意識が露骨に反映された。例えば、韓国に対しては、「日本軍性奴隷(いわゆる「慰安婦」)」問題での日本に対する戦争責任追求を「最終的かつ不可逆的解決」と称する「日韓合意」で終わらせようとした。この「合意」もまた安倍特有の誤魔化しで、事実は「10億円出すから今後はこの問題については黙れ」、つまり10億円という金で日本軍性奴隷の存在という歴史事実に関する記憶を買い取り、その記憶を抹消することを目的とする、傲慢不遜きわまりないものだった。

その一方で、アメリカに対しては卑屈といえるほどの低姿勢をとり、日本軍性奴隷問題では全く無関係のブッシュ大統領に謝罪し、沖縄基地問題や武器購入ではオバマやトランプ大統領に、飼い犬が尻尾をふるが如く媚びへつらって、武器の爆買いも行った。

再度述べておくが、安倍は「構造的暴力」をフルに活用して、元々脆弱な日本の民主主義を破壊した人物である。さらにトランプと安倍の2人は、大嘘をつきまくった国家首脳として歴史に名を刻み込んでおくべき人物である。

 

  

国葬は国家権力による民主主義破壊行為

岸田政権と自由民主党は、このような民主主義破壊者である政治家の死を、今度は国葬という形で政治的に利用しようと躍起になっている。

奇しくも、宗教というまやかしの蓑を被り、一般市民の精神的弱みにつけ込んで金を巻き上げ、反共を唱えている似非宗教団体(=実際には政治団体)と、多額の「寄付金(=賄賂)」を受け取ることに倫理的に無感覚になって腐敗しきっている多くの自民党議員との間での長年にわたる癒着が、安倍殺害事件を機にあばきたてられた。これを隠蔽する有効な手段として、安倍晋三を「立派な民主主義の防衛者」として祀りあげ、安倍が生前についた多くの嘘の上に、さらなる嘘で安倍を二重に覆い包み、自民党という政治権力の保身に努めるために、多くの外国人首脳を迎えて荘厳な国葬を執り行うことで、国民の思考を麻痺させようという目論みである。「卑劣な暴力」の犠牲になった政治家は、このような国家による神話化に利用するには最も都合の良い人物である。

ここには、靖国神社に東條英機をはじめとするA級戦犯たちを祀ることと同じロジックが働いている。A級戦犯という戦争犯罪人であっても、一旦、神社に祀られれば、「尊く、聖なる」人間として記憶され、崇められなければならず、彼らの個人的な過去は問題にしてはならないのであり、そのような軍人を生み出した日本帝国主義の歴史も問われてはならない。

同じように、国家権力が国葬を行うことで特定の人間を弔うことは、国家権力の正当化に都合の良い人間を祀り、その人間を神話化することで、国家権力そのものを正当化することと、実は直結しているのである。したがって、国葬は、国家権力を掌握している特定の政党、政治家に政治的利益をもたらす目的で執り行われ、「非政治的で、政治的に中立的な国葬」などというのはあり得ない。よって、国葬は明らかに憲法違反であると同時に、民主主義を破壊するたいへん危うい政治行為なのである。

さらには、これまた世界的に見られる傾向であるが、国葬の対象となる人間の大多数が男であって、女が国葬で弔われるというケースは極めて少ない。なぜなら、国葬の対象となる多くの男たちは政治家であり、近年急速に変わりつつあるとはいえ未だ政治の世界は男の世界であり、とりわけ日本ではそうである。したがって、国葬は、男優位文化を強化させることにもつながっている。

また、多くの国で、国葬には死者の霊を護衛する儀仗兵が葬礼で重要な役割を担い、弔砲や弔銃の発射を行うという儀式も行う。日本では天皇の「大喪の礼」で自衛隊がその役割を担う。このことは、国葬を通してその国家の軍事力を国民に向けて正当化するという象徴的な意味を持っている。すなわち、「国家は軍事力という暴力組織を持つことによって、初めて国家たりうる」という思想の正当化という役割を、儀仗兵は国葬を通して果たす。その意味でも、国葬は日本国憲法、とりわけ憲法前文と9条の理念に反している。

こうして国葬のもついろいろな要素を考えてみると、国葬は明らかに国家権力による民主主義破壊行為であり、これに徹底的に反対し、中止させることは、たいへん重要な市民の民主主義運動なのである。このことを私たちはしっかり自覚し、国葬反対の声を全国的規模で広げていく必要がある。