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2018年12月13日木曜日

2018 End of Year Message


2018年末メッセージ(日本語版は英語版の後をご覧ください)

Season’s Greetings and Best Wishes for the New Year.
As the end-of-year festive season quickly approaches, I would again like to share with readers of my blog a short but quiet moment to release ourselves psychologically from the current grim world situation, by reading a poem by the brilliant Australian cartoonist and poet, Michael Leunig, and by listening to a few pieces of fine music. I have selected the following poem with a lovely cartoon and five pieces of music. To me, they are exquisite and moving.
 
1) Theme from Schindler's List
Played by 2CELLOS - Luka Sulic (Slovanian) and Stjepan Hauser (Croatian).
Sulic and Hauser formed the duo 2CELLOS in 2012.
This piece, composed by the American composer, conductor and pianist, John Williams, is the main theme of the film Schindler's List, produced in 1993. The film, which was directed by Steven Spielberg, is based on the novel Schindler's Ark by the Australian novelist, Thomas Keneally. In October 1980, during a trip to the U.S., Keneally visited a briefcase shop in Beverly Hills in California, owned by a Jewish man by the name of Pfefferberg. Pfefferberg told Keneally that he and his wife were among the survivors of Schindler’s list. This unexpected meeting was the beginning of Keneally’s research into this remarkable, true story. 

2) Albinoni’s Adagio in G minor
Cello: Stjepan Hauser
Although this piece is often called Albinoni’s Adagio in G minor, and attributed to the 18th Century Venetian master, Tomaso Albinoni, it was not in fact composed by Albinoni. Rather, it is the work of Remo Giazotto who composed this music based on a manuscript fragment written by Albinoni. It is said that Giazotto obtained this fragment – consisting of a few opening measures of the melody line and the basso continuo part - shortly after the end of World War II. It was found in the ruins of the Saxon State Library in Dresden. The Library building was destroyed by the indiscriminate bombing of Dresden conducted by the British and U.S. air forces between 13 and 15 February in 1945. This reckless fire bombing killed about 25,000 people, mostly civilians.  

3) Pie Jesu composed by Andrew Lloyd Webber
Sung by Sarah Brightman and Paul Miles-Kingston
This piece is a part of Andrew Lloyd Webber’s Requiem. It is said that inspiration for Webber’s Requiem was the result of two separate tragedies: a journalist who had interviewed him only a few weeks before dying in Northern Ireland as a result of an IRA attack; and a Cambodian boy who was forced to murder his own sister or be executed himself. Webber's Requiem was first performed at the St. Thomas Church in New York City on February 25, 1985. Both Sarah Brightman (who, at the time, was Webber’s wife) and Paul Miles-Kingston performed in this concert.

“Pie Jesu” English Translation
Merciful Jesus, merciful Jesus, merciful Jesus, merciful Jesus. Father, who takes away the sins of the world. 
Grant them rest, grant them rest. 
Merciful Jesus, merciful Jesus, merciful Jesus, merciful Jesus. Father, who takes away the sins of the world. Grant them rest, grant them rest. 
Lamb of God, Lamb of God, Lamb of God, Lamb of God. Father, who takes away the sins of the world. 
Grant them rest, grant them rest
, everlasting, 
everlasting, 
rest.  

4) Oh Holy Night/The First Noel
By Fujiwara Dōzan (shakuhachi), and Slava Kagan-Paley (counter tenor)
Fujiwara started learning shakuhachi from his grandmother when he was 10 years old, and from 14 he began studying under the late Yamamoto Hōzan, a living national treasure. He is currently one of the most popular shakuhachi players in Japan, capable of playing a variety of music – from popular to classic and from Western to Japanese music – on this instrument. Slava Kagan-Paley was born in Gomel, Belorussia, and as a child he studied violin and piano. However, in 1976, he won the first television and radio competition for young performers in Minsk, as a singer. In 1987, he began singing at the Belorussian Academic Capella. He now lives in Tel Aviv.

5) Shika no Tōne (Howling Deers)
By Yorita Mamino (Shakuhachi)
Yorita began learning shakuhachi at the age of 8, and in 2013 graduated from the Tokyo National University of Fine Art & Music, majoring in shakuhachi. She is now one of very few female shakuhachi grand-master players in Japan. This performance was conducted at the Miho Museum, a magnificent building designed by world-renowned architect, I.M. Pei, in the mountains of Shiga Prefecture. It was an ideal venue to play this extraordinarily beautiful piece of classic shakuhachi music.         


2018年末メッセージ(日本語版)

今年も早くもまた年末がやってきてしまいましたが、例年のごとく、現在の日本ならびに世界の暗澹とした状況からしばし自分を精神的に解放するために、一編の詩と幾つかの音楽曲をこのブログの読者の皆さんと共有したいと思います。詩は、例年通り、私が最も尊敬するオーストトラリアの詩人・漫画家であるマイケル・ルーニックの作品です。音楽は、私が好きなセミ・クラシックと呼べるような曲、尺八演奏によるクリスマス・キャロルと古典曲の演奏を選んでみました。気に入っていただければ嬉しいです。
詩『いつもとおなじ』
マイケル・ルーニック

もしも、いつもとおなじ鳩が、おなじ老木で歌うのを耳にするなら
それは、愛と美しい無邪気さを思い出させるかも

でもそんな素朴さのかわりに、いつものうんざりした政治、
喧騒なドンチャン騒ぎ、汚いたくらみでいっぱいの文化を目にするなら……

いつものなじみの猫が、なじみの道にたたずんでいるのを目にするなら、
そんな静けさのなかに、幸せな真実さと愛らしさを
もう一度見つけることができるだろうか

(拙訳)

1) 映画『シンドラーのリスト』のテーマ音楽
2人のチェロ奏者ルカ・スーリック(スロバニア人)とステファン・ハウザー(クロアチア人)が、2012年に組んだ二重奏団「2チェロ」による演奏。
この音楽は、1993年に制作されたスティーブン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』のテーマ音楽として、アメリカの作曲家・指揮者でピアニストでもあるジョン・ウィリアムズが作曲したものです。ナチス支配下のポーランドのユダヤ人1,000人以上をドイツ人実業家オスカー・シンドラーが軍需工場で働かせることで助けたという史実に基づくこの映画は、オーストラリアの作家トーマス・ケニーリーの小説『シンドラーの方舟』をもとにしたものです。1980年10月、米国旅行中のケニーリーが、ビバリー・ヒルズの鞄屋に立ち寄ったところ、偶然この店の主人とその妻がシンドラーに助けられた人たちであったことを教えられました。この史実を初めて知った彼が、その後詳しく調査した結果に基づいて書いた小説が『シンドラーの方舟』だったのです。

2)「アルビノーニのアダージョ ト短調」
チェロ演奏:ステファン・ハウザー
この曲はしばしば「アルビノーニのアダージョ ト短調」と呼ばれることから、18世紀のヴェネチアの音楽家トマソ・アルビノーニの作曲と思われがちです。しかし、実際には、アルビノーニではなく、同じくイタリア人であるレモ・ギアゾットによる作曲です。にもかかわずアルビノーニの名前が付いている所以は、古いアルビノーニの楽譜の(出だしのほんの数小節と通奏低音の一部だけを記した)一片が第2次世界大戦直後にドレスデンで見つかり、これをアイデアにしてギアゾットがほとんど新しい曲を作曲したからです。この楽譜の一片は、実はアルビノーニの楽譜を所蔵していたドイツのサクソン州立図書館の建物が、1945年2月13〜15日に英米軍が行った激しい無差別爆撃で破壊され、戦後まもなく、その焼け跡から発見されたものだと言われています。ちなみに、このドレスデンの焼夷弾爆撃では2万5千人が大量殺戮の犠牲者となりましたが、言うまでもなく、そのほとんどが一般市民でした。ドレスデン空爆は、しばしば東京空襲と並べて、連合軍側が犯した無差別空爆大量虐殺の典型的な具体例として言及されます。

3)「ピエ・イエズ(恵み深きイエスよ)」
作曲:アンドリュー・ウェバー 歌:サラ・ブライトマンとポール・マイルズ=キングストン
この曲はアンドリュー・ウェバー作曲の『レクイエム(鎮魂ミサ曲)』の中に含まれている曲です。ウェバーは、2つの悲劇的事件に触発されて『レクイエム』を作曲したと言われています。一つは、ウェバーをインタビューしたジャーナリストが、そのわずか数週間後にIRAのテロ事件で北アイルランドで死亡したこと。もう一つは、カンボジアの少年が自分が処刑されるか、さもなくば妹を殺害することを強制されたという事件でした。この『レクイエム』は1985年2月25日にニューヨークの聖トーマス教会で初演され、その折にこの曲を歌ったのもサラ・ブライトマン(当時は彼女はウェバーの妻)とポール・マイルズ=キングストンでした。

「恵み深き主イエスよ」 ラテン語歌詞の邦訳
恵み深き主イエス、恵み深き主イエス、恵み深き主イエス、恵み深き主イエスよ。世の罪を除きたもう主なる父よ。われらに平安を与えたまえ、平安を与えたまえ。恵み深き主イエス、恵み深き主イエス、恵み深き主イエス、恵み深き主イエスよ。世の罪を除きたもう主なる父よ。われらに平安を与えたまえ、平安を与えたまえ。神の小羊、神の小羊、神の小羊、神の小羊よ。世の罪を除きたもう主なる父よ。われらに平安を与えたまえ、平安を与えたまえ。永遠なる、永遠なる平安を。

4)クリスマス・キャロル(聖夜/ファースト・ノエル)
尺八:藤原道山 歌:(カウンタ・テナー)スラバ・カガン=パレイ
藤原道山は尺八を10歳のときから祖母から習い始め、14歳で人間国宝の故・山本邦山に師事し始めました。今や彼は「邦楽の貴公子」と呼ばれる人気者で、イケメンであるところから女性にオッカケ・ファンが多くいます(私も彼の演奏会にこれまで数回行ったことがありますが、中年女性がやたら多いのにビックリ。市民運動の講演会でこれだけ多くの女性オッカケが集まるのは見たことがないので、羨ましい限り<笑>)。イケメンだけではなく、彼の尺八演奏技量は飛び抜けて秀れており、ポピュラー曲からクラシック、西洋音楽から和楽まで、なんでも尺八でみごとに演奏してしまいます。私が持っている尺八がどれほど良い音色がでるのか確認したいと思い、一度、彼の演奏会の後で、私の尺八を私の目の前で数十秒だけでしたが彼に吹いてもらいました。そのみごとな音色にびっくり仰天。「はい、これでいいですか?」と言われ、私はタダタダ沈黙<笑>。すばらしく透き通った美しい声のスラバ・カガン=パレイは、ベラルーシのゴメルで生まれ、子どもの頃はバイオリンとピアノを習っていたとのこと。しかし、1976年にミンスクのテレビ・ラジオ局が主催した若手音楽家のコンクールの歌唱部門で優勝し、1987年からはベラルーシア・アカデミー・カペラで本格的に歌い始めました。現在はイスラエルのテル・アビブに住んでいるとのこと。ただこの数年、なぜか彼の演奏会の情報はあまりありません。

5)「鹿の遠音」
尺八独奏:寄田真見乃
寄田真見乃は8歳から尺八を習い始め、2013年に東京芸大(尺八専攻)を卒業したひじょうに若い、京都在住の演奏家です。尺八を吹く海外の女性の数は比較的多いのですが(メルボルンにも、私の友人でアン・ノーマンという女性のプロの演奏家がいます)、日本ではひじょうに少ないです。そんな少ない女性の演奏家の中でも、きわめて秀れた技量をもっている人だと思います。この演奏は、滋賀県のひじょうに風光明媚な山あいに建てられた「ミホ美術館」で演奏されたもの。この美術館の建物は世界的に有名な中国系アメリカ人の建築家・I.M.ペイのデザインによるものです。秋の物哀しさを美しく歌い上げるこの曲を演奏するには、理想的な場所だと思います。




2018年12月7日金曜日

書評:731部隊と天理教


エイミー・ツジモト著『満州天理村「生琉里」の記憶天理教と731部隊』
    発行 えにし書房 2018年2月 定価:2000円+税

この書評は『季刊ピープルズ・プラン』最新号Vol.82に掲載されました。

  本書は、満州国建国宣言が出された1932年3月から2年半あまりの後、1934年11月から始まった天理教信者たちの満州開拓団移民の艱難辛苦の歴史を、「天皇制軍国主義の被害者」と「侵略戦争の加害者」という複眼的な視座から明徹に分析した労作である。天理教団による満州開拓団の積極的な公的歴史評価を、体験者のオーラル・ヒストリーに依拠して厳しく批判しながらその実態をえぐり出し、新興宗教組織の戦争責任を鋭く追及している。
  本書内容の紹介に入る前に、満州移民の歴史的背景について簡単に説明しておく必要があるだろう。
  満州国は、「五族協和」という多民族協調社会の基に「王道楽土」を実現するというスローガン=プロパガンダを謳い文句とする、日本の傀儡国家であったことは周知のところ。満州国内には関東軍が無制限、無条件に駐屯し、関東軍が必要とする鉄道・港湾・水路・航空路などの管理は全て「日本に委託」するという形をとることで、満州国は関東軍の強力な軍事的支配下に置かれた。また、「日満経済ブロック」構築(満州を日本の排他的な経済圏にする)という目標のため、1930年代には満州に対する投資が飛躍的に拡大。満州産業開発の重点は、対ソ連戦争準備のための軍需産業の建設に置かれ、その基礎として、1932〜36年に3千キロに及ぶ満鉄新線路が建設され、同時に、製鉄や石炭などの大規模増産がはかられた。
  これと並行して、日本国内の農村窮乏の緩和と満州における日本人の人口増加という一石二鳥をねらい、満州への農業移民政策が推進された。実は、この農業移民政策には、関東軍の戦力補強にも役立たせるという目的が含まれていた。小規模な試験的移民は1932年から始まっており、当初は、一村(母村)から分割して村の一部が集団で移民する「分村移民」が行われた。1936年8月、日本政府は、20年で百万戸=5百万人の満州移民を送り出すという妄想的とも言える計画を発表。日中戦争が始まった1937年8月には、この計画を推進するために満州拓殖会社を設置し、移住者のための助成、土地取得、分譲などの業務にあたらせた。さらに、1938年1月からは、貧農の次・三男の単身者(16〜19歳)によって組織される「満蒙開拓青少年義勇軍」が募集された。
  日本人移民のための土地・家屋は入植地の現地農民である中国人から「買収」したが、その実態は、極安の値段での強制的収用であった。こうした土地・家屋の収奪は抗日武装活動を活発化させ、移民村が襲撃されるという事件が頻発。関東軍は抗日ゲリラを「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗を行う賊)」と呼び、これ以降、「匪賊討伐」に明け暮れることになる。同時に「匪賊討伐」では、抗日ゲリラに通じているとみなされた村落が日本軍によって焼き払われ、住民が虐殺されるケースが各地で起きている。
  したがって、「青少年義勇軍」も実際には「武装移民」であり、明治政府が北海道に送った「屯田兵」と同様の性格のものであった。1936年からの5年間で、こうして満州拓殖会社が確保した土地は2千万町歩で、中国東北部の14.3パーセントに当たる。そのうち既耕農地は350万町歩で、これは当時の日本の耕地面積の過半数を超える広大な土地であった。しかし、1941年までの実際の移民農家数は、集団開拓団の2万7千戸を含む5万6千戸で、百万戸移民計画の約5パーセントにしか過ぎなかった。とはいえ、民衆、とりわけ貧農に土地所有への期待を煽り、豊かな生活への夢をもたせ、国内の不満を対外的に解消させる侵略戦争へと国民を動員する上で、一定の役割を果たしたことは明らかである。
  本書でも説明されているように、新興宗教の天理教信者たちだけが、宗教団体としての満州開拓団移民であったわけではない。天理教団と同様に「反政府的」あるいは「政府に非協力的」な宗教組織ではないかという疑念の目で見られていた日本キリスト教団、それだけではなく既存の諸仏教団体も、政府への服従・協力姿勢を表明するために満州移民政策に「賛同」し、満州開拓団を送った。これらの宗教団体は、形式的には「布教」も開拓活動の目的としていた。
  天理教団の場合には、1934年11月の第1次移民から1945年5月の第12次移民までの合計2千人近くが満州に送り込まれた。「ひとはいちれつ みなきょうだい」という徹底した人間平等主義を教義とする天理教は、天皇を絶対者とする国家神道とは本質的に異なるため、国体に反する共産主義的な組織とみなされて常に政府の弾圧の対象となってきた。しかし、教団解散の危機を避けるため、明治・大正期を通して教団は戦争協力の姿勢を徐々に強め、結局は侵略戦争に加担する開拓移民まで満州に送り込み、教義とは全く相反する中国人搾取を行いながらの「開拓」に勤しんだのである。
  天理教団が与えられた1千町歩の土地は、ハルビンから15キロほど離れた関東軍指定の「分譲地」であったことからも分かるように、当初から関東軍はこの「天理村」を軍のために利用することを考えていたと思われる。天理教団は、国内各地の信者から移住家族を募集、すなわち「分村移民」に似た「家族集団移民」という形態であった。天理村の周囲には鉄条網が張り巡らされ、東西は城壁のような門で固められており、警備が常駐するというものものしい環境。村の周辺で活動する抗日ゲリラに備え、常に関東軍が警備し、襲撃を受けたときには徹底した討伐を行った。関東軍が村の近くで演習を繰り返しただけではなく、村民たちにも小銃や実弾が配られ、関東軍による演習が男たちに課せられた。第1次移民団の場合は、半数以上が在郷軍人であったことからも明らかなように、「武装移民」という性格を強くおびていた。
  実はこの天理村は、かの悪名高い731部隊の一大研究施設が建設された平房に隣接する場所にあった。1938年にこの施設建設が開始されたときには、天理村の多くの成人男子が研究施設のレンガ積み作業に従事させられた。さらに、施設完成後には、ハツカネズミを飼育せよという指示が天理村の小学校に与えられ、子どもたちがその任務に励んだ。ハツカネズミは、明らかに731部隊の細菌兵器(ペスト菌)開発のために利用されたものと考えられる。ペスト菌だけではなく、731部隊が培養した炭疽病、腸チフスなどが天理村周辺で発生、流行し、天理村の村民や家畜にも犠牲者が出た。
  戦争末期になり戦況が悪化してくると天理村の青年たちも招集され、入隊訓練後に731部隊に配属された者も数人いた。筆者ツジモトは、その一人である人物からも聞き取り調査を行い、1945年8月9日のソ連参戦宣言発表直後、急遽殺害された人体実験用の多くのマルタ=捕虜の屍体焼却や施設建物の破壊など、731部隊証拠隠滅作業について詳しく記している。
  731部隊が貴重な研究成果、関係書類、食糧などを積み込んだ百輌にも及ぶ貨物列車とともに満州から逃避し、南洋戦域に送り出した精鋭部隊を戦闘体験のほとんどない満州開拓団の青年たちで代替した関東軍がすぐに総崩れしたあと、ソ連軍侵攻についてなにも知らされていなかった総勢27万人(その多くが女性、子ども、老人)の満蒙開拓団は文字通り置き去りにされた。天理村とその周辺の天理開拓団部落の住民たちも、侵攻してきたソ連軍兵士襲撃による殺戮、略奪、強姦、暴行などの残虐行為と、中国人「匪賊」による同じような復讐的な襲撃の被害者となった。結局、1946年10月になってようやく帰国できた天理村住民は合計千十八名、もともとの村民2千名のほぼ半数にしか過ぎなかった。しかも、この帰国は、国内での再び貧しい農業開拓生活の始まりでしかなかった。
  天理教団は、満州国天理村のこうした歴史を「大陸開拓の聖業に奉仕」したものと記録し、教団の戦争加担責任と、教団仲間を被害者にした責任をすっかり忘却しただけではなく、正当化してしまった。日本にとって極めて重要な戦争責任問題について宗教組織の側面からの考察を試みている本書は、ひじょうに示唆に富む労作である。