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2015年3月16日月曜日

東京大空襲、米国と日本の戦争責任


先週火曜日310日が東京大空襲の70周年であったことから、昨日315日のオーストラリア公共放送局ABCの週間ラジオ番組Japan in Focusで、インタヴューを受けました。
質問は、「なぜ東京大空襲を記念する国立の博物館がないのか」、「なぜ米国は謝罪しないのか」から始まって、安倍政権の戦争責任逃れまで多様でしたが、たったの6分間(番組放送開始1分から7分少々まで<全部で15分ほどの番組>)の短いインタヴューでしたので、できるだけ簡潔に答えておきました。

英語ですが、ご興味があれば聴いてみていただければ光栄です。
下記アドレスで番組がダウンロードできます。
http://mpegmedia.abc.net.au/newsradio/audio/201503/r1400917_19993537.mp3

2015年3月11日水曜日

講演ノート


何のための被爆体験継承か?
      「過去の克服」としての記憶の継承を考える
「さよなら講演」(2015221日)のための講演ノート

221日に広島アステールプラザで開かせていただいた「さよなら講演」のために準備した講演ノートが、3月16日発売の『広島ジャーナリスト』20号に掲載されます。下記アドレスからそのPDF版をダウンロードできるようにしました。拡散していただければ光栄です。

すでに30年ほども前から「被爆体験の風化」という危機感から「被爆体験の継承」が言われはじめましたが、原爆無差別大量殺戮70周年目を前に、この問題は今や切実な現実性をおびて私たちに迫りつつあります。いかに悲惨な人間体験であろうとも、その記憶は時間とともに薄れ消滅していくことは避けられません。ある特定の体験記憶が継承されるためには、その体験が内包する「精神」が普遍化され、時代と場所を超えて多くの人たちに共有されなければなりません。そのような「広島精神の普遍化」は果たして可能なのでしょうか?可能であるならば、いったいどのようにすれば可能なのでしょうか?このひじょうに難しい問題を考えるために、ドイツの「過去の克服」から学ぶことはできないか、という考えから講演ノートを準備しました。

ドイツのメルケル首相が訪日して、ドイツの「過去の克服」に関する彼女の発言が日本のメディアでも報道されています。このドイツ首相の訪日が、私たち日本の市民にとっても、自分たちがいかに「過去の克服」に向けて運動をすすめていくことができるかを真剣に考える機会となればと強く願います。

講演ノート

ちなみに、実際の講演ではコンピューター作動の不備から、講演内容と関連するユーチューブをお見せすることができませんでしたので、そのアドレスを下記に貼り付けました。また時間の制限から、講演中のパワーポイントでお見せできた写真の数にも限界がありましたので、もう少し、写真が見れるように関連情報サイトのアドレスも貼り付けておきました。講演ノートを読みながら参考にしていただければ幸いです。


箏曲「六段の調べ」
グレゴリアン聖歌「クレド III

黒澤明監督『夢』の中のエピソード「トンネル」

ゴヤとピカソの絵の関連性についての解説(英文の一例)

下記情報もすべて英文ですが:
ケーテ・コルヴィッツの作品の紹介
エルンスト・バルラハの作品紹介
インゲ・ノイフェルト(キング)の紹介



2015年3月9日月曜日

読書感想


 
読書感想 — 憲法9条、安保体制、沖縄米軍基地の問題を考える上でとても有意義な著書の紹介 —

矢部宏治著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)

この本は今たいへん評判になっていますので、すでに読まれた人も多いかと思います。著者は55歳の、「書籍情報社」という小さな会社の社長さん。昨年10月に第1刷が出てから、今年1月ですでに第7刷という売行きぶり。同じ物書きを職業とする者としては、うらやましいです(笑)。

矢部氏は政治学者でも歴史学者でもありませんが、おそらく安保問題、憲法問題、その両方の問題のとりわけ歴史的背景については、そうとうの量の関連図書を読み込んでいることは明らかです。この本の内容は、誰にでも入手できるそうした関連専門図書を十分読み込んだ上で、そうした著作から得られる重要な情報を相互関連させながら、なぜゆえに日本は「基地」と「原発」を、とりわけ「沖縄米軍基地」をなくすことができないのかという、誰しもが考えるごくあたりまえの疑問を、安保条約と憲法の成立過程に沿ってみごとに簡明に、とても分かりやすく解説しています。

本のタイトルにある「原発」問題については、安保との関連でごく簡単にしか触れていませんので、「原発」廃棄が日本にとってはなぜこれほどまでに困難なのかという問題について詳しい解説を求める人にとっては、少々物足りないと感じるかと思います。しかし、沖縄をはじめとする在日米軍基地のほとんど永続的維持を可能にしている安保条約が、その権限という面では、なぜゆえに現実には日本国憲法より上位にあるのか。この疑問について、実はこれが国連憲章やサンフランシスコ平和条約の設置と深く関わっていた歴史的背景を明晰に解説しています。それだけではなく、憲法9条(とくに第2項)の設置そのものが在日米軍基地の永続的維持とセットになっていたという歴史的背景についても、ひじょうに分かりやすく説明しています。しかも、この最も重要な問題に裕仁*が深く関わっていた事実(これについても、実はすでに研究者の間では周知のことですが)について詳しく述べています。

*(私はこれまでも「昭和天皇」、とくに「天皇」という用語を使うことにいつも違和感を持ってきましたが、今後は、「天皇」という用語は、昭仁を含め、どの天皇にもできるだけ使わないことにします。その理由については別の機会に詳しく説明することにします。)

この本に説得力があるのは、こうした政治史的な問題について全くの素人である著者が、誰しもがもつ基本的な疑問を解くために、自分なりに一生懸命に勉強して解明したことを、他の人にも分かるように簡明に、しかし鋭く解説しているからです。「学者」と自称する多くの俗物のように(その中の一人に私自身も含まれるかもしれませんが)、難解な問題を分析しているという偉そうでもったぶったスタイルを全くとっていないため、ごくスムーズに読者の心に入ってくるという、読みやすさが利点です。

結論の一部として矢部氏は、次のように述べています(264265ページ)。

戦後日本という国家のなかに、
「すべての軍事力と交戦権を放棄した憲法九条二項」と、
「人類最大の攻撃力をもつ米軍の駐留」
が共存するという、きわめて大きな矛盾が生まれてしまった。そうした矛盾を内包したまま、「米軍が天皇を守る」という非常に歪んだ形で、戦後日本(安保村<=安保擁護・利権者グループ>)の国家権力構造が完成することになったのです。(<>内は田中が加筆)

戦後しばらくすると、米軍に守られた日本の天皇制は「天皇なき天皇制」として完成し、今も存続しているというのが矢部氏の主張です(「あとがき」を参照)。ただし、矢部氏は現在の天皇制自体の廃止には反対という点で、「天皇制の撤廃なくして、『天皇なき天皇制』社会の消滅=民主主義的社会の成立はありえない」という私の個人的意見とは異なります。

上記の結論部分を読んで私がひじょうに興味深く思ったのは、この「平和憲法」、「米軍駐留」、「天皇制維持」という3つの原理は、評論家・武藤一羊氏がこれまで長年にわたって議論を展開し深めてきた、戦後日本国家の正当化原理である3つの原理、すなわち米国の覇原理憲法平和主義原理帝国承原理の相互に矛盾する3原理とぴったりと符合するということです。すなわち、米軍基地を主軸とする安保体制による「米国の覇権原理」、9条を主軸とする「憲法平和主義原理」、家父長制的天皇制イデオロギーを主軸とする「帝国承原理」という相互に矛盾する3つの原理が、矛盾しながらもバランスをとりながら戦後の日本という国家の存在を正当化してきたという、みごとな分析理論です。この分析理論をとくに沖縄問題、原発問題に照合させる形で議論を展開したのが、2011年出版の武藤氏の名著『潜在的核保有と戦後国家フクシマ地点からの総括』(社会評論社)です。矢部氏は、武藤氏が理論的に、鋭利に分析した戦後日本国家の構造の全体像を、きわめて実証的で具体的な描写で読者に提供していると言えます。したがって、私は、矢部氏のこの本を読まれた人には、武藤氏の著作も読まれることを強くお勧めします。

私が感心するのは、矢部氏がひじょうにしっかりした歴史認識をもっていることです。著書のあるカ所(188189ページ)で、彼は次のように述べています。

日本人はその(=歴史を無視すること)の恐ろしさを全く知らず、歴史を非常にいいかげんにあつかっている。だから平気で都合の悪い公文書を廃棄し、そのときそのときで「安保村」にとって都合のいいストーリーだけを、御用学者たちに「事実」だと認定させているのです。
ひとりの人間にたとえて考えてみてください。そもそも過去の記憶がなければ、個人としての統合性がたもてるはずはありません。現在の日本の混迷の大きな原因のひとつは、国家全体が過去の記憶を隠蔽・廃棄し、その当然の結果としてインテグリティ(統合性)を喪失した状態になっているというところにあるのです。<()内は田中による加筆>

つまり、「過去の克服」、言い換えれば、私たち日本人の戦争責任を徹底的に追及し果たすことなしには、現在の日本社会を民主化することは不可能であるという、私が常に主張している意見と全く同じ見解を、ただ違った言葉で、もっと分かりやすく表現しています。「統合性の喪失」という表現は見事です。

それでは、上記の3つの原理の間の矛盾、とりわけ米軍基地の永続的存在と平和憲法の間の矛盾をどのように解決し、米軍基地の日本領土からの撤廃を実現するにはどうしたらよいのか。この問題に対し、矢部氏は、憲法92項を完全に変更すべきであるという提案をしています。憲法9条をもう一度見てみましょう。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国の発動たる争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

矢部氏は、1項はそのまま維持し、2項を、米軍基地撤廃に成功したフィリッピンの憲法に学んで、「前項の目的を達するため、日本国民は広く認められた国際法の原則を自国の法の一部として取り入れ、すべての国との平和および友好関係を堅持する」という表現に変更することを提案。さらに、「この改正憲法の施行後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可されない」という条文を加えることも提案しています。なかなかの名案です。実は、私も本来は「9条改正主義者」で、以前は、外国の軍隊であれ自国の軍隊であれ、どんな形でも軍隊を日本の領土には絶対に置けないような条文に9条を改正すべきであるという主張をしていました。ところが、「現行の9条維持そのものが危険にさらされている状況で、改正を要求するとはなにごとか」と、広島の反戦平和活動家仲間たちからいたく批判されたため、今は「9条擁護主義」の立場をとっています。

しかし、上記のような9条改正を唱える矢部氏は、日本が軍隊を保持することに賛成であり、その点では、軍隊はいかなる形のものであれ持つべきではないと考えているであろう、日本全国にある様々な「9条の会」の多くのメンバーとは意見を異にしているようです。世界には、憲法で恒久的制度としての軍隊をし、常備軍の止も規定しているコスタリカのような国は数多く存在していることを私たちは忘れてはなりません。軍隊を保有しなくとも、いや軍隊を保有しないからこそ国家を「防衛」しやすいというのが本当は現実なのです。その本来の現実がみえないようにしているのが、世界の政治体制なのです。

しかし、その一方で、矢部氏は次のように文章でこの本を締めくくっています(278ページ)。

本当の意味での「戦後体制からの脱却」とは、そのためにドイツのように国家として誠心誠意努力し、周辺国から根強い不信感を払拭することなのです。そしてその先に、ASEANEU(または本来の国連)のような「不戦共同体」を、東アジアの地に創設することなのです。


矢部氏の意見には賛成できない点も少なからずありますが、著作全体としてはひじょうに有意義で、現在の安倍政権が次々と打ち出している様々な嘘とゴマカシに基づく政策がいったいどのような歴史的背景から来ているのかを知り、私たち市民が安倍政権にどのように立ち向かっていくべきかを考える上で、とてもよい思考刺激を与えてくれる本であると思います。