ページ

2015年2月26日木曜日

ある元「天皇崇拝主義者」による「過去の克服」


ある元「天皇崇拝主義者」による「過去の克服」

今年2月中旬、私は福島県郡山市にある郡山細沼教会を訪ねた。この教会は、1900年(明治33年)に開設された当時の郡山町日本基督教講義所に由来するとのことである。現在の教会の建物は1929年に建てられたもので、プロテスタント教会としてはめずらしく、礼拝堂中央の説教台の背後には大きくて見事なデザインのステンドグラスがはめ込まれており、どこかカソリック教会のような雰囲気を醸し出している。並べられている椅子は重厚な漆黒の木製で、説教台の横には立派なパイプオルガンが置かれている。この礼拝堂に一歩足を踏み入れるや、信仰者でない私ですら、なにか厳粛な気持ちにさせられる。国の登録有形文化財に指定されているのも不思議ではない。2011311日の東日本大震災でこの教会の建物はかなりの被害を受けたが、郡山市からの財政援助のほかに韓国の基督教連合会からの多額の支援もあって、201276日には修復を完了させたとのこと。

私がこの教会を訪問した理由は、この教会の牧師、武藤清氏にお会いするためであった。武藤氏のことを初めて知ったのは、2014102日の『朝鮮日報』に掲載された以下のような記事からであった。

「(201410月)1日午後、ソウル市内の在韓日本大使館前で行われた慰安婦問題の解決を求める1146回目の 「水曜集会」に、年配の日本人牧師3人が参加した。韓日教会協議会に所属する日本人のシダ・ト シノブ牧師(75)3人は、水曜集会に参加した韓国の市民150人の前で、旧日本軍出身のムトウ・キヨシ牧師(87)の代わりに罪を告白する文章を読んだ。福島県在住のムトウ牧師は17歳で志願入隊し、血書を提出して神風特攻隊員となり、自爆訓練を行った。日本人牧師たちは『自身 の過ちで苦しんできたムトウ牧師は、死ぬ前に必ず慰安婦被害者の元を訪れて謝罪したいと水曜集会への参加を準備していたが、先ごろ手術を受けて自由に動けないため、やむを得ず謝罪文をわれわれに託した』と説明した。」

この記事を目にしてから、どうしても武藤氏に直接お会いして、血書提出までして特攻に志願した若者がどのような精神的変革を経て牧師になり、87歳という年齢で元「慰安婦」に謝罪文を送ることを決意されたのか、その経緯をぜひお聞きしたいと思うようになった。数回の手紙交換があり、2月中旬に私が上京する機会に合わせて、お会いしていただけることになったのである。

実は、上記『朝鮮日報』の記事には誤りがあり、武藤氏は神風特攻隊員ではなく、暁船舶特攻隊員であったことをお会いする前に武藤氏からの書簡ですでに教えられていたのであるが、その詳細は直接お会いしてから知ることとなった。

武藤氏は郡山市湖南町の出身で、地元の会津工業学校に進学。在学中に国士舘大学卒業の愛国主義的な国語・体育教師の思想的感化を受けて、この教師が若者を集めて私的な形で開いていた聖雲塾にも参加。若い塾生の中でリーダー的な存在となった。武藤氏はその熱烈な愛国心をかわれ、在学中に学校から選抜されて、19448月に小豆島に設置された陸軍船舶幹部候補生隊を見学する機会を与えられたという。

幹部候補生とはいえ未だ20歳にもみたない青年たちで編成されたこの隊の目的は、「敵の上陸部隊を海上で先制攻撃し、輸送船もろとも撃滅させる特殊訓練」であるが、現実には自滅の特攻攻撃訓練である。使用する舟艇は四式肉迫攻撃艇、マルレ艇(連絡艇の略、の中にレと書く)と呼ばれたものであるが、実際には、1人乗りのベニヤ板で作られた安物のモーターボートで、120キロ爆雷を操縦席の左右に2個搭載し、敵艦に接近してボートはUターンしながら爆雷を投下して離脱、爆雷は7秒後に爆発するという理論。形式上は体当たり攻撃ではないが、実際には特攻と変わりはなく、生存の可能性はほとんどない。海上挺進戦隊と呼ばれたこの船舶特攻隊の一個戦隊は、戦隊長以下104名、マルレ百隻をもって編成され、194410月までに30戦隊3000隻が編成されたという。1944年入隊の第1期生から翌年の第4期生まで総勢8千人ほど。特別訓練を経た第1期生は海上挺身隊員として小型舟艇に爆雷を搭載してフィリッピン、沖縄、台湾方面の第一線に出陣し、敵艦船に肉迫攻撃を敢行して、そのほとんどが亡くなっている。第2、第3期生は本土の小豆島以外の要地に、第4期生は小豆島沿岸の各地に分散配備されたが、特殊任務を決行する前に終戦となった。武藤氏のような当時1516歳の少年に、このような特攻訓練を受けている「幹部候補生隊」を見学させていたとは驚きであるが、それほど日本では兵員数が激減していたということであろう。今では神風特攻だけが注目を浴びているが、「天皇陛下のため」という名目で、実は数多くの若者たちが、船舶特攻隊としても「犬死に」させられたのである。

見学を終えて間もなく、武藤氏は志願して船舶幹部候補生として愛媛県伊予三島の陸軍船舶隊(いわゆる暁部隊)に入隊、矢野部隊に編入された。陸軍が船舶部隊を編成したというのもおかしな話であるが、伊予三島の陸軍船舶隊では、実は、当時戦艦、船舶をほとんど失っていた海軍に頼らずに、陸軍が自力で戦線へ物資を輸送するための中型潜水艦マルユ(の中にユ、ユは輸送のユ)を極秘で開発・製造していた。しかし、当時は艦船製造に従事する工場のほとんどが海軍の支配下にあったため、陸軍は蒸気機関車を造っていた日立製作所笠戸工場に製造を依頼。潜水艦など製造したことのない工場なので、できあがった潜水艦は速力も遅く、潜航することもままならず、潜水艦というよりは潜水艇と称すべきものだったそうである。武器は前部上甲板に搭載された戦車砲の改造型のみで、食糧・弾薬・医薬品等の物資輸送を任務とした。なんとか194312月に1号艇が完成し、以後敗戦までに40隻が就役し、さらに10隻が建造中であったとのこと。40隻中、3隻が比島レイテ湾で、1隻が下田港で戦火に沈み、また1隻が荒天のために遭難し、敗戦時には35隻が残っていたそうである。死亡した搭乗員は300名を超すと言われているが、詳細は不明である。

17歳で入隊した武藤氏が3ヶ月の訓練期間を終えて間もなくの19454月、総勢2千人の暁部隊の中から50名が特攻隊員として選抜され、小豆島に送られることになった。これを知った武藤氏は、唯一人、自ら志願して隊長に血書嘆願書(ハンコの代わりに、指先を切って血で押捺する嘆願書)を提出したのである。当時、武藤氏が書き綴っていた日記『修養録』には、現人神・天皇のために自分も命を捧げ神となる強い決意と熱い思いが毎日のように記されている。ところが、5月に入るや、選抜された50人のうち、唯一人の志願者である武藤氏ともう一人の2名がリストから外され、その年の10月に予定されていた陸軍士官学校入学試験を受験するようにとの命令が下された。日記には、死を覚悟している自分に士官学校入学を命ずる隊長への不満と苛立ちが記されている。そして815日を迎え、天皇の「終戦の詔勅」を聞くや、武藤氏は天皇の神格性をいまだ信じたいという思いと、「無条件降伏と全面的武装解除とは、なさけなし、なげかわし、……. これが神国日本か」、「神国の国体は虚なりや」というように、現人神・天皇崇拝に対する不信の念との葛藤に悩まされることになる。しかしこの葛藤も長くは続かず、この時期多くの日本人がそうであったように、故郷に戻った頃には、彼は精神的虚脱状態となっていた。

幸いにして小学校代用教員という職が見つかったため、生活に困窮することはなかったが、精神的には常に深い無力感を感じていた19463月、兄の本棚に置かれていた聖書を見つけ読み始め、その内容の高い倫理性に徐々に惹かれるようになった。そんなある夜のこと、偶然に細沼教会の近くで布教活動をしていた教会員に誘われ教会に行き、牧師・井関磯美と出会った。彼を通して聖書を学び基督教を信仰するようになった武藤氏は、19474月の復活祭に受洗している。井関牧師はかなり強靭な信念の持主であったようで、1929年に東北学院神学部を卒業してすぐに酒田に副牧師として赴任しており、戦時中も女性のための塾を開くなどして基督教者としての信念を貫き通したようである。19444月に細沼教会に赴任しているが、国際平和協会郡山支部機関誌「PEACE平和」を発行するなど、平和活動にも熱心だったようである。

受洗後、武藤氏は牧師になることを願ったが、戦後間もない経済困窮時代の牧師としての生活がいかに困難なものであるかを身を以て体験していた井関牧師は、武藤氏に教師職を続けながら伝道することを強く勧めた。その助言を受けて、武藤氏は教師を続けながら聖書研究会や日曜学校を開く活動を続け、1988年に教員職を退職。1991年に日本基督教団補教師試験に、93年には正教師試験に合格しており、19924月から細沼教会の牧師を務めている。

細沼教会の2階には「韓国資料室」とでも称すべき小部屋があり、この部屋には、ソウルの日本大使館前やアメリカの幾つかの場所にも設置されている「慰安婦少女像」の小型のものが、キリストの「最後の晩餐」のレリーフ絵の横に置かれており、壁には日本植民地時代に神社参拝を拒否して拷問を受けた孫良源牧師殉教記念館を紹介する写真や説明文、交流を続けている韓国の幾つかの教会との交流活動に関する写真や情報が張りつけられている。武藤氏は、日韓教会協議会の会長を務めており、これまで4回にわたって韓国を訪問し、とりわけ全羅南道各地の教会との交流を深めてきた。訪問するたびに、植民地時代、とりわけアジア太平洋戦争時代に韓国人/朝鮮人がいかに日本軍の蛮行の犠牲者となってきたか、その歴史をまざまざと知るようになった。と同時に、自分が妄信していた天皇イデオロギーがいかにその非道な日本帝国主義・軍国主義を支える支柱となっていたかについて痛感するようになった。これまでの訪韓でも、武藤氏は、植民地時代、戦時期における日本の残虐行為について、韓国の教会で謝罪し、赦しを請うことを繰り返し行い、韓国の教会員からも寛大な歓迎を受けている。東北大震災で細沼教会が受けた建物被害に対する韓国教会からの多額の支援も、こうした長年の交流の積重ねという背景があるからこそである。武藤氏によると、ソウル郊外の墓地にはすでに武藤氏のための墓地が確保されており、そこに建てられる予定の横長の墓碑には、「日本の罪を赦して下さい」という内容の文章が刻み込まれることになっているとのこと。

これまで韓国の教会で日本の戦争責任について謝罪してきた武藤氏であるが、天皇崇拝主義者であったという自分の痛恨の思いと、そのことゆえ自分にも重大な戦争責任があるという意識について、韓国の教会の外でその思いを明らかにし、謝罪したことはなかった。しかし、現在、日韓関係で大きな問題となっている日本軍性奴隷問題では、武藤氏は自分が亡くなる前にぜひとも被害者の女性たちに直接会って謝罪したいという強い願いを持つようになったのである。ところが、予定していた昨年10月の訪韓を腰痛のために果たせなかったため、謝罪文を同僚の牧師たちに託して、元「慰安婦」のハルモニたちに届けたという次第であった。

この武藤氏の生涯に、私は、日本が国として完全な失敗に終わっている「過去の克服」を、個人として徹底的に貫徹させようとしている奮闘努力の見事さを見いだす。「過去の克服」とは、テオドア・アドルノが「アウシュヴィッツの原理に対して唯一ほんとうに抵抗できる力」として述べたように、「反省する力、自己規定する力、そして(権力に)加担しない力」<()内は引用者による加筆>であるが、このことの実践を私は武藤氏の行動の中にはっきりと見いだすのである。

田中利幸

2015年2月13日金曜日

栗原貞子の反核と憲法擁護思想


栗原貞子の反核と憲法擁護思想

栗原貞子(19132005年)が、代表作「生ましめんかな」で世界にその名が知られる詩人であることについてはあらためて説明するまでもない。原爆投下直後に広島貯金支局の地下で重傷の助産師が産気づいた女性の赤子を取りあげた状況を詠った「生ましめんかな」は確かに傑作であるが、私は「<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>」という一節を含む詩、「ヒロシマというとき」が最も優れた作品だと思っている。

実は、昨年5月、栗原が1975年に執筆した「核文明から非核文明」と題した手書の原稿を、原稿を保有していた元広島市長(199199年在職)・平岡敬が公表し、広島女学院大学に設置されている「栗原貞子記念平和文庫」に寄贈した。この原稿は、被爆30周年にあたる75年に、中国新聞が市民から募った懸賞論文「昭和50年代への提言」に応募した論考原稿であった。応募した論文は全部で291編、その中から特選1編と入選・佳作各5編が選ばれたのであるが、栗原論考は選外となった。選考にあたった委員の一人が、当時、中国新聞の編集局長であった平岡だったのである。

この論考を今読み返してみると、敗戦後の占領期から75年までの30年間の日本の政治社会状況の歴史をきわめて簡潔に且つ鋭く深く分析し、その上で75年現在の産業公害と核=原子力公害を徹底的に批判するその分析の明晰さに驚かされる。50年代に被爆者がほとんど批判の声をあげなかった「原子力平和利用」、さらにそれに続く60年代から70年代の原発推進を「戦後の虚妄」として一貫して批評するこの論考を、中国電力から多額の広告依頼を頻繁に受けていた中国新聞がボツにしてしまったのも全く不思議ではない。これもあらためて説明する必要がないことではあるが、栗原がこの論考を執筆した1年前の74年には、田中角栄政権が原発の猛烈な推進を目的に電源三法を成立させ、中国電力が島根原発を稼働させた年でもある。73年には四国電力が愛媛県の伊方で原発建設に着工している。

広島における反核兵器の論客の一人であった平岡自身が、2011311日の福島原発事故まで強力な原発推進派の一人であったことは広島では周知のところである。平岡に限らず、現市長を含むこれまでの広島の歴代市長の中で反原発を掲げた者は一人もいない。「核兵器の究極的廃絶」というお題目だけは唱える一方で、「核抑止力」は容認し、原子力利用についても積極的な態度を表明するか、あるいはなんら異議を唱えというのが彼らに共通してみられる態度である。その中で唯一人、平岡のみが311後まもなく、原発推進派であったことの自己反省を公の場で行ったという点で、彼の真摯な人間性が窺える。40年ちかく経った2014年に栗原のこの論考を公表したのも、そのような反省に基づくものであろうことは容易に推測できる。

栗原のこの論考における傑出した論点の一つは、被爆者団体を含む広島のほとんどの反核運動組織や活動家が原発賛成派だった70年代半ばのこの時期に、栗原がその広島で単に反原発思想を展開したことに留まらず、原発稼働と核兵器製造が表裏一体となった不可分な問題であることをいち早く指摘していることである。一方で彼女は、「原発事故によって大量の放射能が漏れた場合局部的に、ヒロシマ・ナガサキの悲惨が現実のものとなるであろう。たとえ放射能事故がない場合でも、原子炉を冷却した温排水に含まれた放射能が魚介類を汚染している…….. 一度封じ込めた死の灰を含む放射性廃棄物は核エネルギーの利用度が高まるにしたがってますます増大し、これを廃棄する場所もなく、地球全体の汚染にまで発展しようと」していると指摘。しかし同時に、「当初いわれていた原子力電力のコスト安が、重なる事故などで逆にコスト高になるにもかかわらずエネルギー源としての経済性をも無視して原発が推進されているのは、原爆の材料であるプルトニウムをつくり出すのが目的とされていることや……産業界内部にある日本核武装の意図…….とも切り離して考えられない」と結論づけている。

1960年代後半から70年代初期にかけて、佐藤栄作内閣の下で秘密裏に日本核武装の可能性が本格的に検討されていたこと、さらには現在も日本政府は核兵器製造潜在能力を維持し続けたいと考えていることは、今となっては明らかであるが、75年当時にこのような先駆的な批判を展開した作家は日本ではほとんどいなかったのではなかろうか。

ところで、栗原がアナーキストであったことはよく知られている。そのアナーキストであったはずの栗原が、憲法擁護を行う発言をこの75年の論考の結論部分に含ませている。つまり、「被爆以来三十年、占領軍を解放軍とした一面的認識、加害原点を温存し、再び戦争犯罪人を政権の座につかせ国民自らの力で戦争責任を追求し得なかった無力さが、三百万の血の中から生まれた戦争放棄の憲法を空洞化させ、戦争中の生命を鴻毛の軽きに比して人的資源とした生命軽視が、戦後は人間無視の公害タレ流しとなってはびこっている」(強調:引用者)と論じている。

彼女の憲法擁護思想は晩年になるほど強まっていったようである。1992年に「第九条の会ヒロシマ」が立ち上げられ、その年の86日以来ほとんど毎年この会は新聞に意見広告を出し続けているが、92年の標語、「憲法九条はヒロシマの誓いそのものです。再び、アジアの人々へ銃を向けさせまい」は、栗原が提案したものである。93年、94年の標語も彼女の案によるが、国家憲法などに価値をおかないはずのアナーキストの彼女にとってすら、憲法九条は市民を守る最後の砦とも言えるものと見なされていたのではなかろうか。しかも、それは、戦争加害と被害のどちらも起こさせまいとする強い願いから。

田中利幸

『反改憲 運動通信』No.9 2015226日発行)掲載予定